友部正人より 
友部さんからのお便りのご紹介です。

2005年1月1日(土) New Year’s Eve
ぼくとユミは12月28日からニューヨークに来ています。1月18日までこちらにいる予定です。日本はとても寒くて、雪が積もったそうですが、こちらの大晦日は異例の暖かさで、暖房のきいた部屋にいるのがつらいくらいでした。セントラルヒーティングなので融通がきかず、部屋中の窓を開けて対処したのですが、それぐらいでは室温はなかなか下がりませんでした。
ぼくは大晦日の夜はマディソンスクエアガーデンにWILCOのコンサートを聞きに行きました。夜8時から始まって、最初がSLEATER-KINNEYで、2番目がFLAMING LIPS、3番目がWILCOという順番でしたが、ぼくはFLAMING LIPSが終ったところで会場を出ました。セントラルパークのミッドナイトランに行きたかったからです。WILCOは見られなかったけど、念願のSLEATER-KINNEYが見られて満足でした。FLAMING LIPSは劇団のようなバンドで、大勢で大騒ぎをしていましたが、ぼくはWILCOを少しでも見てから帰りたかったので、早く終ることばかり願っていました。
セントラルパークのミッドナイトラン(4マイルレース)は元々は走るつもりじゃなかったのに、スタート地点でヨシやマドレインに会ったら走りたくなって、登録はしていなかったのに、まぎれて走ってしまいました。(走る服装で行ったのですが。)しぶっていたユミも、いざ走り出したらゆっくりの人たちをびゅんびゅん追い抜いて、瞬く間に前方に見えなくなったのでぼくはびっくりしました。途中にアルコール抜きのシャンペンサービスもある遊びのレースでしたが、パーティでお酒を飲んで過ごすよりはずっといいと思いました。
友部正人
1月2日(日) すごろく
ついにすごろくで初めて遊びました。このすごろくはぼくのライブの主催者が、去年の11月の福岡ライブのお客さんのために製作したものです。すごろくにつきものの「進め」「戻れ」「休め」などの指示は、ぼくの歌の詞を利用しています。「ボスニア・ヘルツェゴビナがなかなかうまく言えず2つモドル」という感じです。すごろくの中の30枚のイラストは、去年の秋にニューヨークでぼくが描きました。
すごろくなんてしばらくしたことがなかったのですが、やってみると興奮するものです。とても単純な遊びなのに。大人4人でやったのですが、トップがゴールするまで1時間かかったかな。戻ったり休んだりでなかなか進まないのです。おかしかったのは、ユミが4回も振り出しに戻ったこと。すべて偶然なのでしょうが、こうなると何か魔法にかかっているとしか思えません。最初の人がゴールしたとき、ユミのコマはまた振り出しにいました。それでもユミはみんなのコマが止まったところの詞を口ずさんだりしていました。すごろくでコンサートができそうでした。
今日は一緒にすごろくをした友だちのメグの誕生日だったので、メグの家でケーキを食べたりお正月料理を食べたりしました。メグが作ったごまめや栗金時はとてもおいしかったし、メグの息子がサンフランシスコから運んできたつきたてのもちもおいしかった。ユミは丹波篠山の知人が毎年送ってくれる黒豆を煮て、それを持っていきました。丹波篠山の黒豆の上等さは他のとは大違いで、「おいしいのは豆のせい」とユミも言っていました。
食事の後「モンスター」という映画をケーブルテレビで見たのですが、目が離せなくなるくらいすごい映画でした。最後まで見たかったけど、クイーンズからマンハッタンまでは遠いので半分だけにして、続きは後日レンタルビデオか何かで見ることにして帰りました。でも早く見ないと、このままいつまでも興奮した状態が続きそうです。とてもかわいそうな結末らしいですが。1年前にニューヨークで公開されているときに見ておけばよかったと思いました。
友部正人
1月6日(木) クリストとジャン・クロード
ユミは3日から、ぼくは昨日から風邪で寝こんでいました。元気になったユミは久しぶりに外に買い物に行っていました。ここ3日間ニューヨークはずっと雨です。霧雨なのでよく目をこらさないと見えないのですが。でも屋根はべっとりとぬれています。もう少し気温が低ければ大雪になったのに。そしたらまた学校は休みで、ホリディ明けの子供たちも大喜びだったでしょう。
3日からセントラルパークでは、クリストとジャン・クロードのインスタレーション「ゲート」の準備が始まったそうです。今回の「ゲート」では、セントラルパーク内のすべての歩道に一定の間隔で、サフラン色ののれんのような布の垂れ下がったゲートが立てられるそうです。その数は7500。歩道の長さが計37kmにもなる広大なセントラルパークでの準備は、2月12日のオープンに向けて始まっています。クリストのファンのいろんな職業の人たちが2000人以上もインターネットで申し込んで、そのうち1000人が選ばれて働いているということです。全員ボランティアではなく有給で、全く技術がない人でも時間6ドルもらえるそうです。ぼくもやってみたかったなと思いました。ニューヨーク市はこれには出資せず、期間中の警備を含めた一切の経費の2000万ドルは、クリストのドローイングを奥さんのジャン・クロードが売ってすべてをまかなうというからすごいです。雪にそなえて、スコップも大量に準備したそうです。たった16日間の作品にみんなでものすごいエネルギーを集中させるわけです。そんな2月のことを思うと今からそわそわしてしまいます。
1月14日(金) 金曜日
雨が多く、気分的にさえない日々が続いています。こういうときは出かけるのも億劫になります。いくつか見たい映画もあるけれど、なかなか地下鉄に乗る気が起きません。部屋で原稿を書いたり、近所をぶらぶらしたりして一日が終ってしまいます。(今月号の現代詩手帖には、ウッディ・ガスリーの作ったハヌカの歌について書いています。最近まで未発表だったユダヤ人の祝いの歌です。)見たい映画のほとんどはドキュメンタリーです。ヒットラー、カルカッタの売春宿で生まれた子供たち、アメリカに征服された後のバグダッドの人たちの言葉など、いろんなものが記録され上映されます。相変わらずたくさんの映画が製作されていますが、今見たいなあと思うのはこういう記録映画です。
ボブ・ディランの「クロニクルズ」も相変わらず売れているようです。もう3ヶ月近くずっとノンフィクションの2位ぐらいだから、彼の過去最大のヒットなのでは。
金曜日といえば美術館なのに、先週グッゲンハイムに行ったら、金曜の夜の任意料金制をやめてしまっていました。その代わり通常の半額になったのですが、通常が18ドルに値上がりしたので、9ドル払わなくてはなりません。(近代美術館は20ドルになったそうです。)今までは1ドルぐらいの寄付で入場していたのに。
年末と新年をニューヨークで過ごしましたが、そろそろ日本に戻る日が近くなってきました。ニューヨークは明日からぐんと寒くなるようです。寒さに後ろから押されて戻るみたいな感じです。
友部正人
1月15日(土)マリリン・モンロー
ブルックリン・ミュージアムで、マリリン・モンローの写真展を見てきました。何も期待してなかったけど、見たらやっぱり何かしら感動するものがありました。19歳のときから死の数週間前の36歳の写真まで、250枚ものマリリン・モンローがぎっしりと展示されていました。
19歳のときのマリリンのかわいらしいこと。輝きのかたまりです。そして死の直前のマリリンのどうしようもなくエッチな感じ。熟しきって今にも落下しそうです。「もしまだ生きていたら、もう80近いんだね」とユミが言います。なるほど、会場はマリリンと同年代の老人でいっぱいでした。老人は解説がよく読めないらしく、平気でずうずうしく人の前に割り込んできます。みんな今もマリリンに夢中なのでしょうか。ニューヨークのアクターズ・クラスに通っていたころのマリリンの真剣な表情がよかった。同じクラスに通っていたというマーロン・ブランドと一緒に映っていました。大女優になりたかったんだろうな。
本当はブルックリン・ミュージアム中のロマー・ビアーデンを展示してあるギャラリーで、ジョアナ・フェザーストーンという女性詩人が、自作やラングストン・ヒューズの詩を朗読するというので行ってみたのです。手話で詩を朗読したりして、おもしろかった。夢とか鳥とか、ぼくも少し覚えました。
友部正人
1月16日(日) 地下鉄の中で
昨日のブルックリン・ミュージアムからの帰りにこんなことがありました。地下鉄の車内でホームレスの女性が支柱にもたれて泣いていました。外はマイナス1℃で寒いのに、半そでのワンピースしか着ていなくて、しかも妊娠しているようでした。黒人の二人の女性が驚いて話しかけました。「上着は持っていないの?」。「シェルターで盗まれたのよ。」とホームレスの女性。どうやら英語はあまり話せないようです。持っているプラカードにはなにやら字が書いてあるのですが、スペイン語なのか何語なのかぼくにはよくわかりません。「警察署には行ったの?きっとなんとかしてくれるわよ。」「でももうシェルターには戻りたくないの。」ただ事ならぬ雰囲気にみんな集まってきて、「旦那さんはいないの?」などと聞いたりしています。そしてその女性が手に持っていた小さな紙袋に1ドル札を入れていきます。ヒスパニック系の若者が近づいて、自分の着ていたジャンパーと帽子とマフラーを脱いで、女性に手渡そうとしました。だけど女性は受け取ろうとはしません。自分の首にまいているマフラーをさして、「外に出たらこれをはおるから」と言っています。若者はスペイン語で話かけていました。そして女性が言ったことを周囲の人たちに英語で説明していました。若者は女性の頭にニットの帽子をかぶせ、首にマフラーをまき、最後にジャンパーを着せてあげました。ユミはそれを見て「キリストさんだね。」と言いました。シェルターの代わりになるいい場所を知っているのか、白人の若い女性は住所と電話番号を書いたメモを渡していました。やがて地下鉄はタイムズスクエアの駅に着き、みんな降りて行きました。ジャンパーを女性にあげてしまったキリストさんは長袖のTシャツ一枚で降りていきました。外はとても寒いのに。女性は空いている席にすわろうとはせずに、また支柱にもたれて泣き始めました。夜通し走っている地下鉄ですから、そのまま乗っていれば凍えることはないでしょう。だけどもし急に産気づいたらどうするのでしょう。それぐらい大きなお腹でした。そのまま72丁目の駅でぼくたちも地下鉄を下りました。
友部正人
1月21日(金) パスカルズ
18日の夜に日本に戻って来て、20日の夜はパスカルズのライブを聞きました。パスカルズのライブはなぜかちょうどぼくたちが日本にいるときにあるから不思議です。しかもすぐ近所の横浜サムズアップなので行かないわけにはいきません。新作アルバム「どですかでん」がもうすぐ出るというので、新しい曲が多かったような気がします。アルバムには名曲「だんだん畑」も入っています。
パスカルズのメンバーの大竹サラさんの漫画エッセイ「地球道草アンダンテ」を売っていたので買いました。内容が濃いので、読むのに今日一日かかりました。読み始めたらやめられなくなったのですが。フランスでおいしかったものがマカロンとフレンチフライだった、というのがぼくの体験と同じでした。マカロンはいろんな種類があるようですが、ぼくがパリで食べたのはカリカリしてましたが、食べると脳みそがトロントロンになりました。フレンチフライは熱いうちに食べるとサクサクしていて、日本やアメリカのとは大違い。おもしろかったのは、ネイティブアメリカンから教えてもらったというパワーアニマルの話。ぼくにはどんなパワーアニマルがついているのか、野山を駆けるカモシカかな。
パスカルズは今年も3月に欧州ツアーに出かけるそうです。おととしのフランスツアーのときはぼくとユミもニューヨークから聞きに行ったのですが、今年は行かれません。ただ活動の場を日本に限定しない彼らのやり方はいい刺激になります。
友部正人
1月27日(木) どんとソングスデー
今日はどんとの5回目の命日でした。横浜サムズアップでは今夜、「どんとソングズデー」がありました。エントリーした人たちが1曲ずつどんとの歌を歌い、それをお客さんが審査して1位、2位、3位を決めます。今年で2回目の今夜は18組がエントリーしました。今年はぼくの息子がエントリーしているので、見に行くついでにぼくもマーガレットズロースと一緒にゲストで出させてもらいました。
マーガレットズロースは「ひなたぼっこ」を自分たちのアレンジで演奏しました。彼らのぎゅっと締まった演奏はとても気持ちよくて、客席の人たちも両手を上げて拍手していました。ぼくは1993年の「待ちあわせ」コンサートの時に、どんとと二人で合作した2曲を演奏しました。「どんとからの手紙」は粕谷くんのカホーンと、「かわりにおれは目を閉じてるよ」はマーガレットズロースと。マーガレットズロースと演奏しながら、彼らがとてもうまくなっているのを感じました。ずっしりと重くなっているのです。演奏はお相撲さんのようなものです。だんだん体重が増えて強くなっていく。そんな彼らと演奏していて、とても感じがよかったです。
優勝したのは「波」を歌ったハワイアンの女の人たちでした。確かに見とれるくらいみんな美しかった。2位と3位は二組ずつありました。ぼくの息子の一穂もバンドで出たのですが、上位にはならなかったけど、歌も演奏もピュアでとても心に残りました。はじめはもっと学芸会的なものを想像していたのですが、聞いてみたら全然違って、どの人の歌も演奏も聞き応えがあって最後まで夢中になって聞いてしまいました。ぼくも「カーニバル」を練習したのですが、やらなくてよかったと思いました。
友部正人
1月28日(金) ブックカバー
朝日新聞の日曜日の読書欄で、書店のブックカバーを集めた本が出たのを知り、近所の本屋さんで立ち読みをしたら、ぼくのイラストを使ったイシオカ書店のブックカバーも入っていたので買いました。本のタイトルは「カバー、おかけしますか」(出版ニュース社)。近江八幡のイシオカ書店が、ぼくのイラスト集「森の中の椅子」の中の絵をちりばめてブックカバーを作ったのはいつだったのか。それははっきりとは覚えていないのですが、そのブックカバーが書皮大賞というのをとったのは、2001年のことだったらしい。イシオカ書店の店長、奥村くんはそのことをさっそく知らせてくれて、ぼくもこのホームページの日記に書いたことがあります。そのとき奥村くんから聞いて、ブックカバーのことを書皮ということを知りました。
「カバー、おかけしますか」と聞かれたら、ぼくはたぶん「いりません」と言うのだけど、この本に取り上げられた191ものブックカバーを見ていると、なかなか楽しい。なじみのカバーもたくさんありました。だけど、当然あるだろうと思うのに、ないのもありました。名前は忘れたけど、吉祥寺南口の本屋さん、そこのブックカバーの絵は漫画家鈴木翁二が描いていて、そのためにわざわざそこで本を買ったりもしました。だからそこではいつも「はい」と言っていたのでしょう。いつごろからどこの書店でもカバーをかけるようになったのかは知らないけれど、それ以前はデパートの包み紙なんかで、買った人が自分でカバーをかけていたような気がします。そのうちいつのまにか、どこの書店でもカバーをかけてくれるようになっていました。
書皮大賞といっても、たいていの人は知らないでしょう。ぼくも奥村くんから聞くまでは知りませんでした。普段はあまり話題になることもないブックカバーですが、こうして眺めてみるとけっこう楽しいものです。去年の夏に亡くなった奥村くんにも早くこの本のことを知らせてあげたいなあ。
友部正人
1月29日(土) 金沢ジョーハウス
10ヶ月ぶりの金沢ジョーハウスでした。でも、ユミは何年かぶりです。小松空港まで、ジョーハウスの松田さんが迎えに来てくれて、そのまま高尾台のジョーハウスに。そこでお昼をたべました。スピーカーから流れていた音楽も、テーブルの上の料理も、棚に並べられた陶器も壁の絵も、みんな手作りです。
ライブをしたのは移転したばかりの新しいジョーハウス。同じ通りの反対側に引越しました。今日はその新しいジョーハウスでの、最初の歌のコンサート。リハーサルをしてからまだ時間があったので、21世紀美術館を見に行きました。ここは3ヶ月前にオープンしたばかりで、現代美術中心の美術館だそうです。建物はガラス張りで、何部屋ものギャラリーに分かれていて、無料ゾーンと有料ゾーンがあります。ぼくたちはあまり時間がなかったので、無料の方だけ駆け足で見て歩いたのですが、無料のほうにタレルの部屋がありました。ニューヨークで知り合った写真家が、「これからのアートはエンターテイメント」と言っていた通り、まさに現代アートはその方向に向かっています。
ジョーハウスは今年もお客さんをたくさん集めてくれました。横長にうれしい感じで50の椅子はうまっていました。ライブ中に雨が降り始めて、予報ではそれが雪になるとのことでした。休憩中に大きな音で雷が鳴っていました。北陸では雷が鳴ると雨が雪に変わるのだそうですが、ライブが終っても雪にはならず、「今日はまだあったかいからね」などと話していました。
友部正人
1月31日(月) 勝山、三国
昨日は福井県勝山市にある武藤病院のデイケアセンターのホールでライブをしました。呼んでくださったのは、病院の院長の武藤さんです。武藤病院は勝山市の山の中腹にあります。病院からは町の反対側に、恐竜博物館の銀色のドームが見えました。病院のまわりには雪が積もっていて、しーんとしていました。武藤さんに病院の中を案内してもらいました。2階の食堂では大勢のお年寄りが昼食をとっていました。食器のぶつかり合う音、がやがやとにぎやかなおしゃべり、みんなとても楽しそうでした。友だちのひとりもいないぼくの母も、こんなところで過ごせたら、「死にたいくらいつまらない毎日」とぐちをこぼさなくなるかもしれません。ぼくの母は少しボケが始まっています。
病院の中の廊下には院長の趣味で、ガロ系の漫画家たちの原画やイラストが大量に展示されています。永島慎二、鈴木翁二、宇野亜喜良、つげ義春など。控え室には安部慎一の油絵が飾られていました。展示されているのは、武藤さんが集めたうちのほんの一部なのだそうです。病院とは別に、ここは武藤さん個人の美術館でもあるのでした。
コンサートは午後3時からはじまりました。広い講堂にわりと大勢の人たちが集まりました。はじめてぼくの歌を聞く人が多そうだったので、ぼくの今までの代表作を歌うという感じのコンサートにしました。年配の方たちも、最後まで楽しそうに聞いてくれました。
夜は武藤さん家族のお誘いで、ぼくとユミは三国まで蟹を食べに連れて行ってもらいました。こうばこ蟹、越前蟹と、蟹のフルコースです。福井で生まれ育った武藤さんは蟹を子供の頃からおやつのようにして食べていたそうです。蟹の食べ方もなれたものでした。蟹は手で食べるものです。おしぼりが何本あっても足りません。テーブルの上も散らかりまくっています。後で手をかいだら、何の匂いもしませんでした。仲居さんの説明では、蟹は新鮮だと匂いが残らないのだそうです。蟹はおいしいけど、手が臭くなるものと思っていた武藤さんも、びっくりしていました。
波の音を聞きながら蟹を食べるのははじめてです。ぼくらは5人とも蟹になって海の底にいるようでした。蟹を食べた後、武藤さん家族は勝山に帰り、ぼくとユミはそのままその旅館に泊めてもらいました。この旅館は日本海に面していて、部屋に露天風呂がついていました。風に舞う雪を浴びながら、露天風呂に入りました。
今日は朝から雪と風で大荒れの天気でした。チェックアウトした後、旅館の車でお寺のある雄島に渡る橋まで送ってもらったのですが、強風で全く前に進めませんでした。運転手もそんなぼくたちを車の中から見ていて、置き去りにできなくて、またぼくたちを旅館まで連れ戻してくれました。でも雪と風はお昼には止み、飛行機も無事に飛んで、北陸の天気が嘘のような横浜にまた戻って来ました。
友部正人
2月5日(土)ハーバーズミル
今回で20回目の甲府ハーバーズミルでライブです。年に1回年のはじめにやっているからもう20年たったわけです。ハーパーズミルはカレー屋さんなので、行くとまずカレーを食べます。そして毎回、ハーパーズミルのカレーが一番おいしいと思うのです。今回はクラリネットの安藤くんも誘って、彼の車でぼくとユミと3人で行きました。安藤くんもきっと、カレーの匂いに釣られてのことだと思います。一緒にハーパーズミルに行くのは2回目ですから。
はじめにハーパーズミルの坂田くんが30分歌って、それからぼくが歌います。これも20年間変わりません。(最後に坂田くんと「ぼくは君を探しに来たんだ」を歌うのもずっと続いています。)安藤くんはぼくの歌にあわせてクラリネットを吹いてくれました。4年前からアコースティックギターの製作をはじめた坂田くんは、自分の作ったギターで歌います。今年は今までで一番いいのができたとぼくにも弾かせてくれました。ギターは小ぶりだけど、深いいい音でした。2月に東京で開かれるハンドメイドギターの博覧会に出品するそうです。
終ってから、ますみちゃんの手料理で打ち上げをしました。ハーパーズミルのライブには必ず来る、という人は、きっとますみちゃんの手料理も目当てなはずです。毎回創意工夫の料理ばかりですが、今回のオリジナル・カレーパンには感激しました。1年ぐらい前からフラメンコダンスを習っているというますみちゃん、食事の後にフラメンコの衣装を着て披露してくれました。カスタネットをカタカタ鳴らして、すごく真剣に踊っていて、すごくいい感じでした。坂田くんはギター職人、ますみちゃんはフラメンコダンサー、カレー屋ハーパーズミルはどうなるのでしょう。
友部正人
2月6日(日) 板橋文夫さん
1年1ヶ月ぶりに板橋文夫さんとライブをしました。横浜のジャズの老舗、ドルフィーです。
今日は板橋さんの考えで、板橋さんのソロは1曲もなしで全曲ぼくの歌を二人で演奏しました。お客さんはそれで不満ではなかったのかどうか気にかかります。ぼくはやはり板橋さんの自由なピアノソロも聞きたいから。
去年に引き続き、今回も詩の朗読をやりました。ぼくの朗読に即興で曲をつけてもらうのですが、緊張感があってなかなかおもしろいです。ただ弾くのではなく、言葉を読んで感じたことを慎重に音に変えていきます。詩の朗読とジャズなんて、50年代のビートニクのようですが、板橋さんが弾くとそうはなりません。ジャズというよりクラシックのような感じで、人の先入観を打ち砕く力があります。楽屋でじっくり詩を読んでいる板橋さんを見て、どうくるかを想像してみるのですが、毎回完璧に裏切られます。その意外性がたまらなくいいです。
二部の後半に、クラリネットの安藤くんが飛び入りしました。安藤くんははじめての板橋さんに少し緊張していましたが、「君の音は君の雰囲気のままでいいね」と終演後に板橋さんにほめられて、にっこりしていました。客席で聞く板橋さんもいいですが、一緒に演奏したときの板橋さんはもっといいです。今まで共演したどんなピアニストとも違います。リズムが言葉のようだし、竹ざおのついた長い足のようです。
アンコールで板橋さんの曲を一曲だけやりました。「フォー・ユー」です。ぼくは曲の前半の部分のメロディをハーモニカで吹きました。何も説明はしませんでしたが、この美しい曲がぼくの作品だと思う人はいないはずです。「フォー・ユー」は、ミュージシャンがみんな一緒に演奏したがる板橋さんのオリジナルです。残念なことにまだCDになっていません。二人のライブ、1年に1回は少なすぎるね、と板橋さんが言っていましたが、ぼくもそう思います。壁に映った影のようなピアノ、またすぐに聞きたいです。
友部正人
2月14日(月) 豊橋、高山、亀山ツアー
毎年2月に恒例化している豊橋ハウスオブクレージーのライブをきっかけに、高山、亀山と3日間のツアーをしてきました。
11日(金)、休日の豊橋の街はほとんどシャッターが下りていて、ライブの前に何か食べておこうと思ったぼくは、駅周辺をずいぶん歩きまわりました。結局とあるそば屋で思いっきり色の黄色いカレーライスを食べたのですが、うまくもなくまずくもなく、それでもお腹はふくれてしあわせでした。
ハウスオブクレージーは音がよく、PAをしてくれる松崎さんとぼくとの息もぴったりでした。予定していた曲を全部歌い終わってもまだ1時間20分しかたっていなかったのは、音がいいので次々と歌ってしまったからかもしれません。だからアンコールは20分ぐらいやりました。
12日は高山の喫茶店ピッキンでした。主催はピースランドという児童書店の中神さん。毎年絵本をピッキンに運び、ピアノやテーブルの上に飾ります。ピッキンをにわか本屋みたいにするのです。今年は冬の絵本を並べていました。ピースランドは本屋ですが、コーヒーもいれてくれます。ミニ・ブックカフェです。ただライブができるほど広くはないので、ライブ会場のピッキンまで絵本を運んで、本屋の雰囲気を作っているのです。ライブの後、中神さんの息子さんが鉛筆でぼくの顔を描いてくれました。今回のチラシやチケットの絵も彼が描いてくれたそうです。なかなかいいですよ。
13日は三重県亀山市の月の庭。2年2ヶ月ぶりでした。岡田まさるくんとかおりさんにも久しぶりに会えました。月の庭は未来食(雑穀料理)のレストランですが、若い人たちの交流の場にもなっていて、何かをやっている人たちがライブにもたくさんやって来ます。亀山は昔東海道の宿場だったそうですが、月の庭にその名残があるようです。月の庭は岡田酒店の裏庭にあって、岡田酒店は東海道に面しています。東海道は今は閑散としているのに、月の庭には人が集まるのは、裏庭に面している裏道が、今は新しい街道になっているからではないでしょうか。旅人たちはどこを通れば探しているものに出会えるとよく知っているようです。
友部正人
2月17日(木) The Gates
昨日からニューヨークに来ています。今日はさっそく、午前中めいっぱいセントラルパークのオレンジ色のカーテンの下を歩き回りました。計画は70年代末からあったけど、なかなかニューヨーク市から許可の下りなかった、クリストと彼の奥さん、ジャン・クロードの二人の作品、「The Gates」の展覧会は、セントラルパークの遊歩道全部を使って、2月27日まで開かれています。
公園の外から見た感じは、サーカスでも来ているのかな、という感じです。枯れ木の中に揺れるカーテンが、サーカスのテントを思い浮かばせたのでしょう。そして中に入ると、公園はオレンジ色の枠とゆったりと垂れ下がるカーテンに完全に支配されているのがわかります。おとぎの国から武器を持たない軍隊がやってきたようです。この軍隊には馬も兵隊もいません。先端にテニスボールのついた棒で、支柱にからまったカーテンをはずして歩く、とても愛想のいい警備員たちがいるだけです。この「The Gates」という作品は、門をくぐってもまた門があるだけです。門は歩道がある限りどこまでも続き、公園の外の道路で途切れています。カーテンの下を歩きながら、ユミは日本の神社の鳥居みたいだね、と言います。日本人ならきっと誰もがそう思うでしょう。もしそうだとしても神様のいない鳥居です。鳥居よりも明るいオレンジ色です。オレンジ色のカーテンの連なりは、オレンジ色の風を表現しているかのようです。真冬の公園を吹き渡るオレンジ色の風。この作品で、公園を訪れる人々が暖かい気持ちになれれば、と新聞の記事でクリストは言っていました。
広告や宣伝の申し出や企業からの寄付を一切断っているのに、最初の1週間だけですでに数百万人がこの「The Gates」を体験しにセントラルパークを訪れているそうです。
友部正人
2月18日(金)ティム・ホーキンソン
17日はセントラルパークで「The Gates」を見て歩いた後、ぼくたちと一緒にニューヨークに来た金沢の寺田くんと、ぼくたちより一足先にニューヨークに来ていた直島のカフェまるやの大塚さんたちと一緒に、クイーンズのイサム・ノグチ美術館に行きました。ここにはあまり見たことのなかった石の作品や、マーサ・グラハムのダンスの舞台美術作品がたくさんあって、今までイサム・ノグチの一部しかぼくは知らなかったことがわかりました。ほとんど手を加えていないように見えるいくつかの石を組み合わせて表現した作品には、人体のようなぬくもりが感じられてやさしい気持ちになれました。マーサ・グラハムのダンスをビデオで見て、今まで関心のなかったダンスという分野に興味を抱きました。アニメーションを見ているようでした。
今日は夜7時からメトロポリタン美術館で、クリストがサイン会をするというので行ってみたら、すでに定員に達していてソールドアウト。定員が何人だったのか聞いてみたら、300人でした。5時半にはソールドアウトになっていたそうです。でもクリストのサイン会がソールドアウトになったおかげで、ホイットニー美術館でおもしろい展覧会を見ることができました。ティム・ホーキンソンという人です。とてつもなくばかげていて、ものすごく手間暇をかけた、無意味な作品の山でした。巨大な自動パーカッションの木、徐々にふくらんでいっているという巨大なお腹のようなもの、自分の髪の毛をのりでくっつけてつくった鳥の羽根、自分の切った爪をためてとかして作った卵、水のしたたる巨大な木、ティム・ホーキンソンとサインをする機械。徐々にぼくの想像力がみしみしと音をたてて崩壊していくときの不思議なよろこび。仕上げが安っぽいのが魅力でした。
夕方、メトロポリタンに行く前に、新築して2倍の規模になったという近代美術館にも行ってみたのですが、印象派から現代美術まで、展示されている作品の量がすごくて、今日はただ素通りするだけでせいいっぱいでした。中で偶然直島の大塚さんたちに会ったのですが、朝から7時間もいるのにまだ全部見られないと言っていました。それにしても今回は寺田くんや大塚さんたちに刺激されて、ニューヨークに来て早々信じられないくらい活発に行動しています。
友部正人
2月19日(土)オノ・ヨーコ
今夜は寺田くんを誘って、二人でオノ・ヨーコのバースディ・ライブを見てきました。場所はロワーイーストのトニック。8時40分ぐらいに着くと、ドアの前に20人ぐらい並んでいました。チケットはソールドアウトで、キャンセル待ちの人たちでした。入れる見込みがなさそうなので、半分く゜らい帰ったのですが、ぼくたちはねばって、開演の9時には中に入れてもらえました。
オノ・ヨーコはこの日72歳になったそうです。ズボンのサスペンダーに帽子とサングラスといういでたちで出てきて、自分の子供のころのフィルムを上映しました。お母さんはものすごくきれいな人でした。サンフランシスコの金門橋がまだ建設中の頃の映像です。それからヨーコさん本人の解説を交えながら、自分の映像作品を年代順に上映していきました。そのいくつかはぼくも見たことがあるものでした。一番最近の、コンピューターを使って画像を処理したものがよかったです。拡声器を持ってデモをしているジョンが映っていました。
1時間近い上映の後、ショーン・レノンとビンセント・ギャロがステージに上がり、3人で「ライジング」を演奏しました。ヨーコは黒い袋を頭にかぶり、ショーンは黒い布で目隠ししていました。アメリカ人に虐待されたイラクの囚人のようでした。それから数曲3人で演奏しました。ショーンはギターとピアノを弾いたのですが、ピアノの繊細さにはびっくりしました。ビンセント・ギャロはベースやキーボードでした。最後に入場のとき配られたペンライトを使い、みんなでオノ・ヨーコ式モールス信号で「I LOVE YOU」を繰り返して終りました。終ってもなかなかみんな帰ろうとはしません。寺田くんは、ショーンやビンセント・ギャロが自分たちで楽器を片付けているのを見て感心していました。そんな彼らにみんな気軽に話しかけます。
トニックはいま財政的な危機にあるそうです。家賃や保険料が何倍にもはね上がったからだそうです。今夜のパフォーマンスもその救済の一環として急に決まったのだそうです。ショーンに誘われてライブをやることになった後、ヨーコさんは緊張で風邪をひいてしまったそうですが、風邪は家においてきたからだいじょうぶ、と言っていました。はじめて見たオノ・ヨーコは、そんなかわいらしい人でした。自分の作品を楽しんでいるのがいいと思いました。
友部正人
2月24日(木)  レッド・テイルド・ホーク
お昼過ぎにセントラルパークでのジョギングから帰って来たユミが、「今すぐアップルバンクに行ってみて」と言います。なんでもタカみたいな鳥が一羽いて、その下に人が大勢集まっているのだそうです。さっそくユミのコンタックスT3とポラロイドカメラを持ってアパートのお向かいに行くと、銀行の建物の下に大勢人が集まって、2階の窓のところにいる大きな鳥を見上げています。鳥は何かを食べているようで、しきりにそれを飲み込もうとしています。まわりの人の話では、もう30分も鳩を食べているのだそうです。そういえばくちばしに時々鳩の羽がついていました。その鳥がなんなのかということが議論になっていました。あるおばあさんはワシだというし、もう30分もたたずんで見ていたおじいさんはタカだといいます。なんでもセントラルパークに住んでいるそうです。
アップルバンクはブロードウェイの73丁目にあります。こんな街の真ん中にワシかタカがいるなんてみんな驚きなのです。しかも悠然とランチをとっています。全部たいらげないと飛び立ちそうもありません。大胆なものです。有名人の食事をレストランの外から眺めている野次馬の心境です。いかにも獰猛な食べっぷりに、アメリカ人たちはみんな目を輝かせています。鳩の足を引きちぎり、口にくわえた時など拍手喝采でした。
アパートに戻って「ニューヨークのワイルドライフ」という本で調べたら、どうやらレッド・テイルド・ホークというタカの一種らしいです。セントラルパーク沿いの建物に巣を作って、ウサギや鳩を食べるそうです。冬になると南の方に移動する渡り鳥だということですが、氷点下4℃のニューヨークでいったい何をしているのでしょう。ワシに比べると数が減っているので希少動物に数えられているそうです。
友部正人
2月25日(金) ポケットにかくしたファブリック
昨日の午後から、「積もるぞ」という感じでまた雪が降り始めたので、積もる前にと、チェルシーのギャラリーでジョン・ルーリーのドローイング展を見ました。ジョン・ルーリーはラウンジ・リザーズというジャズのバンドの人です。チェルシーの画廊地区はマンハッタンの西の外れにあって、地下鉄の駅から歩くと遠く、なかなか行かないのだけど、ジョン・ルーリーの名前に引かれて行ってみたわけです。想像していたより大人しく、かわいい絵でした。
雪は夜のうちに止んで、今日は朝からの快晴。セントラルパークでは子供たちがそり遊びをしていました。子供たちはクリストの「The Gates」より雪の方がうれしいようです(犬も)。観光客はみんなカメラを手にして、ゲートの下を歩きまわっています。たいていはデジカメです。歩いているとユミはよくシャッターを押してくれて頼まれます。デジカメを触ったことがないユミも気軽に撮ってあげています。
風で巻きついたカーテンをもとに戻すためのフックと呼ばれる棒を持ったボランティアの人たちに、「布(ファブリック)の見本をください。」というと、ベストのポケットから5センチ四方ぐらいの布切れを出してくれます。中には「まだ残っていたかなあ」なんてもったいぶる人もいます。ボランティアの人を見つけるたびに「ください」と言って、たくさんもらっている人もいます。フックの先には鉤ではなく黄色いテニスボールがついていて、それがとてもほほえましいです。
公園を歩いた後、リンカーンプラザシネマに日本の映画「誰も知らない」を見に行きました。胸がしめつけられる悲しい映画でした。前に「蛍の墓」を見たときにも同じような気持ちになったことを思い出しました。「蛍の墓」のように忘れられない映画になりそうです。
夜、イーストサイド94丁目のロードランナーズクラブに、明日のセントラルパーク4マイルレースの申し込みに行った後<グッゲンハイム美術館の前を通ったら、美術館のショップでクリストとジャン・クロードがサイン会をしていました。寒かったけどぼくも1時間ほど並んで、サインしてもらいました。「ありがとう」と言ったら、ジャン・クロードと目が合いました。二人ともやさしそうでした。誰もいない夜の「The Gates」もいいなと思いながら、またセントラルパークを横切って帰りました。
友部正人
2月26日(土) 4マイルレース
今朝は8時からセントラルパークで、4マイル(6.4キロ)のレースがありました。公園のいたるところに設置されている「The Gates」のカーテンを両側に見ながら走ります。カーテンのオレンジ色に合わせて、ユミのオレンジ色のシャツを着て走りました。(ユミはこのシャツを着ていつも走っているのですが、レースには出ませんでした。)日曜日の早朝だというのに、クイーンズに住むメグも応援に来てくれました。がんばって走ったけれど、ぼくのタイムはそんなによくはありませんでした。走りながら「The Gates」も楽しもうとしたけど、やっぱり両立は無理でした。
「The Gates」に合わせてオレンジ色のものを身につけている人をよく見かけます。中には犬にもオレンジの服を着せて散歩させている人もいました。ユミはボランティアの人からもらったオレンジ色のファブリックをセーターにピンでとめて飾りにしています。クリストはニューヨークをオレンジ色の街に変えました。
夜はマラソン仲間の比嘉さんとマドレインさんのお宅に。今日のレースに出た人たちと一緒に、比嘉さん特製のオリジナルコース料理をいただきました。すごいご馳走でした。
友部正人
2月27日(日) オレンジ色の花びら
今日は「The Gates」最後の日です。別に野外コンサートでも何でもないのに、あんなにたくさんの人たちがセントラルパークにいるのをはじめて見ました。公園の中はまるで吉祥寺の街のようです。森と湖の商店街、ここでは買い物はできませんが。(ポストカード、カタログ、Tシャツなどの売り場はありました。売り上げは公園管理局に寄付されるそうです。)
フックを持ったボランティアの人たちの周りには数人の人垣ができています。みんなファブリック(見本の布切れ)をおねだりしているのです。すでに何百万人もの手の中に、この記念の布切れが最低1枚ずつはあるはずです。ぼくは3枚集めました。オレンジ色の小さな布切れを見ていると、セントラルパークに16日間あったものがオレンジ色の花を咲かせる木だったことがわかります。その木が明日でなくなって、ぼくたちの手元に残るのはオレンジ色のはなびらだけなのです。今回ぼくたちはこの「The Gates」というプロジェクトを見に来ただけなのですが、毎日毎日通っているとお花見していたような気分です。
ニューヨークは明日からまた雪になるそうです。カーテンのなくなった公園を見てから帰りたいのですが、ぼくたちはもうこちらを発たねばなりません。
友部正人
3月3日(木) 男3人だけのひなまつりコンサート
亀戸のカメリアホールで男3人だけのひなまつりコンサート。出演したのはグルーヴァーズの藤井一彦、斉藤有太、そしてぼくでした。一彦のソロはめずらしいそうです。グルーヴァーズの演奏をよく知っている人なら、彼のソロをうまく想像できないでしょう。アコースティックギターだけで4〜5曲、エレキで2曲一人でやったけど、なかなかすごかった。ちゃんと曲がソロ演奏用にアレンジされていて、かっこよかったです。歌詞も初期のような堅苦しさがなく、いろいろぼくには新鮮なことが多い一彦でした。斉藤くんははじめて知り合ったのですが、なめらかで美しい音色のピアノを弾く人です。ピアノは弾く人によって音色が全く変わる楽器です。これはいつも不思議に思うことなのですが。ぼくは最近、車移動のときは12弦ギターを持って行っていて、今夜も「月の光」と「眠り姫」を12弦で歌いました。一彦とは「イタリアの月」「Speak Japanese,American」の2曲を一緒に演奏しました。彼と一緒に演奏するのは10年ぶりぐらいでしたが、なんだかいい感じでした。アンコールはみんなで「ぼくは君を探しに来たんだ」をやったのですが、ぼくの声は二人の声にはさまれてこれもまたとても心地よかったです。男3人でもいい感じのひなまつりはできるものです。
友部正人
3月6日(日) かたづけ
毎年工藤直子さんが送ってくださる「のはらうた」のカレンダーが今年も我が家のトイレにかかっています。トイレで毎日これを見るのがぼくの楽しみです。3月はかたづけの歌です。
かたづけはけっしんをまっている。
かたづけはしめきりがきにいっている。
かたづけはかけごえをほしがっている。
なるほどな、かたづけというやつがやってくると、けっしんやかけごえをほしがるんだ。そしてしめきりを課せられるのが好きなんだ。どおりで、ぼくとは性が合わなかったはずだ。
なんてこともいってられないくらい、今ぼくの部屋は物でいっぱい。
3月は毎日これを読んで、少しずつ荷物を減らしていく努力をすることにします。
友部正人
3月9日(水) カーペンターズ
ニューヨークのスリフトショップで買い物をしていたら、スピカーからカーペンターズの「プリーズ・ミスター・ポストマン」が流れてきました。ビートルズで有名なヒット曲です。ビートルズのものは聞きなれていたけど、カーペンターズのは初めてでとても新鮮でした。スリフトショップには中古レコードもおいてあるから、探してみるとありました。カーペンターズの2枚組のペスト盤で、「プリーズ・ミスター・ポストマン」も入っていました。
アパートに帰ってさっそく聞いてみてびっくりしました。ほとんどの曲が何度も聞いたことがあって知っていたのでした。しかも散歩の途中、自転車に乗りながら、知らず知らずに口ずさんでいたのはカーペンターズだったのです。今まで一度も好きだなんて思ったこともなかったのに、カーペンターズの曲はこんなにもぼくに染み込んでいたのでした。こんなことってあるのだなあ、としみじみしました。
というわけで2月のニューヨークではカーペンターズばかりかけていたのですが、今日横浜のデパートに買い物に行ったら、CD売り場でやはりカーペンターズの「涙の乗車券」が流れていました。どうもぼくは、カーペンターズの歌うビートルズに追っかけられているようです。
友部正人
3月11日(金) 東京の美術館
雨が降ったら美術館。ニューヨークの雨の日の美術館は、雨でどこにもいけない観光客でいっぱいです。ひょっとしたらこの日本でも、と思いつつ、雨の中を木場の現代美術館まででかけてみましたが、普段どおりのガラガラでした。ニューヨークのように、美術館が街の中にないからでしょう。雨が降れば、さらに遠くなる東京の美術館。
見たかったのは「愛と笑い、そして孤独」という、女の作家ばかりの展覧会です。そこには愛も笑いも孤独もちゃんとありました。生き生きしているのが特徴でした。だからわかりやすくてとてもよかった。そして後にジワーンとした何かが残るのは、作品の中にアイデアだけではない深いものがあるからでしょう。まだジワーンとしています。
木場から今度は神楽坂の麦マル2に向かいました。根岸にあった初代麦マルを4年前に閉めて、新しい麦マルを去年の秋にオープンしました。店主はやはり岩崎早苗さんです。
なかなか東京には出る用事がなくて、ぼくたちははじめて神楽坂の麦マル2に行きました。前の麦マルがかわいいお饅頭屋だとしたら、今度のはかわいいカフェです。(お饅頭がメインなのは同じですが。)靴を脱いで上がる二階もあって、お店が暇な時なら本を読んだり昼寝をしたりできそうです。この路地の奥にはいったい何があるのかな、というわくわくした感じが麦マルにはあります。最近雑誌の取材が相次いでいるそうですが、都会にできた時間の隙間に、騒がしい行列ができなければいいなとぼくは思います。
麦マルのある神楽坂から大江戸線に乗り、新宿に出て、京王線で仙川にあるタイニー・カフェへ。今日はたくさん乗り物に乗ります。横浜から東海道線で東京へ。そこから都営バスで現代美術館に。今度は大江戸線で神楽坂。またまた大江戸線で新宿へ。東京を行ったり来たりするのに、この大江戸線ってとても便利な線ですね。東京に住むのなら大江戸線沿線がいいな、とぼくは思いました。
仙川のタイニー・カフェでは、マーガレット・ズロースの平井くんが、「健康保険」という月刊誌に連載している絵の原画展をしています。今月19日までです。アクリルや水彩で描かれた絵は、どれも平井くんの歌う歌のように暖かく、書くお話のようにさわやかです。初めて来たタイニー・カフェは名前のとおり小さなお店ですが、食べ物がおいしくて、東京とは思えないような安い値段でした。20年ぐらい時間を逆戻りしたようです。タイニー・カフェは今年の6月に閉店してしまうそうです。
横浜に住んでいると、億劫で東京には出なくなります。東横線の回数券を使い切らないうちに、とっくに三ヶ月の期限が過ぎていたということがありました。それほど電車には乗らなくなりました。だけど東京に住んでいたら、きっと今日のように乗り物に乗りまくるんだろうなと思います。どこに行くにも電車、バス、電車です。移動にとても時間がとられます。街にいても街が遠いのです。その点横浜もニューヨークも、暮らしから街がとても近いです。東京は乗り物で移動を楽しむところですね。
友部正人
3月14日(月) 練習とおはぎ
ガンボスタジオでマーガレット・ズロースとレコーディングの練習をしました。ためしに一緒に新しい曲を2曲録音してみました。それからソロで3曲録音しました。エンジニアはガンボの川瀬さんです。
郡山の友人から無農薬の手作りもち米をいただいてから、ユミは最近おはぎ作りに凝っています。先日も外出から戻ると、テーブルにできたてのが何皿も並んでいて、おどろくやらうれしいやら。それからしばらくはずっとおはぎを食べていました。今日もマーガレット・ズロースのためにおはぎをたくさん作りました。甘いものは嫌いだというベースの岡野くんもおいしいと食べていましたし、平井くんは彼女へのおみやげに持って帰りました。
マーガレットズロースとは、4月3日に横浜のサムズアップでライブがあります。今日のレコーディングの練習がライブの練習にもなって、今度のライブがレコーディングの練習にもなるわけです。
友部正人
3月15日(火) 食と現代美術展
ニューヨークでクリストとジャンヌ・クロードの「The Gates」を見たり、ホイットニー美術館でサイ・トンブリーやティム・ホーキンソンを見たりして、横浜に帰って来て見たら、横浜でも現代アートの真っ最中でした。直島といい、金沢21世紀美術館といい、ぼくとユミは行くところ行くところで、現代美術の待ち伏せに合っているのです。
横浜の展覧会は「食と現代美術」という催しで、ぼくは食の方に期待して行ったのですが、食べられるものはあまりなくて、やはり現代美術の方が中心なのでした。でもホイットニーに負けないくらい面白い内容でした。オノ・ヨーコはニューヨークでの72歳のバースディ・ライブで、「私のはコンセプチュアル・アートだから、自分で何かを作ったり描いたりするわけじゃない。」と言っていたけど、今の人たちはそのコンセプトを現実に置き換えないと気がすまない。「The Gates」だってそうだったのです。この横浜の展覧会も、アーティストはただアイデアを言葉にするのではなく、根気強く作品にして、見る人を楽しませてくれます。「現実だから美しいのよ」というジャンヌ・クロードの言葉の通りです。どれもとてもよくできていて、楽しくて美しい。「これからのアートはエンターテイメントだよ」という、ぼくのニューヨークの知り合いの言う通りになっていっているようです。
友部正人
3月18日(金) 盛岡、青森、函館
盛岡のクランボンで久しぶりのライブをしました。クランボンは30人ぐらいしか入れない小さなコーヒーハウスです。クランボンの店主の高橋さんは毎日コーヒーと共に生活しています。もう何十年もそうしているのです。小さなコーヒー豆の一粒一粒の顔が見分けられるくらい。クランボンのコーヒー豆には顔がついています。顔がついている豆を機械で挽いても別にかわいそうではありません。顔はいい香りの粉になるのです。クランボンの香りは風にのり、川の反対側に新しく支店ができていました。
3月20日(日)
大船さん家族は青森でもう10年もぼくのライブを主催してくれています。いつも主催してくれていただびよん劇場の牧良介さんが亡くなって、その後を引き継いでくれたのです。大船滝二さんも牧さんと同じ、青森の役者さんです。
大船さん家族が家を新築して、そのお祝いみたいなコンサートが新築した家でありました。大正浪漫亭などと自分たちで呼んでいますが、山小屋のようなのっぽの建物です。そこに大勢の人が、自分で飲み物と座布団を持って集まりました。PA機材をそろえ、小さなステージには照明の設備も整っています。
青森の今年の雪の量はすごかったそうです。大船家の前にあるセントラルパークという名前の大きな公園が、山のような雪におおわれて、今も一歩も踏み込めない状態でした。
3月21日(月)
函館の亀しょうという焼肉屋さんでライブをしました。ご主人は吉田拓郎の大ファンで、店中の壁に拓郎の写真が貼られ、油絵の具で拓郎の詞がびっしりと書き込まれていました。どうして吉田拓郎だけなのかなとは思ったのですが、歌っているうちに気にならなくなりました。それにいろんな要素が増えたら、壁紙としてはうるさすぎるでしょう。実際ご主人は拓郎だけじゃなく、ぼくの歌もよく知っていて、新しいアルバムでは「ニセ・ブルース」が好きだそうです。小さな函館の街なのに、ライブをやる場所によって聞きに来る人も少しずつ違うのがおもしろいです。ライブの後は焼肉をご馳走になり、ご主人と2時ごろまで話してしまいました。
友部正人
3月25日(金) 名古屋、そして京都
今日から始まった愛知万博。たぶんそのための名古屋駅の混雑を抜け、地下鉄で覚王山へ。そこにあるビーナトレーディングというインドとタイの雑貨店が主催するライブが、スペースGでありました。去年に続き2回目です。日泰寺の参道でお好み焼きを食べて、会場に行くと、代表の中川潔さんがカレーを煮込んでいました。6時間もかけて煮込むのだそうです。お昼ごろ雪が舞ったらしく、とても寒く、木の床が冷たかった。ビーナトレーディングの売り物の楽器を使って「11月がやってくる」を朗読。それからいつも通りたくさん歌いました。中川さんは、ぼくが名古屋に昔あった劇団に居候していたときからの知り合いで、そのせいか、普段はあまりライブには来ない、当時の知り合いが何人か聞きに来てくれました。
3月26日(土)
京都の北白川通りにあるガケ書房でライブをしました。閉店後の夜の本屋をライブハウスにしてしまおうという「夜の本屋」シリーズの一環です。でも、ここでは普段からたまにライブをしているそうなのです。しかもライブ後深夜12時まで営業するので、閉店後のライブにはなりませんでした。ガケ書房の山下さんはまだ33歳なので、そのせいか聞きに来てくれた人たちも若い人が多いようでした。小さな子連れの家族もいました。いつもの磔磔でのライブとはまた違う客層のような気がします。
ライブの後はずいぶんお店に長居して、本やCDをいろいろ買って、それからお店の人たち3人とぼくとユミとでラーメンを食べてお開きでした。昼間は眠ったふりをしていても、夜になると本屋の本は目を覚まします。歌っていると本もまた耳をすまして聞いているような気がしました。
3月27日(日)
「雲遊天下」に連載しているインタビューエッセイ「補聴器と老眼鏡」のために、村元武さんに会いました。村元さんは「雲遊天下」の編集長です。連載の最終回に、その編集長に登場してもらうことになりました。本人は全く乗り気ではなかったのですが。
三条通りにある喫茶店で約2時間お話を聞きました。村元さんがどんな人かがわかってくると、「雲遊天下」という雑誌が他のどんな雑誌とも違う理由もわかってきます。そのあたりを書けたらいいのですが。対談の後にユミが村元さんの写真を撮ったのですが、写されることもとても苦手そうでした。
インタビューの後、3人で食事をしたりしていたら夕方になってしまい、夜の新幹線で横浜に帰りました。
友部正人
3月24日(木) 神保町
御茶ノ水の古書会館で今日から始まった「本屋さんのカバー展」に行きました。主催の書皮協会は最近「カバー、おかけしますか?」という書店のカバー集を出したところです。その本の中に、ぼくのイラストを使ったイシオカ書店のブックカバーが紹介されていたことをここに書いたら、それを見つけた書皮協会の方からメールをいただきました。今日のカバー展のこともその方から案内をいただいたのです。
イシオカ書店のブックカバーは2001年の書皮大賞を受賞したので、歴代の受賞カバーと共にガラスケースの中に飾られていました。イシオカ書店もそうですが、そのガラスケースの中の書店の大半はもうすでになくなってしまっているのだそうです。今までは気にもとめなかったブックカバーですが、改めて見るとどれも味わいがありました。協会の方たちは、わざわざブックカバーのために旅をしたりするそうです。ライブツアーのときにカバーを探せるともくんはその点有利だね、とユミもすでにその気になっていました。
その後は久しぶりに神保町をぶらぶらしました。カツどんを食べたり喫茶店に入ったり、なんだかとても楽しかった。神保町には本当にたくさんの本屋があって、それもまた楽しかったです。ジョン・レノンモデルの眼鏡ばかり売っている眼鏡屋さんもありました。いつか買ってみようかなと思いました。
友部正人
4月1日(金) 千葉アンガ
千葉に歌いに行くのはいったい何年ぶりなのか。思い出したくても思い出せません。10年?20年?いや、もっとかもしれません。うれしいことにそんな千葉のライブハウスから声がかかって、歌いに行ってきました。アンガというライブハウスです。菱田くん、嶋田くんという二人の若いシンガーソングライターたちが共演者でした。
横浜からガンボスタジオの川瀬さんの車で海沿いに走っていったのですが、川が海に流れるところに水門が多いのに気づきました。水門といえば北海道の釧路湿原ですから、広い千葉県がぼくには北海道のように思えてきました。
菱田くんと嶋田くんが30分ずつ歌い、その後ぼくが1時間ちょっと歌いました。まだ20代の二人の歌を聞きに来た20代の人たちと、ぼくの世代の人たちとが、同じ場所で歌を聞いてくれているのはすてきな感じでした。時代の波長は世代が偏ったところには生まれないような気がします。そのことが新鮮な夜でした。
友部正人
4月3日(日) 横浜サムズアップ
マーガレットズロースと横浜のサムズアップでライブをしました。去年の寿町フリーコンサートでぼくとマーガレットズロースが出演したとき、サムズアップのオーナーの佐布さんが聞きに来ていて、「マーガレットズロースっていいバンドだね」と言っていたのを思い出します。今年1月の「ドント・ソングズ・デイ」のとき、マーガレットズロースはサムズアップに初登場。そのときは彼らはどんとの「ひなたぼっこ」をやっただけでしたが、今回はじめてオリジナルを1時間たっぷり披露しました。
ぼくは、3月にマーガレットズロースとデモテープを録音した新曲5曲を今日はぜひやってみたいと思っていました。それ以外にも、マーガレットズロースがアレンジしたぼくの、以前からやっている曲をやりました。新しい曲はまだぼくもマーガレットズロースも、取り扱い説明書を読みながらやっているようで、ぎこちなかったかもしれません。その分後半のいままでのレパートリーは生き生きしてました。ギターの平井くんは「このテンションのままもう一度はじめからやりたいね」と言っていました。でも後半がよかったということは、全体も良かったということです。ぼくはそれでいいと思いました。
友部正人
4月13日(水) オールド・フレンズ
大阪での最も古い友だち、大塚まさじと二人のライブが、多摩パルテノン小ホールでありました。司会はアルフィの坂崎くんです。「オールド・フレンズ」というタイトルのコンサートなのに、坂崎くんと話をするのははじめてでした。東京の下町で生まれ育った人で、物怖じするところがありません。とても人懐っこい人でした。大塚ちゃんは大阪の人だけど、坂崎くんとは共通点がありそうでした。そして舞台監督はやはり大阪弁の田川律さん。舞台監督には声を張り上げて張り切る人もいるけど、田川さんのように物静かで、必要なときだけそうっとやってきてニコニコしている人っていいなあって思います。緊張がほどけていく。
コンサートは思ってた通り、いやそれ以上に良かったです。ただのジョイント・コンサートではなかったと思います。お客さんも多く、反応もちゃんとあって、聞いてくれているのがよくわかりました。このFFA主催のコンサート・シリーズ、今回で47回目になるのだそうです。ぼくは今日で2度目でした。前回は遠藤賢司さんとのジョイントでした。そんな今までの積み重ねが感じられたことが、普通のコンサートじゃなかった理由だと思います。
アンコールは3人で「一本道」と「プカプカ」でした。そして終了後、会場にはサイモンとガーファンクルの「オールド・フレンズ」がかかっていました。
友部正人
4月15日(金) レコーディング
BankART1929というグループが運営している、横浜みなとみらいの倉庫で、14日、15日の2日間、レコーディングをしました。エンジニアの吉野金次さんに下見をしてもらったら、この倉庫のエコーは録音には最高、といわれ、実行することにしました。
倉庫は運河に面していて、対岸には赤レンガ倉庫が見えます。あんまり景色がいい場所なので、みんなため息をつきます。倉庫の2階はギャラリーになっていて、BankARTが経営しているカフェがあります。
14日は武川雅寛くんと水谷紹くんに来てもらい、4曲録りました。気温は10度以下で、コンクリートむき出しの広い倉庫の中はとても寒く、温風器を最強にして何台も回したら、熱で延長コードが焼けてしまい、もくもくと煙が出て大騒ぎ、なんてこともありました。でも録音は武川くんと水谷くんのおかげで順調に進み、予想していたよりもおもしろい仕上がりになった曲もあります。
15日はお昼からマーガレットズロースと2曲録る予定だったのですが、ボーカルマイクの調子が悪く、ようやく録音が始まったのは3時ころでした。真新しいコンクリートの床から発生する湿気が原因らしいです。そのおかげで吉野さんの持ってきたボーカルマイクはだめになり、ガンボスタジオから借りることになりました。
何を喋っているのかわからないくらい残響がすごいので、本当にこの倉庫でだいじょうぶなの?とみんな半信半疑でした。「最高ですよ」と吉野さんが言うように、マーガレットズロースとの2曲もいい感じで録れました。モニターがないので、彼らはさぞやりにくかったでしょう。ぼくの歌う声など、三人ともほとんど聞こえなかったでしょうから。でも彼らは見事な演奏をしてくれました。
日暮れ時にはマイクを倉庫の外に持ち出して、「鎌倉に向かう靴」を武川くん、水谷くん、ぼくの3人で、運河を見ながら演奏しました。しょぼしょぼとした感じが出て良かったです。風の音や遠くの車の音も一緒に録音されていたことでしょう。今回この倉庫を選んで本当に良かったなと思いました。
録音はまだ全部終ってはいません。発売日もまだ決まっていません。ちょうど2日間だけ倉庫が空いていて、みんなのスケジュールもよかったので、ぜひ録っておこうと思ったのです。どんなアルバムになりそうかは、今回の録音を何回も聞いてから考えようと思います。
友部正人
4月18日(金) 高田渡
4月16日の朝に高田渡の訃報を聞いてから、今日までは長い一日だったような気がします。渡の危篤については、4月5日に聞いて知っていたのですが、途中持ち直したという話もあったりして、まだまだ大丈夫、とぼくは思っていたのでした。
今日のお葬式のことは16日の夜に連絡をもらいました。ぼくは17日に九州の柳川でライブがあって、18日の午後に飛行機で戻って来る予定だったのですが、急遽それを変更して、17日のうちに日帰りをしました。幸いにも柳川のライブが午後4時からだったので、福岡空港からの最終便に間に合ったのです。
柳川のライブは中山という町の公園でありました。この公園の藤の花はとてもきれいだそうですが、今年は咲くのが遅れていて見られませんでした。でもだだっ広い公園には模擬店もたくさん出ていてとてもにぎやかだったし、ステージの前の芝生では数十人の人たちが、暑さにもめげずに熱心にぼくの歌を1時間半聞いてくれました。
渡のお葬式は、吉祥寺カトリック教会でありました。倒れた釧路の病院で洗礼を受けた渡はパウロ・高田渡になったのです。教会は悲しみに包まれ、一歩足を踏み入れたとたん、ぼくもその悲しみに逆らうことはもうできませんでした。お通夜に行かれなかったぼくとユミは、友人に勧められて、セレモニーが始まる前に棺の中に横たわる渡に会いに行きました。渡の顔は、地面に散った花びらのようにしわしわでした。だけど苦痛の跡はなく、ぼくもユミも無言で長い間、その静かな顔に見入ってしまうのでした。
渡は自分が歌う「私の青空」に送られて、霊柩車で火葬場へと運ばれて行きました。最後にお別れの拍手が霊柩車の周りで沸き起こったときは、まるでコンサートのようでした。もう誰もアンコールとは叫びませんでしたが。
16日からの長い一日は、火葬場で渡の骨を見た瞬間に終りました。渡の骨をはしでつまんで骨壷に。そのとき何人かの人たちがしたように、ぼくも骨の小片をハンカチにくるんでポケットにしまいました。教会に戻ったぼくたちは、みんなと一緒にそのまま「いせや」に。教会の神父さんが、「いせやのカウンターは高田渡の祈り台だった」という話はおもしろかった。お葬式の後はみんな一人になりたくないのか、「いせや」で飲んでそのあとは「のろ」に移動し、そこでもいつまでも一緒にいるのでした。
友部正人
4月20日(水)ぼくたちはナイス・キャッチャー
ナカマコフというバンドがあって、ぼくは「ロック?」というアルバムのチラシに推薦文を書いたことがあります。ナカマさんという女性がバンドネオンを弾きながら歌も歌います。そしてギターとバンジョーは元バンバンバザールの安達くんです。その安達くんに用事があって、会いたいなあと思っていたら、ナカマコフと元ボ・ガンボスのベースの永井くんが横浜サムズアップでライブをするというので、ユミと聞きに行きました。全部で4組の出演者の、永井くんは最後だったので、結局最後まで聞いてしまいました。
ナカマコフは白い船の上が似合いそうなバンドです。曲は少しひねくれていて、それをずいぶんさらっと演奏していました。安達くんがギターを弾くとちょっとジャズっぽいし、バンジョーだとかえってロックっぽくなるのがおもしろいです。おしゃべりは必要最小限。演奏に没頭していてよかったです。
Dr.TOSH?としての永井くんは初めてです。ツアーでは一人も多いらしいですが、今夜はギターとドラム、それに飛び入りの人たちが参加していました。「メッセージはマッサージ」「セントラルステーションとイマジネーション」「ストロベリー・ピープル」「ナイス・キャッチャー」「自由行動開始」など、永井くんが演奏中に発する言葉はどれも卒倒するほど突飛でおもしろいです。それに演奏は永井くんのベースがメインですから、そのテクニックにも改めてびっくりしてしまいました。要するに夢中になってしまい、ここ2週間の憂さもちょっと晴れたのでした。
友部正人
4月23日(土) 映画日本国憲法
ジャン・ユンカーマン監督のドキュメンタリー「映画日本国憲法」を見に行きました。中野のスペース・ゼロという小ホールで上映会があったのですが、場内は超満員でぼくもユミも通路に腰を下ろして見ました。
このところ新聞で改憲の文字の載らない日はないくらいです。どうしてこんなに改憲が活発になってきたのでしょう。少し前なら、こんなにおおっぴらには言わなかったはずです。なんだか無用の空騒ぎのような気がします。この「映画日本国憲法」に登場する外国の人たちは、今の日本の改憲騒ぎをもっと冷静に見ています。そしてこの人たちの意見の方にぼくは説得力を感じます。必要なのは改憲ではなく自立なのに。誰も自分の意見をちゃんと言っていないように思える今の日本はとても危険な気がします。ドイツの首相は絶対ヒットラーのお墓参りなんてしませんよね。
映画の後は渋谷で、安藤健二郎くんが参加しているカセットコンロスや松竹谷清のライブを聞きました。カセットコンロスのライブは初めて。途中でボーカルの人が喋りすぎて、「フォークの人みたい」と言っていました。そうか、フォークってそう映っているんだなあと思いました。カセットコンロスはダンスバンドなので喋っている暇はなさそうでした。松竹谷清に会うのは久しぶりで、元気そうでうれしくなりました。札幌の人なのに、なんだか沖縄のおじいちゃんのようです。彼のあったかい歌は南風のようにやわらかいです。今度また一緒にできるチャンスがあればいいなと思います。
友部正人
4月24日(日) ジョギング
横浜の野毛では「大道芸人祭り」をやっていたのですが、ぼくとユミはジョギングに出かけました。目的地は横須賀の入り口、追浜です。途中シャツを着替えたり、トイレに行ったり、ちょっと歩いたりしながら、国道16号線をひたすら南にのんびり走り、2時間40分で到着しました。距離は18キロくらいでした。
前にライブをしたことのある小さな居酒屋「どんすぃんくとぅわいす」に行くと、ちょうどマスターが入り口にのれんをかけて開店するところでした。ただひたすら走ってたどりついたカウンターで、ユミはビール、ぼくは日本酒を飲んで、色々とおいしいものを食べて、帰りは電車で帰りました。おもしろかったので、また走って飲みに行こうと思います。
友部正人
4月27日 九州
今日ライブをした鹿屋市にあるFAROという美容室は、雑然としていて、おもしろい場所でした。美容室なのにバーがあったり、壁にはエゴン・シーレの絵が何枚もかかっていました。隣にある「ブルーバードカフェ」というレストランも、美容室と同じように手作りで、ソファやテーブルも拾ってきたような感じ。飾ってあるものも感覚的で、お金をかけないで楽しんでいるみたいです。二つの店のオーナーはまだ28歳の男性です。ライブにそなえ、「何かを思いつくのを待っている」を何回も聞いてくれて、「横顔」や「羽根をむしられたニワトリが」をオーナーがリクエストしてくれました。また来年もやりましょう、とも言ってくれました。
4月28日 
今夜は熊本市のはずれの「かみひこうき」でライブ。トウモロコシ畑のなかにぽつんとある一軒家のライブハウスです。ちょっと宮古島に似ています。
まず最初に風太郎くんが歌いました。彼はいつもエレキギターです。「大工のじいちゃん」という新しい歌がおもしろかった。そのあとぼくが一時間半ほど。最近は歌う前に弦を張り替えないようにしています。
「かみひこうき」の夫婦の息子さんの手料理で打ち上げ。「かみひこうき」の二階は高田渡の常宿だったそうです。だからやっぱり話は渡の話に。そういえば今日は東京で、高田渡のお別れ会が開かれたはずです。

友部正人
4月29日(金) 九州 2
糸島郡志摩町の「ライジング・サンセット」でライブをしました。「ライジング・サンセット」はライブをするときの呼び名で、普段は「ハイジの家」と呼ばれていて、インドネシアなどの雑貨も売っているレストランです。ご主人の栗原さんはカントリー・ミュージックが好きで、ステージにはハンク・ウィリアムズの似顔絵がかかっていました。今回ぼくはハンク・ウィリアムズの歌詞集を読みながら九州を旅していたので、偶然の一致のようなものを感じました。そういえば「ライジング・サンセット」という店の名は、ぼくの「夕日は昇る」という歌の題と同じです。でも、ぼくの歌からつけた訳ではないそうです。
最初に原口さんという女性がギターで弾き語りしました。自作の曲に加えて、「港の見える丘」という古い歌謡曲も歌っていました。ぼくは主催の山北さんからリクエストされて、「夕日は昇る」や「古い切符」などを歌いました。お店は近所や遠方からの人たちでぎっしりで、悲しい歌も重くはならず、透明になる気がしました。

5月1日(日)
長崎では今回も「御飯」でライブをすることになっていたのですが、店主の吉村さんの都合で、急遽「オハナカフェ」に変更になりました。オハナとは、ハワイの言葉で家族という意味だそうです。会場が変更になって心配したのですが、今まで「御飯」に聞きに来てくれた人たちが、オハナカフェにも来てくれてうれしい気持ちでした。ただ、オハナカフェは「御飯」の3倍ぐらいの大きさなので、「御飯」ではぎっしりでも、オハナカフェだとがらーんとして見えます。
初めての店に、最初はぼくもちょっと人見知り気味だったのですが、お店が準備してくれた打ち上げでおいしいものを食べながら、店主の田口さんと話しているうちにすっかりゆるんできて、帰るときにはまたここでやりたいなあ、と思ったのでした。

5月2日(月)
長崎からバスを乗り継いで、阿蘇山中の牧場で1日から始まっている「虹の岬まつり」に参加。噂以上に素晴らしい場所で感激でした。広い牧場にはすでに数え切れないくらいのテントが立てられていて、よく見るとみんな自分のテントでいろんなものを売っています。
ぼくの出番は夜9時からだったので、ぼくを誘ってくれた風太郎くんと、その前に近くの温泉につかりに行きました。風太郎くんの二人の息子たちも一緒です。まだ小学生の彼らは、風太郎くんのステージでドラムやカウベルをたたきました。それがなかなかきまっていたのです。風太郎くんからリクエストされ、ぼくは「Speak Japanese,American」を歌いました。会場には外国人もたくさん来ていて、ぼくのこの歌はどう伝わったのでしょう。
トイレのない牧場にテントを張り、1000人近い人たちが5日間もすごすこのような野外コンサートは、日本全国探してもないでしょう。主催のろくろうくんが「国」と言っていたけど、一夜にして生まれた町のようでした。
友部正人
5月4日(水) 春一番
春一番を見るために1日から大阪に来ているユミと3日に大阪で合流。1日はあいにくの雨でとても寒かったそうです。今日は朝からすごくいい天気で、お昼過ぎに会場の服部緑地野外音楽堂に行ってみると、ちょうどいとうたかおや佐久間順平、中川イサトらがステージで高田渡の「自転車に乗って」を歌っているところでした。一瞬七十年代の春一番のようでしたが、そこには高田渡の姿はなく、やっぱりさびしい気持ちになりました。今年の春一番ではなぜか、他にも自転車の歌がいくつかありました。それに「雲遊天下」最新号は自転車と酒と散歩の特集です。(ぼくの連載エッセイ「補聴器と老眼鏡」は今号で最終回で、編集長の村元さんがゲストです。)
4日はなんと超満員で、まるで70年代の春一番のようでした。ぼくの出番は最後から2番目だったので、何回も楽屋と客席を行ったり来たりして、そのうちにだんだん待ちくたびれてきてしまいました。歌う前はお酒は飲めないしね。今年も出演者が多く、ぼくの持ち時間は20分。だいたいみんな3、4曲ずつです。ぼくは「まちは裸ですわりこんでいる」「Speak Japanese, American」「ニレはELM」「一本道」の4曲を歌いました。終るとちょうど夜になり、風太から「いい時間帯にしてやったんやがな」といわれました。「一本道」を想定して、ということかなと思いました。ぼくが終ってトリは金子マリさん。高田渡が訳して歌っていた「朝日のあたる家」をアニマルズのアレンジで歌っていました。マリちゃん、何回も歌詞を間違えたりして、子供みたいでおかしかった。
いつもはビールを手離さない風太が、渡の死を境にお酒をやめたとか。アズミもお酒をやめてもうだいぶたつそうです。とても若返っていました。酒を飲む人が減ると、ぼくのヨッパライが目立つから気をつけよう。それにしても、今回が最後なのかどうかは結局わからなかった。もう一人の主催者アベちゃんは「もう言うてしもたからなあ」と繰り返すばかり。ということはまた来年もやるということなのかも、と思いました。「やっぱ、春一をやめるっていうのもなあ」と来年言いそう。
友部正人
5月15日(日) レコーディング2
4月15日からほったらかしになっていたレコーディングを今日再開、そして今日すべて終了しました。合計3日間で全8曲です。4月のときは横浜の倉庫で録音したのですが、今日は世田谷のスタジオで、オーバーダビングが2曲と新しい曲を1曲録音しました。ダビングはペダルスチールの高田漣くんとマーガレットズロースのギターの平井くん。平井くんは突然今日電話でお願いしたのでした。自分の引越しパーティの準備を抜け出して、ギターを背負ってバイクを飛ばして来てくれました。夕立の後虹が出ていて、その下を走って来たのでしょう。漣くんは小さな子供の頃から知っているけど、こうしてミュージシャンとして来てもらうのははじめてです。今日はじめて漣くんの演奏を生で聞いたのですが、エンジニアの吉野さんも思わず「うまい!」と声に出すほどいい演奏でした。新曲の「朝の電話」はピアノのロケット・マツと 2人だけで静かに演奏しました。はじめて歌うので、ぼくにしてはめずらしく何テイクもやり直し、一番最後のをOKにしました。
友部正人
5月21日(土) 留辺蕊(るべしべ)
3年ぶりの瑠辺蘂でのライブは、前回の板橋文夫さんとのジョイントライブの時と同じ図書館でやりました。
主催の秋山キヨシくんは留辺蘂の写真館の主人ですが、若いとき吉祥寺の「ぐわらん堂」でアルバイトをしていたことがあり、そこでぼくとも知り合い、ぼくの73年のアルバム「またみつけたよ」のジャケット写真を撮ってくれました。当時キヨシはシバと同じ吉祥寺のアパートに住み、自分の部屋で写真の現像をしていました。風景の一部だったものが、写真になると風景から切り離され、物に変化するのがおもしろかったのを覚えています。
今夜の会場の受付には、二年前にキヨシが撮った高田渡の写真が缶ビールとともに立てられ、それを見つけたお客さんが思わず手を合わせたりしていました。やっと開花した桜と共に渡の訃報も届いた感じでした。でもコンサートはそれとは関係なく、最後まで楽しく気持ちよく演奏できました。

5月22日(日) 厚岸(あっけし)
「コンキリエ」って何?と主催の中島均ちゃんにたずねると、パスタの種類なのだそうです。どうしてパスタの種類が道の駅の名前になったのかたずねたら、一般公募して通っちゃったんだよね、ということでした。カタカナの響きに人気があったのでしょうか。
今夜はそのコンキリエのパブリックスペースでライブをしました。均ちゃんの知り合いが大勢聞きに来てくれました。ビールの売り上げがものすごかったとか。さすが漁師町!と誰かが言ってました。中島均ちゃんは厚岸でずっと牡蠣を育てていて、厚岸町の顔として雑誌にもよく登場する人気者です。
友部正人
5月24日(火) 帯広 キッチンノート
昨日、ぼくは帯広でユミと合流。ユミは羽田から飛行機で、ぼくは東川町の友だちの岡崎くんと熊さんの車で、厚岸から帯広に。岡崎くんは夕方東川に帰りましたが、ぼくとユミは明日のライブの主催者の長井みゆるくんと屋台村で飲みました。
今日はお昼に帯広名物の豚丼を食べて、会場のキッチンノートに。みゆるくんはアコースティックギターで歌う37歳のシンガーソングライターですが、本職はお寺のお坊さんです。でもギターを持つとTシャツの似合うロッカーで、生活感のある日本語の歌を迫力のある声で歌います。みゆるくんの歌を聞いていたら、ぼくは今夜久しぶりに「なんでもない日には」を歌いたくなりました。

5月25日(水) 札幌 くう
今日で55歳になりました。4年連続でライブをやらせてもらっているので、「くう」の山本さん夫妻とはすっかり顔見知りになりました。今年はまったくのソロで歌ったのですが、「ゼロ」とか「ボロ船で」とか、今夜は誕生日らしくない昔の暗い歌を歌いたい気分でした。それがけっこう新鮮に感じたので、ぼくはやっぱり暗い歌のほうが好きなんだなあ、と思いました。
主催の木下さんがぼくのために特製バースディケーキを準備していてくれて、いつも聞きにきてくれるまちこさんがシャンペンとワインを持ってきてくれました。あとから永田夫妻も自家製のチーズとソーセージとパンを持って再登場。そんな予想外のことがあって、打ち上げはうれしいバースディパーティ。
友部正人
5月26日(木) モエレ沼公園
地下鉄とバスを使って札幌市東区にあるモエレ沼公園に行きました。途中までしか行かないバスに乗ったので、停留所二つぶん歩いたのですが、公園の中のモエレ山とガラスのピラミッドは遠くからでもよく見えました。何にもないところにぽつんとある公園だからです。イサム・ノグチの設計によるこの公園はまだ未完成のようです。ガラスのピラミッドの中を見てから、モエレ山に登りました。芝生だけのこんもりした山ですが、登ってみると結構高いのです。遠くまで見渡せて素晴らしくいい気持ち。帰る時間になり、先に下りていくユミを頂上から見ていたのですが、芝生の中に小さくなっていく様子がおもしろいです。
昨夜の主催者の木下さんに公園まで来てもらい、車で千歳空港まで送ってもらって、夕方の便でぼくは秋田に、ユミは横浜に向かいました。
友部正人
5月27日(金)秋田ツアー
秋田と南米で活躍するフォルクローレのグループ、「ベル・ビエントス」のあるまんど・山平さんが、今まであまり秋田で歌う機会のなかったぼくのために、秋田県内3ヵ所のミニ・ジョイント・ツアーを企画してくれました。
今夜はまず合併で新しく誕生した大仙市にある唐松温泉に行きました。秋田市から車で40分ぐらいの山の中の温泉旅館で、その中の東兵衛屋敷と呼ばれている、古い農家のような建物で、音響設備もちゃんと入れてライブをする予定でした。ところが午後2時ごろ落雷で全館が停電してしまい、結局ライブが終るまで復旧せず、ろうそくの明かりと生音で最後までコンサートをしました。演奏者の顔もよく見えない暗闇の中のコンサートだったのに、それがかえってお客さんには好評だったようで、貴重な体験をしたと喜んで帰ったそうです。散々だったのは、せっかく準備をしたのに機材を使えなかった音響の人と、旅館のご主人です。ご主人はいつになったら復旧するのかとやきもきして、最後までライブを楽しめなかったそうです。(ポンプで井戸水をくみ上げているので、停電すると水まで止まってしまうのです。だからお客さんにとって大変だったのは水洗トイレでした。)
5月28日(土)
唐松温泉にはめずらしい窯風呂があります。サウナのようなものですが、温度は50度ぐらいです。朝起きて温泉につかり、昼ごろ山平さんと八郎潟へ向かいました。
山平さんのグループ、ポロロッカは、ギター、チャランゴの山平さん、サンポーニャとフルートの高久さん、パーカッションの斉藤さんという編成なのですが、今日はダンサー2人とベースも入ったベル・ビエントスとして演奏しました。主催のメビウスは八郎潟のリクリエーション活動のグループで、ここには様々な職種の人たちが集い、OB会もあります。酔っても活発な人たちで、ぼくは途中で帰りましたが、二次会では八郎潟町の願人踊(がんにんおどり)が披露されたようです。八郎潟は山平さんの地元で、ラテンっぽい熱い人たちが多いみたいです。
5月29日(日)
昼食のときダンサーのベベさんが、衣装のスカート丈についてみんなに意見を聞きました。アルゼンチンではふつうの衣装らしいのですが、下着が見えるほどの超ミニなのです。結局誰も的確な意見を言うことはできませんでした。
ツアー最終日は秋田市のカフェ・ブルージュという北欧風レストランです。住宅街にあるきれいなお店でした。ぼくとポロロッカのセッションも、3日目でやっとまとまってきました。「愛はぼくのとっておきの色」「羽根をむしられたニワトリが」「月の光」「夜になると」に加えて、「水門」「夕日は昇る」なども一緒にやりました。山平さんは演奏だけではなく、全体のマネージャーみたいなこともやり、打ち上げではあまり遅くならないようにぼくに気を使ってくれました。おかげでぼくは秋田ツアーを、最後まで体調をくずすことなく満喫することができました。
友部正人
6月2日(木) ジョン・ハモンド
今月下旬にエイ出版から出るマーチンギターのムック本の取材を受けました。といっても主役はギターなので、撮影もギターが主。ぼくのマーチンはD-18とD-12-35です。
夜は、アメリカの白人ブルースシンガー、ジョン・ハモンドのライブに行きました。横浜のサムズアップです。ジョン・ハモンドもマーチンの小さいギターを弾いていました。13年使っているそうです。トム・ウェイツやハウリング・ウルフの曲、1963年の自作曲、ピッツバーグでヒットしたことのあるという曲。どの曲にもいろんな思い出があるようでした。自分が若いときのことを話すとき、顔も子供のようになるのが印象的でした。きっとぼくもそうなのかもしれないですが。
アズミがオープニングアクトで30分ほど歌いましたが、伊勢の外村くんのコーヒーの歌や、早いテンポのメドレーのような演奏がおもしろかった。12日間パリにいっていたそうです。フランスのコーヒーの匂いがまでシャツにしみついているとか。
ぼくも5日にスターパインズでソロライブをします。今夜の二人のように、今は思い切りギターを弾きまくりたい気分です。
友部正人
6月3日(金) 坂崎さん
今夜、FM・NACK5の坂崎幸之助さんの生番組に出ました。坂崎さんとは4月13日のパルテノン多摩での大塚まさじとのライブのときに、楽屋でたくさん話をしました。それから番組出演の依頼がきて、彼の番組で話をすることになったのです。坂崎さんはこの生番組をもう7、8年続けているそうです。今夜はその333回目だったそうです。
番組の間中彼はギターを放さず、ぼくにも一本用意していてくれたので、高校時代に作った歌のさわりや、5月に録音したばかりの「朝の電話」を生で歌ったりして、坂崎さんの部屋に遊びに行ったような感じがして、生番組だということを実感しないまま1時間半が過ぎてしまいました。
でも番組の進行中にたくさんEメールやファックスが届いたので、聞いている人のことも頭のどこかで想像していました。CDよりラジオの方が聞き手の存在が間近です。終って、まだまだ話したりないと思ったのですが、家に帰ってきてみるとわりと疲れていて、あれでちょうどよかったのかなと思いました。
友部正人
6月5日(日) スターパインズカフェ
長い一日でした。2時にガンボ・スタジオの川瀬さんが来てくれて、絵本や英語の本をダンボール何箱も、5月からみなとみらいに借りている別室に車で運びました。再開発のために2年後には取り壊しになる古いビルで、「友部正人文化祭」でお世話になったBankART1929の池田さんがぼくにも声をかけてくれて、1年半だけ借りることになったのです。今年のユミからぼくへの誕生日プレゼントらしいのですが、今のところまだ使い道はなく、リボンはかけたままです。(先日、取材でギターの撮影に使いました。何もないけど雰囲気だけはある撮影向きの部屋です。)
渋滞の環八を、川瀬さんの車で吉祥寺のスターパインズカフェへ。今夜のライブは去年11月のリクエスト大会に続き、ソロでした。ソロだと2部構成にして、7曲、7曲、アンコールというのが最近のパターンです。今夜も7曲でちょうど休憩の気分になりました。今夜の2部はもう少したくさん演奏をして、アンコールも2回でした。汗のシャツを着替えてCDや本の売り場にサインをしに行くと、いろんなお客さんたちが聞きに来てくれたことがわかりました。共演者がいたりバンドでやるときは思わないのだけど、今夜はソロなので、この人たちみんながぼくの歌を聞きに来てくれたのだという実感を持ちました。小さな町でやるときは、主催者の知り合いがぼくの歌を知らないで、誘われてくることもあるのですが。
4月の横浜サムズアップのぼくのライブに来てくれて、その後メールを何回かやりとりした劇作家の宮沢章夫さんも、奥さんやぼくの知り合いの編集者と一緒に来てくれて、帰り道に一緒に中華料理屋に行って、1時ごろまで話をしました。宮沢さんはぼくの隣に座っていたのですが、ときどき顔を見ると、その中の二つの目が深くキラキラと光っていました。その二つの目は花壇の中に埋められた宝石のようでした。奥さんははきはきとしたきれいな方で、ユミと話が合っていました。横浜のときには直接会えなかったけど、すべては今日初めてお会いするまでの準備だったようです。
友部正人
6月9日(木) ニューヨーク
7日からニューヨークに来ています。来た日からニューヨークは連日30℃を越えています。夜もみんなエアコンをつけっぱなしにしているようです。ぼくたちは夜寝るときはつけないようにしていますが。
先日のスターパインズカフェでお会いした宮沢章夫さんの「牛への道」をユミからすすめられて読んでいます。ときどきたまらなくおかしいところがあって、足の裏をくすぐられているような気がします。宮沢さんは読者のくすぐったい場所を探りながら書いているようです。そしてそれがときどきぴったりあたるのです。
読んでいて気になったことがあります。漢字のふり仮名です。ふり仮名は出版社がつけるのでしょうか。「牛への道」は新潮社から出ているのですが、他の出版社の文庫本に比べるとふり仮名が多いような気がします。ふり仮名のおかげで、漢字につっかえることなく、宮沢さんの本をおもしろく読めるのですが。
同じ宮沢ですが、ザ・ブームの宮沢和史さんのヨーロッパツアーのビデオもこちらに持ってきて見ました。これもなかなかおもしろかったのですが、コメントを頼まれているので、ビデオの感想を考えているところです。
時差ボケでまだ始動していない感じです。家で本を読んだりビデオを見たり。
友部正人
6月14日(火) トスカ
今夜は空がきれいでした。夕方から夜にかけて、雲ひとつないいい天気でした。ときどき白い雲がやってきては、いつのまにか消えていました。半分欠けた月が異様にまぶしかった。
四方が木々に囲まれた芝生の真ん中で、オペラを聞きながら空を見上げていました。芝生には何万人もいて、オペラのステージはうんと遠くの方です。非現実的な光景に、ふと空だけが本物だと思えるのでした。
セントラルパークでメトロポリタンオペラのフリーコンサートが今年もありました。ピクニック気分でワインや食べ物を持って、ぼくたちは毎年のように行っています。今夜はプッチーニの「トスカ」でした。パンフレットのストーリーを読むと、希望なんか何もない暗い話だったのですが、オペラってどれもみんなそんなもんでしょ、とユミが言います。ユミは「トスカ」のアリアが前から好きなのだそうです。ぼくは頭にメロディがあまり残らないたちなので、クラシックは苦手なのですが、そんなぼくが今夜とても感動したのは、もしかしたら星空の下の飲んだワインのせいかもしれません。豪華なシャンデリアのある劇場ではなく、オペラは本当は星空の下が一番合うのかもしれません。
友部正人
6月15日(水) リッキー・リー・ジョーンズ
今夜はブルックリンのプロスペクトパークにリッキー・リー・ジョーンズを聞きに行きました。ワイングラスをピアノの上において、最初は鼻声だったのですが、後半にさしかかった頃にはCDで聞くようにぴかぴかの声になっていました。
毎年恒例の「セレブレイト・ブルックリン」というお祭りの初日で、彼女はウッドベースとエレキギターという3人の小編成で、リラックスして自分のステージを楽しんでいました。てっきり水が入っていると思ったワイングラスにはカクテルが入っていたそうです。「カトリックだから告白するけど」と自分でばらしていました。途中でコードを忘れても、歌詞だけはちゃんと覚えていてえらいなあと思いました。もちろん歌詞カードなんて見ません。だから自分の言葉で歌っているのが伝わってきました。
今夜は野外コンサートには不向きなくらい寒く、あったかい上着が欲しい夜でした。
友部正人
6月17日(金) ジョナサン・リッチマン
何年もベッドフォードには行きませんでした。ベッドフォードはブルックリンのマンハッタンに一番近い小さな町です。今夜ジョナサン・リッチマンのライブがベッドフォードのノースシックスというライブハウスであったので、Lトレインで久しぶりにイーストリバーを渡りました。
あんなに繁盛していたLカフェもなくなって、学生町っぽかったベッドフォードも観光地のようになっていました。なくなったお店の代わりに、無数の新しいお店が散らばっていました。古着屋のビーコン・クロゼットも倉庫のようなところに移っていました。ちょうどそのまん前にはブルックリン・ラガー・ビールの工場があって、一杯3ドルで好きな種類のビールを飲ませてくれます。曜日が限られていたのかもしれないけど、たまたまやっていたのでぼくたちも一杯ずつ飲みました。ぼくたちというのは、ぼくとユミと、日本から旅行で来ているミウラくんです。
ジョナサンとドラムのトミーの二人のユニットです。ジョナサンはトミーのドラムソロに合わせて鈴を振ったりカウベルをたたいたり踊ったりして、前よりも演奏を進化させていました。途中でPAが故障してマイクが使えないときは、ジョナサンは生声で歌い、お客さんはシーンとして聞いていました。
何年か前にハイロウズがジョナサンとトミーを日本に呼んでツアーをしたのですが、大阪城野音でのライブのとき、マーシーとヒロトくんに誘われて、ぼくも飛び入りで何曲か歌ったのです。そのときのことを覚えているかもしれないと思って、終演後ステージから降りてきたジョナサンに挨拶したのですが、はじめは何のことかわからなかったみたいで、しばらくしてユミを見てぼんやり思い出したかのようでした。
友部正人
6月19日(日) 落選
今日は父の日。前立腺癌と闘おう、という5マイルのレースがセントラルパークであって、ぼくも出ました。男性はみんな前立腺癌になる確立が高いのでしょうか。速くもなく遅くもなく、レースは今日も普通の成績だったのですが、ショックだったことが一つ。今年もニューヨークシティマラソンの抽選にはずれたのです。今日のレースに参加していた走り仲間の岡田さんから教えてもらいました。2年連続です。それで去年ははるばるケープコッドまでマラソンをしに行ったのでした。
レースの後、家に帰ってコンピューターで調べてみたら、確かにぼくはNOとなっていました。しかも大文字で。当選したときには「コングラチュレーション」と主催のロードランナーズクラブからメールがくるのに、落選するとなしのつぶて。ただのNOだけです。ニューヨークから拒絶されてるような感じ。まだ時差ぼけなのか、レースの後夕方まで寝てしまったのですが、落選のショックもあったのかも。
友部正人
6月20日(月) ジョゼ
一夜明けたらマラソン落選のショックからも立ち直り、今日はユミとアジア映画祭に。前から見たかった「ジョゼと虎と魚たち」を見ました。ジョゼの役をした人は「きょうのできごと」にも出ていた人だと思うのですが、かなり印象にこびりつく人です。夢にまで出てきそうです。あの強烈な大阪弁のせいもあると思います。
映画はさらっとしていて、悲しい場面もたくさんあって、なかなかよかったです。ぼくはこういうなんてことのない映画が好きです。こんな感じの映画、もっと他にもあれば、探して見てみたいです。原作も読んでみたくなります。
友部正人
6月22日(水) ダー・ウィリアムズ
マディソン・スクエア・パークでダー・ウィリアムズのソロ・ライブを聞きました。23丁目にあるこの小さな公園でフリーコンサートが開かれるようになったのは今年で3年目だそうです。
何年も前にカーネギー・ホールでピート・シーガーのコンサートがあったとき、ダー・ウィリアムズはゲストで「ターン・ターン・ターン」を歌いました。それからずっと気になっていたのですが、その後一回もライブを聞く機会がなかったのです。
夕方から小雨になり、コンサートの間も降ったり止んだりで、ぼくもユミもミウラくんも傘を持っていなくて、3人とも少しぬれながらライブを聞きました。誰も芝生の上に座ったまま動こうとはしませんでした。若い女性のファンが目立ちました。みんな歌詞に聞き入り、ときおり笑い声をあげます。歌をよく知っている人は一緒に口ずさんでいます。ダー・ウィリアムズはとても知的な女性です。ぼくはCDをただ聞き流していたことを後悔しました。とてもよさそうな歌があったからです。それは「as cool as i am」という歌で、その中に「彼女は淋しさを騒がしさでまぎらわそうとするけど、私が踊れるようになったのは音楽が止まってからだって教えてあげたい」というすてきな言葉がありました。
友部正人
6月24日(金) ボブ・ディラン
モントクレア州立大学の中にあるヨギ・ベラ球場でボブ・ディランとウィリー・ネルソンのコンサートがありました。今ボブ・ディランはメジャーではない小さな野球場を使ってツアーをしています。
当日券の発売時間が朝10時から午後1時まで、という情報だったので、ぼくとユミとミウラくんは朝10時半のバスでニュージャージー州のリトル・フォールズという村にあるヨギ・ベラ球場にでかけたのです。マンハッタンからはたった25分でした。ところが行ってみるとそれは誤報で、発売は3時からとのこと。チケット代金だけ払って3時になるのを待つことにしました。
大学はもう夏休みに入っていて、校内にはひとけがありません。幸いダイナーが営業していて、そこで時間をつぶすことにしました。広大な敷地なので、校内を何台ものシャトルバスが走り回っています。学生がいなくても運行しているのでとても助かりました。何回も乗せてもらった(無料です)ドライバーとは顔見知りになって、すれ違ったら手を振ったりして。州営鉄道NJTの大学駅まで電話をかけにいくと、公衆電話でニューヨークまでかけると高いから、と駐車場の女性が携帯電話を貸してくれました。親切なおねえさんでした。3時にもう一度球場のチケット売り場に行って、後から来るメグの分も含めて4枚チケットを受け取りました。このときすでに完売だったのです。間違って早く行ってお金を払っておいてよかったのです。それから開場までの3時間、炎天下で並んで待つのはとてもきつかった。
でも待ったかいはありました。その夜のディランの演奏は、ぼくが今まで見た中で一番良かったのです。ディランは一度もギターは弾きませんでした。電気ピアノを弾きながら立って歌うのですが、その方がバンドと一体になれるようです。ディランとバンドはステージの左右で向かい合って演奏する感じで、ほとんど客席を向きません。演奏を製造する現場を生で目撃しているようです。真剣に働く様子が、パン屋さんかクリーニング屋さんに見えます。バンドはみんな白いユニフォームを着ていたから。一生懸命働いて、お客さんを満足させて、とても自信に満ちた1時間半でした。アンコールで「ライク・ア・ローリング・ストーン」をやったのですが、ぼくの前にいた10代の若者たちが、前奏がはじまると小躍りして、一緒に歌を口ずさんでいたのが印象的でした。
友部正人
6月27日(月) ゲイ・プライド
ボブ・ディランの翌日は、朝9時からまたセントラルパークの5マイルレースを走りました。毎週のようにセントラルパークで開かれるレースにはテーマがあるのですが、この25日のレースは「ゲイとレズビアン」でした。毎年6月の最後の土曜日に行われます。といってもその翌日の日曜日に行われた「ゲイ・プライド」のパレードのように、派手な格好をして走るわけではありません。主題がなんであれ、レースがあれば参加する人がほとんどです。
今日の新聞を読んでいたら、日曜日の「ゲイ・プライド」のパレードには、おまわりさんたちのチームも参加したそうです。「ここまでくるのにどれだけ時間がかかったか」と感慨深げでした。パレードにはニューヨーク市長もやって来ます。同姓婚が法的にはどうであれ、応援はしているみたいです。ぼくたちは昨日は行かなかったのですが、沿道の見物人の数は毎年増え続けているようです。お祭りはどんどん盛大になっていくのですが、ゲイの人たちの日常は依然肩身が狭いままのようです。(ますます狭くなる傾向にあるみたいで心配です。)
毎月57丁目のホリデーインで開かれている中古レコード市に先日行ったら、ばったりマコトくんに会いました。日本ではほとんど会わないのに、ニューヨークのレコード市では必ず会うのが不思議です。マコトくんは5月から下北沢で「ひよこレコード」を開いています。その買い付けに来ていたのです。
その中古レコード市でもらった「エルモア」という音楽雑誌を読んでいたら、ブルースのミュージシャンたちのことが書いてありました。「なぜ彼らは死ぬまでツアーを続けるのか」と。
B.B.キングは今年80歳だけど、年間200本のコンサートをこなしているそうです。ゲートマウス・ブラウンも80で、しかも癌なのに、ライブやレコーディングはやめないみたいです。ロバート・ロックウッドJrに関しては90歳を越えているといいます。みんななぜそんなにまで演奏活動を続けるのか。それは他にすることがないからだそうです。演奏しないとお金が入ってこないし、お金があっても音楽以外に何も趣味がない。そこでぼくはボブ・ディランのことを思い出しました。「ボブ・ディランはなぜあんなにもたくさんツアーをしているのか」、2週間ぐらい前のニューヨークタイムズにそんな記事が出ていました。B.Bキング、ボブ・ディラン、ウィリー・ネルソンの3人は、アメリカで一番ツアーの多いミュージシャンだそうです。「他に何もすることがないのよ」とユミは言っていたのですが、それは正解のようです。家にくすぶっていたくはないのです。歌っているとき、ディランは本当にはつらつとしていました。「自分が幸せになれることをするのが一番いい」とB.Bキングも言っていました。
友部正人
6月28日(火) リチャード・トンプソン
26日はロン・セクスミスのライブに行きました。セントラルパークのサマーステージです。前後にカナダの元気のいい若い人たちが出たので、一人だけおじさんに見えました。その日はカナダ・デイでした。曲目は1年前のときとほとんど変わりません。レナード・コーエンの歌を1曲歌っていました。6年前にはじめて聞いたときと比べると、元気がなくなっているかもしれません。それとも元々こんな悲しげな感じでしたっけ。元気がなくてもおじさんでも、この人の作る曲はとてもきれいです。きっとまた聞きに行くでしょう。
今夜はリチャード・トンプソンでした。会場はファイナンシャル・センター前の広場。一人で弾き語りです。弾き語りといっても、この人の場合簡単ではありません。アコースティックギターはベースとリードが疾走する2台のオートバイのようにがんがんに鳴り続けます。その上からイギリスのフォーク調のメロディと込み入った歌詞がかたまりになった飛んできます。だから受け止める方は大変です。みんなその歌詞とギターに釘付けになっていました。(ものすごいお客さんの数でした。)家にたくさんリチャード・トンプソンのレコードは持っているのに、ふだんはあまり聞かないから、どれもはじめて聞くようでぼくは戸惑いました。その点ニューヨークの人たちは歌をとてもよく知っています。好きなものはちゃんと聞き込まないと、といわれてるみたいでした。
毎日のようにコンサートばかり行っているようですが、これでも行くのをあきらめたのもいくつかあるのです。もともと6月と7月はコンサートに行くためにニューヨークに来るようなものですが、本もたくさん読んでいます。先日地下鉄の中で現代詩手帖の「石垣りん」特集版を読んでいたら、隣にいた東洋人の女性に「おもしろい詩ですね。なんていう方ですか。」と聞かれました。横から読んでいたのですね。ニューヨークでは東洋人は、中国人なのか韓国人なのか日本人なのか見分けがつきません。聞かれて日本人だったんだとわかりました。石垣りんさんの詩は、横からのぞいて読んでもよくわかるはっきりした強い詩なんだなと思いました。
友部正人
6月29日(水) デビッド・バーン
今回のニューヨークはライブ鑑賞が続いています。こんなことはめずらしいのですが、たまたま行きたいライブが連日のようにあるのです。今年はニューヨークではじめて体験するくらい毎日じめじめしているし、連日のようにあるコンサートは、その湿度のせいではえてきた茸みたいです。
今夜はセントラルパークのサマーステージでデビッド・バーンのコンサートがありました。6人編成のトスカ・ストリングスを加えた9人ぐらいの編成です。ここ何年かはこの編成で活動しているそうです。彼が今までしてきたいろんな人たちとのコラボレーションの作品をメインに演奏していたような気がします。その合間にトーキングヘッズ時代のものも演奏して、客席はそのたびに盛り上がるのでした。「ストップ・メイキング・センス」のころのファンが多いのではないかと思いました。
悪天候で、最初は強く降っていた雨も次第に弱くなって、最後ぼくとユミが帰る頃にはやんでいました。(このライブはめずらしくユミが行きたいといっていたのです。)最後にデビット・バーンの紹介ではじまった、9人編成の黒人トロンボーンのバンドの演奏がが延々と続きそうなので、ぼくたちは帰ってきてしまいました。デビッド・バーンがライブ中に言っていましたが、マンハッタンでは雨雲はニュージャージーから流れて来るのです。この6月はニュージャージーの方の空を眺めることがとても多かったです。
友部正人
6月30日(木) EELS
今夜はタウンホールでEELSのコンサート。前からどんなバンドなのか知りたかったので、コンサートがあると知ったときはうれしかったです。CDは何枚か持っていて、よく家でかけていたので、ユミもかっこいい、と言ってました。音が大きなロックコンサートかと思っていたら大違いで、女性4人のストリングスを従えた比較的おとなしいライブでした。
リーダーのEVERETTはピアノ、足踏みオルガン、ギターを弾きます。ウッドベースの人は長身でモヒカンでピアノも弾きます。もう一人のメンバーはいろんな楽器を弾きこなしていました。ラップスチール、チター、のこぎりバイオリン、Eギター、ピアノ、それにゴミ箱やスーツケース。ゴミ箱やスーツケースはスティックでたたいて、パーカッションのようにして使うのです。
EVERETTは演奏中葉巻をふかし、歩くときはステッキを使います。でもそれが似合わないのです。まだ年齢は40ぐらいで、何のためのステッキなのか。変な人だということだけはわかります。悲観的な内容の歌が多いようです。たとえば「スーサイド・ライフ」は「ぼくたちは一分ごとに年老いていく」というように。そしてEVERETTはそんな歌の中の人物を演じているようです。
地味なインディーズのバンドかと思っていたら人気もあり、タウンホールは満員でした。観客はみんな、彼を理解した上で、楽しんでいるようでした。
友部正人
2005年7月2日(土) ワシントン・スクエア

午前中のワシントン・スクエア。ぼくとユミとメグは芝生に敷物を敷いて、木の根元にはメグが買ってきた花。ぼくはチャキのギターを風のようにポロンポロンと弾きながら、何をしていたのでしょう、ぼくら3人で。実は高田渡の骨のかけらを土に埋めたのです。火葬場で、渡の骨のかけらを持ち帰った人は何人かいて、ぼくたちもそれをニューヨークに持って来ました。生前に渡がユミに「グリニッジビレッジに行ってみたいな」と話したことがあったからです。ニューヨークに住んでいて、渡のお葬式に来られなかったメグを誘って、おとむらいをしたわけです。渡の好きな焼酎もユミがちゃんと用意して。
朝のワシントン・スクエアはまだ人も少なく、ぼくたちがのんびり風に吹かれていても、何をしているのかのぞきに来るのはリスだけです。ソーホーで働くメグは、「これから仕事帰りにたまにここに寄ろうかな」と言っていました。その昔まだ吉祥寺の高校生だったころから、メグは渡をよく知っていました。

今まで何回かぼくのホームページに、ぼくの友部という苗字について書いてくれた方がいますが、ぼくには小野正人という本名があります。友部というアーティスト名は、初めて人前で自分の歌を歌ったときに、突然変異のようにその本名から芽吹いた新しい枝なのです。歌の養分は元の小野という幹からきているのかもしれませんが、花はその新しい枝に咲きます。名前が何であれ、ぼくにとっては歌を聞いてもらえるのが一番うれしいことです。

友部正人
7月4日(月) 比嘉良治さん

今日はアメリカの独立記念日で、夜9時からデパートのメイシーズが提供する花火の打ち上げが3ヵ所ぐらいであったのですが、昼間はクイーンズの日本食レストラン有吉で、ぼくの走り仲間であり、写真家の比嘉良治さんを送り出すパーティがありました。
比嘉さんは5年前にも自転車で一人でアメリカ大陸を横断する旅をしたのですが、今回はスウェーデンからモロッコまでのヨーロッパ縦断の自転車旅行に出発します。それで比嘉さんのまわりに集まったニューヨークの走り仲間たちやアーティストたちが集まって、比嘉さんと奥さんのマドレインを招いてパーティをしました。
有吉のご主人がお寿司などを用意してくれたり、みんなでお酒やケーキを持ち寄ったりして、なごやかな楽しいパーティでした。ぼくはギターを持って行って、比嘉さんのために何曲か歌いました。比嘉さんはドコモやニコンが提供してくれたというデジタル機器の取り扱いがめんどうそうで、それが今のところ頭痛の種らしいです。二ヶ月間の旅の様子は携帯電話やカメラで、ホームページに報告するそうです。
それにしても今年67歳の比嘉さんのフットワークの軽さには感心させられます。思い付きを実現するために行動することは、生きることの基本です。比嘉さんを見ていると、生きるっていうことをそんなに大げさに考えなくても、そうやって楽しめばいいんだと思えてきます。比嘉さんのことは雑誌「雲遊天下」でぼくが連載していた「補聴器と老眼鏡」でも紹介したことがありますから、読んでみてください。比嘉さんはぼくのよきお手本です。

友部正人
7月6日(水) ジュークボックスに住む詩人

6月はずいぶんブルース・スプリングスティーンを聞きました。というのは、現代詩手帖に連載している「ジュークボックスに住む詩人」に「サンダー・ロード」を取り上げようと思ったからです。そしてそう思ったきっかけは「ハイフィデリティ」の作者、ニック・ホーンビイの「ソングブック」を読んだからで、その本を読むきっかけは、ユミが何年か前にニューヨークでその本を買って持っていたからです。「サンダー・ロード」が入っているアルバム「ボーン・トゥ・ラン」は久しぶりに聞くとやはりなつかしかった。連載目的とはいえ、聞きなおしてよかったです。「サンダー・ロード」がいい曲だとわかったから。スプリングスティーンはハンク・ウイリアムズが好きだったみたいです。そんなことは今回原稿を書くまで知らなかったけど、偶然にも今月号の現代詩手帖ではぼくはハンク・ウイリアムズを取り上げています。

今夜は久しぶりにビレッジのバー、ケトル・オブ・フィッシュでシンガーソングライターのフランク・クリスチャンと会ってビールを飲みました。1年ぶりぐらいでした。彼はアパートの立ち退き問題も片付いて、ついに近所のアパートに引っ越したそうです。そのせいか前より元気そうでした。少し酔っ払った帰り道、来年ぐらいフランクを日本に呼んで一緒にライブができればいいな、と思いました。

友部正人
7月9日(土) Dia Beacon

昨日行く予定だったDia:Beaconに朝から。昨日は一日中大雨で、行っても楽しくなさそうだったので今日にしたのです。グランド・セントラル駅からメトロ・ノースで約1時間半、メトロ・ノースはマンハッタンからハドソン川に沿って北に向かって走る郊外電車です。チケット売り場でDia:Beaconに行きたいというと、入場券つきの割引チケットをくれました。往復乗車券と入場券を別々に買うと33ドルだけど、セットだと27ドルでした。電車はずっとハドソン川に沿って走ります。やはり晴れた日にしてよかった。とてもいい眺めでした。

Dia:Beaconはナビスコの工場だった建物を利用した現代美術の美術館です。Beacon駅から徒歩で5分ぐらい。建物に入るとまず、その広さに圧倒されます。通常の美術館やギャラリーにはとても収まらないような大きな作品ばかり集めてあります。リチャード・セラの鉄の壁のような作品や、マイケル・ヘイザーの鉄の火山口のようなものは、このDia:Beaconにしか入らないでしょう。Diaという人はアンディ・ウォーホールのパトロンだったということを読んだことがあります。Dia:Beaconにもウォーホールの作品はたくさんあって、週末には初期の映画の上映もやっていて、ちょうどイーディの映画をやっていました。作品を見ながら館内を歩くと、周囲の窓の美しさに目を奪われます。ユミは窓の写真を内緒で撮っていました。(館内の撮影は禁止だそうです。)

今回のニューヨークでは他にメトロポリタンのマックス・エルンストと、P.S.1の「グレーター・ニューヨーク」という展覧会を見に行きました。
マックス・エルンストはフロッタージュの作品などで好きだったのですが、今回やっと全体像を見ることができました。今回の特徴は、ナチスから逃れてアメリカに来てからの作品もたくさん見られたことです。ドイツやフランスにいたころのだまし絵のような感じとは違う、もっと抽象的な白い絵が多かったです。それがより新しい感じがしました。

P.S.1には新しいアーティストたちの生き生きとした作品がたくさん展示されていました。比嘉良治さんのパーティで知り合った照屋勇賢くんの、紙袋を切り抜いた木の作品がとても印象に残りました。作品を見る前に本人から説明を聞いてもよくわからなかったけど、実物を見てやっと納得しました。照屋くんは今年の横浜のトリエンナーレに、カザルスの演奏をヒントにしたおもしろそうな作品を出品するそうです。

友部正人
7月11日(月) 蛍

今回はだいぶ長くニューヨークにいましたが、明日日本に戻らねばなりません。今日はのんびりできる最後の1日。

「かいじゅうたちのいるところ」のモーリス・センダックの展覧会がジューイッシュ・ミュージアムであって、うれしくて出かけたことをすっかり忘れていました。だいぶ前のことです。いくつかの絵本の原画展でした。モーリス・センダックの絵は本当に好きです。会場にはずっと、キャロル・キングが歌う「チキン・スープ・ウィズ・ライス」がながれていました。

Dia:Beaconへ行った夜は、グランド・セントラル駅で、ちょうど広告の仕事でニューヨークに来ていた知り合いの泉沢さんと会って、駅の中にあるオイスター・バーに行きました。ぼくたちはもう10年もニューヨークを行き来しているのに、オイスター・バーに行くのははじめてでした。5月に北海道の厚岸でのライブを主催してくれた中島均ちゃんが牡蠣を養殖していて、グランド・セントラルのオイスター・バーは行くべし、と言っていました。本当に種類が多く、ぼくはカナダのノバ・スコッシアの生牡蠣を、泉沢さんはニューヨークのロングアイランドの生牡蠣を注文しました。ユミは生牡蠣が苦手で、ロブスターを食べました。(これもうまかった。)ノバスコッシアとロングアイランドでは、ロングアイランドの牡蠣の方が味が濃厚でおいしかった。地方によって牡蠣も味が違うということがわかりました、まだまだいろんな種類があったので、また行きたくなってきました。

昨日の日曜日は朝早くから地下鉄に乗ってブロンクスのベッドフォード・パークまで。ブロンクス・ハーフ・マラソンに出ました。去年も走ったのでコースがわかっていたせいか、気分的に楽に走れました。

午後はセントラルパークのサマーステージにゴスペルグループ、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマを聞きに行きました。ボーイズといっても60年間もやっているそうです。ボーカルの3人とドラムの人が盲目です。そのボーカルの一人の人が客席まで降りてきて、延々と「I feel good,do you feel good?」と歌い続けるのは圧巻でした。歌を聞いていて、あんなにうれしくなったことはないな。その前に出たシチズン・コープというレゲエ・ラップみたいなバンドもよかった。この人たちは若い人に人気があるみたいで、みんな歌をよく知っていた。CDを買って聞いてみたくなりました。

今日の午後は近くのリバーサイドパークにあるカフェでビールを飲んだりして、夜はユミとセントラルパークをジョギングしました。走り始めたのが9時ごろで、ちょうど蛍の真っ盛りの時刻です。走っているとまるで蚊のように蛍が顔や手や胸のあたりにまとわりついてきます。(蛍は火が点っていないとき大きな蚊のようです。)一周して走り終わったのが10時すぎ。この頃になると蛍は数が減ってきます。もう何年も前、谷川俊太郎さんがニューヨークに来たとき、蛍を見せたくて夜11時ごろセントラルパークに一緒にいったのですが、まったくいなかったのを思い出しました。蛍は時間が遅くなるといなくなるのです。

友部正人
7月16日(土) 奈良、樸木(アラキ)

13日に日本に戻って来て、意外に涼しいので拍子抜けしてたら、今日の奈良の暑いこと。ぼくとユミは午後3時半ごろに近鉄の平端という駅に着いたのですが、駅前に何人もの人が倒れている幻が見えるくらいでした。反射的にユミは菓子屋に飛び込んで、あずきアイスを買っていました。

ライブ会場の「樸木」というお店は去年の秋にできたそうです。天然酵母のパン屋さんでレストランもあると聞いて、ぼくはなんとなく京都にあるような木造の日本家屋を想像していたのですが、韓国の田舎にあるような土壁の家でした。しかも住宅街にではなく、田んぼの真ん中にあります。奈良は田んぼの多いところです。いかにも奈良的な景色の中にぽつんと立つ真新しい土壁の家は美しく、いいところに来たと思いました。
呼んでくれた井上ケンゴくんとリカさんは「樸木」の人でなく、他の仕事をやっていて、「樸木」の姉妹とは友だちなのです。井上君夫妻は今日が結婚記念日だそうで、「地球の一番はげた場所」をリクエストされて歌いました。「樸木」は今日のコンサートのためにクーラーを買ったのだそうですが、50人も人が入ると全くききめはありません。休憩なると、外で風に当たるために全員が出口に殺到したそうです。後半はクーラーには頼らず、窓や戸を全開にしたら、その方が涼しく、落ち着いて聞けたようです。
姉妹でやっているパン屋さんらしく、手打ちパスタとパン、生クリームのかわりに豆腐を使ったケーキなど、それからお茶やビールなどで、ヘルシーでかわいらしい打ち上げでした。
外で涼んでいたらひざを虫にかまれて、そこが今は適度にかゆいです。

友部正人
7月17日(日) 浜松

夕べは天理にある、レジャーランドと温泉が合体したようなホテルに泊めてもらいました。夜中も早朝も人がいっぱいでちょっと驚きです。混乱した感じはぼくの歌のようでした。
井上夫妻、「樸木」妹に見送られ、近鉄電車で京都に、そこから新幹線で浜松に向かいました。

浜松駅前のプロムナードで、今日は市役所が主催の交通安全のためのイベントでした。ですから司会進行役は本物の婦警さんです。二人の婦警さん、なかなかの司会ぶりでした。
車椅子で歌う森圭一郎くん、ミディのアーティストのハンバート・ハンバート、ぼく、ぶんやともあきというデュオという順番でした。森くんもハンバート・ハンバートもぶんやともあきも、はじめて聞きました。全然違う性格の歌なんだけど、共通点は誠実なところ。歌はこの人たちの大切な言葉でした。

ぼくの出番の前に婦警さんがステージで奨励していた、手首や足首にワンタッチで巻ける蛍光バンドを、楽屋で無理を言っていただきました。それを腕にはめて歌ったら、他の出演者はぼくが歌うときにいつも使う特別なものだと思ったらしく、打ち上げで「あれはいったい何なのか」、とたずねられました。みんな婦警さんの説明は聞いていなかったのですね。夜ランニングをするユミに、あれがあればいいなあ、と思ってぼくはもらったのでした。

ステージで、何年か前に浜松の駅前でホームレスになって死んだシンガーソングライターのエドのことを思い出しました。思い出していたら、客席から「中道商店街」のリクエストがあってびっくりでした。この歌には、まだ吉祥寺で家族と暮らしていたころのエドがモデルの男が登場します。予定にはなかったけど、歌うことにしました。

友部正人
7月22日(金) 川口、Roots

スウェーデンからモロッコまでの自転車一人旅に出発したニューヨーク在住の写真家の比嘉良治さん、神経過敏のニューヨークからテロ直後のロンドンの空港に着いて、「ロンドンの空港はいたって平常」とのことでした。ニューヨークの地下鉄や長距離列車の駅などでは、グロテスクな武器を抱えた兵隊を見かけたのに。比嘉さんはすでに自転車でオスロを出発したようです。

ぼくは川瀬さんの運転する車に乗って、ユミと3人で埼玉県川口市に向かっていました。首都高で東京を素通りすると、やっぱり遠くまで来たなという感じはします。隅田川、荒川沿いの高速道路がすてきでした。走りながらぎっしりと建物で埋め尽くされた東京を一望できるのですが、なんのためにこんなでかい街があるのかなとも思えます。ある意味ではマンハッタンなんかよりもすごい眺めかも。

今日は川口市の「Roots」というお店に歌いに行きました。オーナーの芝田さんは若いときからのフォークファンで、退職したらライブハウスをやるのが夢だったそうです。いいギターもたくさん持っていて、百数十万円というマーチンを弾かせてくれました。高価なギターは音だけではなく、とても弾きやすく作られています。そこがうらやましいけど、弾きにくくても音があまり出なくても、自分のギターには愛着があるものです。今日はそんな愛着のある、あまり鳴らないエピフォンを前半に弾きました。

リハーサルをしていたら、川口市在住のシンガソングライター、田辺マモルくんがやって来ました。田辺くんは日本語訳で出版されたばかりのボブ・ディランの自伝をもう読んだそうです。「ものすごくクレバーな人だね。」と感心していました。そうなんですね。ものすごく記憶力がいいのです。まるで本を書くためにその時代にもう一度行って来たみたいに。ライブ中にギターパンダの山川ノリオくんと妻のさちこさんも千葉県から来てくれました。一番びっくりしたのは、杉並区の大きな一軒家に住んでいたとき、その二階にしばらく間借りしていた詩人の加藤一夫さんが25年ぶりに会いに来てくれたことでした。埼玉県の川口なのに、いろんな人に会える日でした。

Rootsでは月に一回の割合でライブをやっていくそうです。東京からのお客さんだけをあてにするのではなく、地元のおじちゃん、おばちゃんたちにも聞きに来てもらえる店にしたいと芝田さんは言っていました。ぼくもそうなればいいと思います。

友部正人
7月26日(火) 新作途中報告

今年の4月、5月に録音した8曲と何篇かの詩の朗読のミックスがほぼ終了しました。

今日は台風の中、渋谷にある吉野金次さんの事務所にでかけて、8曲を曲順に並べて聞いてみました。8曲でだいたい35分。今までのぼくのアルバムに比べたらかなり短い。これをこのまま出してもいいのか、それともこれに何か足すべきなのか。曲順に並べて聞いた感じでは、これで十分な感じはします。

4月に録音した横浜のBankART NYKは元日本郵船のだだっぴろい倉庫で、コンクリートうちっぱなしの壁と床なので、普通に話しても残響音がすごいのです。とてもコンサートなんかできそうもないのに、録音にはいいみたいで、将来ここでライブレコーディングがしたいね、なんていう案も吉野さんから出ています。でもワウンワウンに響いて、お客さんには歌詞はほとんど聞き取れないでしょうね。

友部正人
7月27日(水) オリジナルラブ

渋谷のAXに、オリジナルラブを聞きに行きました。田島くんに会うのは1年ぶり。前よりも元気そうなので安心しました。とても楽しそうに歌っていました。最近は翻訳に凝っているそうで、今夜はペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」を自分の日本語訳で歌いました。後で楽屋で理由を聞いたら、「友部さんの影響ですよ」なんて言っていた。前にマービン・ゲイの「アイ・ウォント・ユー」を田島くんのために日本語に訳したことがあります。オリジナルラブが去年出した「街男 街女」は、田島くんのやけっぱちな歌い方がとてもいいので、そのうち会ったらそう伝えたいな、と思っていました。今日はまずそれが言いたかったこと。田島くんは、なんと最近はランニングをはじめたそうです。ステージであんなに元気だったのは、走っているせいかもしれません。今度ユミと3人で、多摩川を走ろう、と約束しました。ステージで最新作だといっていた、ギター、ベース、ドラムスの3人だけの曲が印象的でした。次のアルバムはあんな感じでやったらかっこいいのに、と思います。

友部正人
7月29日(金) 茅野

「くるみ」の小池コータローくんから朝早く電話があって、急遽ライブ会場を変更するという知らせ。彼のおじいさんが明け方に亡くなり、お店の隣でお通夜をするためです。変更先となった「パブロ」はお店ではなく、ライブの日だけオープンする貸しスタジオのような場所。見晴らしのいいテラスに出ると、涼しい風が谷底から吹いてきます。真夏でも涼しい茅野をユミはすっかり気に入っていました。

カミナリグモという名前の青年が一人で30分ほど歌いました。彼のようにギターのうまい若者がふえてきています。弾き方もそれぞれで、決まったパターンがないのが特徴。ぼくがギターを弾き始めた70年頃とは違います。松本からぼくの友だちの精神科医、ふあ先生が聞きに来てくれて、「今日は歌詞がすごく入ってきた」という感想を3回も言ってくれました。歌っていたぼくの目にも、歌詞がふあ先生の耳に吸い込まれていくのが見えるようでした。
呼んでくれたコータローくんはまだ25歳で、ぼくの息子より年下です。両親の経営するレストラン「くるみ」を手伝いながら、自分でも音楽をやっています。25年間諏訪でぼくのライブを主催してくれている木下さんが、はじめてライブを主催するコータローくんの手伝いをしてあげてました。

友部正人
7月30日(土) ネオンホール

ホテルまで木下さんが迎えに来てくれて、一緒に山の上にあるお蕎麦屋さんに行きました。諏訪湖が見下ろせるガラス張りの眺めのいいお店でした。上諏訪駅からJRで長野まで。途中うとうとして、目がさめたら雨が降り始めました。

長野市はたなばた祭りの前で、市営バスの車内にも竹などでたなばたの飾り付けがしてあって、つい乗りたくなりました。
2年ぶりのネオンホール。今夜のオープニングアクトは弾き語りの7人の若者たち。わざとマイクを使わずに一人一曲ずつ歌いました。最年長のジ・エンドこと桜井くんが、この7人を「弾き語り原理主義者」と呼んでいたのがおかしかった。ぼくはマイクを使い、選曲は昨日の茅野とほぼ同じでした。ネオンホールは若い人たちの集まる場所だから、様子もくるくると変わっていくみたいです。今回もいろいろと新しい変化が発見できた。ネオンホールに歌いに行くことは、ネオンホールの変化を確かめに行くことでもあります。

友部正人
8月2日(火) 永島慎二さん

西荻窪の永島慎二さんのお宅を訪ねました。奥さんの小百合さんが永島さんのお話をしてくださいました。「雲遊天下」の連載エッセイを書くために、永島さんのお宅におじゃましてからもう2年がたちます。永島さんが亡くなったことを知ったのは、先月ぼくがニューヨークにいるときでした。
ニ階のリビングの片隅に、永島さんの写真や遺品などが飾られた机があって、ぼくとユミはお線香を1本ずつあげました。仏壇はありませんでした。永島さんの眼鏡をかけてみました。最後まで老眼ではなく、近眼だったそうです。永島さんの日記を見せていただきました。ずっとつけていたそうです。万年筆で、原稿用紙に書かれていました。「淋しくはないですか」とユミがたずねると、「全然。」と小百合さんはおっしゃいます。楽しませてもらったから、思い残すことはないそうです。
記念館は作らないように、という遺言なので、娘さんと小百合さんとで、永島さんが趣味で集めたり作ったりしたものを、近しい人たちに送り届けているところだそうです。本は学校や図書館に寄付したそうです。何も残さないというのはいいな、とユミは感心していました。ぼくのところにも送っていただいたそうなのですが、古い住所に送ったようで、戻ってしまっていました。それは永島さんが大好きだった鉄道模型の機関車でした。ほかにも絵や版画をいただきました。
きれいなリビングには窓から光がさしこんでいてとても明るく、そこに飾られたたくさんの絵を見ていると、亡くなった永島さんが今も小百合さんの光に包まれているのがわかりました。小百合さんは窓からさしこむ光のように明るい人です。4時少し前においとましました。ノートに何か書いていってください、といわれたので、「ずっとディランを追いかけますね」と書きました。「友部はずっとディランを追いかけるんだね」と以前に言われたことがあるからです。いただいた機関車や絵が、帰り道に永島さん本人に変わっていくような気がしました。

4時に阿佐ヶ谷で、大塚まさじ、田川律さんと会って、座談会をしました。「ディランズ・チルドレン」というテーマでした。ディランというのは、大塚まさじが昔大阪でやっていたコーヒーハウスの名前です。そこに集まっていたミュージシャンたちのことをそう呼ぶのです。ぼくもその仲間の一人でした。この座談会は、「ランティエ」という月刊誌に掲載されるそうです。

友部正人
8月4日(木) マーガレットズロースと早川さん

マーガレットズロースのイベントで、早川義夫さんの歌をひさしぶりに聞きました。新宿のパワーステーションで共演したとき以来だから、8年ぶりになります。後半の何曲かは新しい歌なのか、はじめて聞く歌でした。タイトルはわかりませんが、お父さんのことを歌った歌がよかった。後で早川さんにユミがそのことを言い、どのCDに入っているのかをたずねると、「CDのはあまりよくないよ。今日のがよかった。」と言ってました。常に最新の演奏がベストということなのでしょうか。マーガレットズロースの平井くんにたずねると、「歌は歌のないところから聴こえてくる」というアルバムに入っているそうです。ぼくはここ何作かの早川さんを聞いていませんでした。

マーガレットズロースは新作CD-R「YAKISOBA」からの歌が中心。安い石鹸の歌「石鹸」は前から好きでした。でも今夜は「あたらしい絵」が一番よかったかな。後で平井くんにも言ったけど、「ずっと考えて、ちゃんと考えて、そこにしるしをつけて、まっすぐ線を引いて、その線の上にいるあいだはぼくはなりたいものになっている」という部分がキンキン心に残りました。

友部正人
8月5日(金) UMIGOYA

葉山の一色海岸の海の家「UMIGOYA」で今年もライブをしました。波打ち際までほんの数メートル、目の前では水着のお姉さんたちが横たわっていたり、子供たちがはしゃいだりしています。去年は武川くんと横澤くんの3人で演奏したのですが、今年は一人だったので、演奏中、自分の声も聞き取りにくいくらい波の音が大きく感じました。でもそのうち波も歌を聞いているような錯覚がしてきて、歌の合間に音がとぎれるときなんか、波も静かになるのです。とくに「一本道」は波と一緒に演奏しているみたいでした。

休憩のとき客席に、マーガレットズロースの平井くんと妻のゆみちゃんが来ているのを見つけました。平井くんは家から海パンをはいてきたけど、結局最後まで泳ぎませんでした。でももし泳いだら、帰るときはどうするつもりだったのでしょう。濡れたまま、また電車で帰ったのかな。

最近ぼくもユミも博多弁づいています。先月「ジーナ・K」という映画の試写会を見たからです。出演者全員が強烈な博多弁を話す映画で、それが乗り移ったみたいです。大塚まさじの妻のまりちゃんも福岡の人で、先日阿佐ヶ谷でで一緒にごはんを食べたとき、博多弁の話で盛り上がりましたが、今日も一人福岡から「ポカラ」のメンバーが聞きに来てくれて、延々と博多弁の話になりました。「クサ」の使い方を練習したのですが、実際にはたぶん使うこともないでしょう。

友部正人
8月7日(日) はなおの結婚、秩父の夜

10年ぐらい前だろうか。目が大きくてかわいい女の子がぼくのライブに来て、サインするときに「はなおです。」と自己紹介したのは。そのうちホームページの管理人になってくれて、ときにはライブ会場で物販の手伝いなどをしてくれていたのですが、そのはなおが山井さんという人と6月に結婚をしました。それで今日お昼から、横浜のサムズアップでお祝いのパーティがありました。山井さんはエレキギターを作るのが本職で、どんとのギターも作ったことがあるそうです。でも今は新宿のカメラ屋に勤めているので、沖縄に住みはじめたはなおとは来年の春まで同居できません。沖縄で二人で暮らしはじめたら、山井さんはまたギター職人に戻るそうです。
というわけで二人のお祝いに「ぼくは君を探しに来たんだ」と「眠り姫」を歌いました。パーティには最後までいたかったのですが、今日は秩父でライブがあったので、二人と固い握手をかわし、ぼくとユミは湘南新宿ラインに飛び乗りました。
池袋で西武線特急に乗り換えて秩父に着くと、ホンキートンクの鈴木さんが懐かしい笑顔でぼくたちを出迎えてくれました。その背後には秩父のものすごい暑さがお供のように控えていました。ホンキートンクは秩父駅から秩父鉄道で3つ目の皆野という小さな町にあります。駅の裏に砂利道があり、その道の向こうに手打ちそば屋さんがあります。ぼくたちはそこで開演まで3種類のそばを食べて過ごしました。
ホンキートンクの中に入ると満員でびっくり。オープニングアクトの人が演奏中でした。お店なんてほとんどない町なのに、その1軒がライブハウスだなんて。みんなが認める鈴木さんのすごいところ。予定の曲を歌い終えて引っ込んだのに、「まだ9時10分だよ」とユミに言われ、もう一度ステージに。このごろわずかの時間で歌うことに満足できるようです。打ち上げでは鈴木さんがバイオリンを弾いて盛り上げてくれて、ぼくはついうれしくなって、このごろではあまり参加しなくなった二次会にもついて行き、歌を聞いたり歌ったり、すっかり夜更かしをした秩父の夜でした。
友部正人
8月12日(金) 寿町フリーコンサート

今日は横浜の寿町でフリーコンサート。お昼ごろ一度会場へ行き、マーガレットズロースとリハーサルをしてから、出番が最後なので家に戻り、用事をいくつかすませて夕方また寿町に。雨模様の空の下をタクシーやバスで行ったり来たりしました。それにしても、リハーサルのとき寿町の人たちが食べていたカレーライスはなんとおいしそうだったこと。
午後3時から始まったフリーコンサート、(おそらく最初からのりのりだったのだろうけど)マーガレットズロースのときには最高潮で、彼らもすっかり人気者になった感じです。
ぼくはソロで「朝の電話」を歌い、その後マーガレットズロースと「一本道」「地獄のレストラン」「Speak Japanese,American」「パンツの歌(マーガレットズロースの曲)」「ライクアローリングストーン(ボブ・ディランの曲)」という曲順。アンコールで「愛はぼくのとっておきの色」を演奏しました。
あっという間の30分でしたが、通常のコンサートでは生まれえないような熱い交歓が演奏者と聞き手との間にあって、これが寿町のコンサートなのだなあと実感しました。多くの人が1年に1度のフリーコンサートを楽しみにしていることがよくわかりました。翌日が神戸だったので、会場での打ち上げには参加せずに帰ったのですが、夜中に雷鳴がとどろいて大雨になり、その激しい音が、打ち上げで盛り上がる人たちのあげるとどろきの声のように聞こえました。

友部正人
8月13日(土) 神戸

神戸の「バックビート」で、タテタカコさんとライブがありました。オープニング・アクトはナルさんです。タテさんのことは、映画「誰も知らない」のエンディング曲の「宝石」の入っている「そら」というアルバムを聞いて知っていました。前からどんな人なのか興味があったので、はじめてお会いできてうれしかったです。「宝石」という曲は、前半に歌詞がかたまってあって、その後しばらく「うー」という声だけの部分が続きます。そこのところでぼくはなつかしい気分になります。「うー」で歌われていることが、そういう気分にさせるのだと思います。

友部正人
8月14日(日) 大阪

大阪の「クラブ・ジャングル」でタテさんとライブ、オープニング・アクトは岩崎愛さんでした。「クラブ・ジャングル」は靴を脱いで上がる板張りのお店で、腰掛にもなりそうな、がんじょうなテーブルのすきまにはさまってみんな歌を聞くのです。つい寝そべってしまいそうですが、そうすると多分テーブルが邪魔してステージが見えなくなるので、そういう人はいませんでした。ぼくはその一番後ろで、岩崎さんやタテさんの歌を聞きました。
タテさんは神戸とは曲目をだいぶ変えていました。2日間で、まだ録音されていないものも含めて、たくさんのいい曲が聞けました。先日の早川義夫さんといい、今回のタテタカコさんといい、このところいい歌との出会いが続いています。
タテさんのスタッフの人たちも、ジャングル・ライフの社長さんも、ユミもみんな話に夢中になって、打ち上げは気がついたらもう3時でした。

友部正人
8月15日(月) 関西で

去年から大阪の茨木に住んでいる大塚まさじと妻のまりさんのお宅に遊びに行きました。大塚ちゃんは料理好きで知られていますが、この日もいろんな料理でぼくとユミをもてなしてくれました。トマトやとうもろこしなどの野菜や、塩などの調味料、まりさんのお父さんが釣ったというイサキという魚、すべての食材には二人のこだわりが感じられます。おいしいのでつい、ぼくもユミも胃袋の限界をゆるめてしまいます。そして後で、少しゆるめすぎたことに気づくのです。

友部正人
8月16日(火) 関西で 2

29年前、ぼくとユミの結婚式をしてくれた神父さんが病気だと聞いて、お見舞いに行きました。ぼくたちが結婚する前から知り合いの神父さんです。東京を離れた後はずっと長野県飯田市の近くに住んでいたのですが、今は大阪の箕面に住んで通院をしています。癌だと聞いていたので心配だったのですが、お会いしてみると元気そうで、お見舞いに行ったはずなのに、ステーキハウスでステーキをごちそうになってしまったのです。風邪をひくといけないので、人ごみはさけているそうですが、しきりに「甲子園に行きたいなあ」「友くんのコンサートに行きたいなあ」と言っていました。

神父さんと別れた後、翌日にライブをする拾得まで行って、「大文字五山送り火」を見るのにいい場所を教えてもらいました。拾得で働く女の子に教えてもらったのは京大のグランドでした。大文字は離れた方がよく見える、といいます。グランドは人も少なく、見物には最高の場所でした。8時に点火された炎は、離れていてもよく見えました。ゆれる炎を見ていると、最近死んだ人たちのことが思い出され、なんだか寂しい気持ちになりました。大文字の火が弱まってから、土手に上がると、反対側に「左大文字」や「妙法」「船形」なども見えました。予想していなかったから、うれしい驚きでした。

そこからすぐ近所の、以前ぼくがライブをしたガケ書房に電話すると、古書展をやっているというのでさっそく行き、ぼくは前から欲しかった「マン・レイ自伝」を買って帰りました。ユミも新刊をいくつか買っていました。

友部正人
8月17日(水) 京都、拾得

久しぶりの拾得ソロライブでした。お盆休み中なのにたくさんの人に来てもらってうれしかったです。大文字送り火の翌日なので、お盆にふさわしい選曲にしました。亡くなった友だちのことを歌った歌を主に歌いました。歌は友だちを記憶するいい方法です。

拾得ができる前、京都にはマップというライブのできるお店があって、拾得のオーナーのテリーさんもそこで歌っていたそうです。ぼくも1、2度歌ったことがあります。「友部というやたらでかい声で歌うやつがいる」という噂をテリーさんはマップで聞いたことがあるそうです。それからテリーさんは拾得をはじめて、ぼくはその最初の頃から歌わせてもらっています。「友部は拾得がよく似合う」という人がいるけど、それはきっと拾得がその頃からのぼくを記憶しているからだと思います。歌だけではなく、場もまたそこを通り過ぎていく人たちを記憶するのです。

友部正人
8月20日(土) 川越、鶴川座

埼玉県川越市の鶴川座に行きました。ガンボスタジオの川瀬さんの車で、横浜から2時間ちょっとかかりました。鶴川座は100年以上も前に立てられた木造の劇場で、芝居小屋だったり映画館だったりしたそうです。それを酒井さんと山口さんが借りて、今年の春からライブハウスとして使われています。100人以上もの人たちがかかわって映画館をライブハウスに改修したそうです。レトロな雰囲気はまるで映画のセットのようでした。

寺岡呼人くんが最初に歌って、それからぼくが歌い、最後にリクオが歌いました。その3人が今日の出演者でした。呼人くんとは2人で「地球の一番はげた場所」と「ジョージア・ジョージア・オン・マイ・マインド」をやり、リクオとは2人で「カルバドスのりんご」と「密漁の夜」をやりました。そして最後に3人で「アイ・シャル・ビー・リリースト」をやりました。それでもまだアンコールがあったので、「グッド・ナイト・アイリーン」をやっておしまい。3時間半の長いライブでした。

川越はきれいな城下町だと聞いていました。だけど町を歩く時間はありません。ずっと鶴川座の中にいて川越を堪能しました。それだけでも満足でした。映画館をリサイクルしたライブハウスは全国でもめずらしいでしょう。酒井さんたちの人柄を考えると、ずっと続いていって欲しいなと思いました。

友部正人
8月22日(月) 無声映画対即興演奏

横浜のBankART1929で、1927年に製作された無声映画に、3人のミュージシャンが即興で音楽をつけるというコンサートがありました。ミュージシャンは高瀬アキ(ピアノ)、アレクサンダー・フォン・ツュリッペンバッハ(ピアノ)、DJイルヴァイブ(ターンテーブル)の3人です。

一台のピアノの低音部をツュリッペンバッハさんが受け持ち、高音部を高瀬さんが受け持っていました。おもしろかったのはターンテーブルのDJイルヴァイブさんです。擬音のようでもあり、パーカッションのようでもあり、画面にあわせてレコードでいろんなことをするので、ちっとも退屈しません。こういうDJだったら、ぼくの弾き語りや詩の朗読とも一緒にやれるなあ、と思いました。
映画は1920年代のベルリンの人々の一日を断片的にとらえた記録映画「伯林大都会交響曲」。最近は無声映画に音楽をつけたり、弁士をつけたりという催し物が増えているみたいですが、映像に夢中なときは音はあまり耳に入っていないみたいです。

友部正人
8月28日(日) シークレット・ライブ

小樽の「あじや」という飲み屋はご存知ですか。もう6年も前から、小樽駅の近くで怪しい光を放っていたライブ飲み屋です。店主は日本食の板前で無国籍なシンガー・ソングライターの木本くん。その「あじや」が今月20日、閉店しました。木本くんが小樽市内の病院にコックとして就職したからです。3週間前に、木本くんの親友で大工のかもさんが中心になって、「友部正人ライブ」を木本くんには内緒で企画しました。木本君はぼくの大ファンなのです。連絡があって、ぼくは歌いに行くことにしたのですが、友部正人ホームページなどに一切公表はしないように、と頼まれました。木本くんには知らせたくなかったからです。最初は戸惑いましたが、いつのまにかぼくも、このたくらみに加担していました。

せっかく北海道に行くので、前日の27日は札幌の「くう」でシークレット・ライブをやりました。木本くんに知られないよう、この日のライブもシークレットにしたのです。シークレットなので、お客さんは少ししか集まりませんでした。ユミのアイデアで、第二部はリクエスト大会をすることになりました。「乾杯」「地球の一番はげた場所」「夜よ、明けるな」「一本道」「水門」「遠来」など、東京のリクエスト大会ではおなじみの曲ばかりです。でも、札幌の人たちは、とても喜んでくれました。

今日はお昼から「北海道マラソン」を見物して、それから木下くんの車で小樽に向かいました。5時ごろ「あじや」に行くと、みんな興奮気味なのがわかりました。メールで呼びかけたら、70人のお客さんが来てくれることになったそうです。この時点でまだ知らないのは本人の木本くんだけです。木本君の奥さんには伝えてあったそうですが、木本くんにはただのパーティのように言ってあったそうです。
7時5分に木本くんが到着すると、割れんばかりの拍手が起こりました。ぼくは2階に隠れているようにいわれました。ユミも隠れていました。名前を呼ばれる前に、下りて行きましたが、顔を合わせても、しばらく木本くんはぼくがわかりませんでした。見ているものを打ち消そうとするように、何回も瞬きをしていました。全く想像もしていなかったのだから、すぐにわからないのは仕方ありません。かもさんが事の真相を説明して、やっとコンサートがはじまりました。自分の演奏のこと以外で、こんなにドキドキするライブははじめてでした。おかげで今夜は、サム・クックのようなソウルシンガーになったみたいな気がしました。最後に、木本くんにリクエスト曲を聞いてみました。木本くんは「はじめぼくは一人だった」をリクエストしてくれました。

友部正人
8月31日(水) 銀杏BOYZ

大阪マザーホールで、銀杏BOYZのゲストとして25分だけ歌いました。ぼくがゲストに決まったときは、すでにチケットは売り切れていたので、100パーセント銀杏ファンの前で歌うのかと思っていたら、そうでもなくて、ぼくの歌も好きな人も何人かいたようです。
「Speak Japanese」で手拍子してくれたり、「ぼくは君を・・・・・・」で左右に体を揺らしたり、けっこうみんなちゃんと聞いてくれました。「一本道」のとき、後ろの方で喋っている人たちが少しいましたが、ぼくはそんなに気にはなりませんでした。ぼくよりも、二階席で聞いていた銀杏BOYZの峯田くんの方が気になったみたいでしたね。あとのステージで怒ってました。最後の「朝の電話」は、何の説明もしないのに、高田渡のことだとわかった人もいて、終ったときの拍手も一番大きかった。その瞬間ぼくは、今日は来てよかったなあ、と思いました。

最初は客席のダイブする人たちが珍しく、目を奪われていたのですが、そのうち競泳用のプールを泳いでいるだけみたいに見えてきました。(スキー場にも見えた。)最初は暴れていた峯田くんも、骨折した足がまだ痛いのか、途中からは椅子にすわり、じっくりと歌を聞かせていました。そしてしきりに「ありがとう」を繰り返していました。どれだけ「ありがとう」を言っても足りないという感じでした。きっとお客さんだけにではなく、峯田くんを囲むすべてのものに言いたかったのでしょう。最初はファンを突き放しているように見えたのですが、実はその正反対でした。

友部正人
9月5日(月) マーク・ベノ

昨夜東京はすごい雨だったそうです。今夜横浜のサムズアップで会った中川五郎がそう言っていました。サムズアップでは今夜、マーク・ベノのライブがありました。伴奏をつとめるのは、大阪のバンド、ラリーパパ&カーネギーママ。
今ぼくは「ロスト・イン・オースティン」という79年のアルバムしか持っていませんが、これがすごくいいアルバムなのです。きれいな曲の多いこのアルバムを、本当はブルースやロックンロールが好きらしいマーク・ベノ本人は気に入っていないのかもしれませんが、ぼくは今でも大好きです。「チェイシング・レインボーズ」はたぶんみんな好きだろうけど、「ロスト・イン・オースティン」も、ちょっとポール・オースターの小説みたいでいいです。見かけはずいぶん変化していましたが、声だけは同じでした。夜になっても雨が止まず、ちょっと億劫だったのですが、ラリーパパも出るというので聞きに行きました。ラリーパパはやっぱり良かった。ラリーパパだけでも、また聞きに行くと思います。

友部正人
9月6日(火) 時々自動

三軒茶屋のシアタートラムに、時々自動の公演を見に行きました。タイトルは「music no music」です。時々自動の公演は演劇的で演劇ではなく、コンサートみたいでコンサートではなく、ダンスのようでダンスでもない。即興性の高い体と言葉と音楽のパフォーマンスです。四コマ漫画みたいなものもあります。作品はすべて1、2分の長さ。そんな短い作品が次々と切れ目なく30から40も演じられていきます。これがなかなか面白くて目が離せなくなる。作品が1、2分なのは、音楽を基調にしているからです。音楽はみんな時々自動のメンバーによって作曲され、演奏されます。11拍子や5拍子の、一筋縄ではいかない曲ばかりですが、体には自然に入ってくるから不思議です。時々自動の人たちは昔から、楽器の演奏も歌も曲作りもとても達者です。何回かぼくのレコーディングやコンサートに参加してくれたこともあります。
今回の公演には時々自動のメンバー以外にも外部からの40人近くの出演者がいます。全員が一斉に走ったり歌ったり踊ったりするとすごい迫力です。出演者は会場のフロア全体を使って演技するので、会場には椅子はなく、観客は立ったまま、時には場所を移動したりして、いろんな角度からこの作品につきあいます。ぼくとユミは二階にあった優先座席から見下ろしていたのですが、出演者と観客の境目はほとんどありません。全員が観客のようにも、演技者のようにも見えます。時々自動を一言で説明するのはとても難しい。だけど見て楽しむのはとても簡単。ということは言葉には置き換えられないことをやっているのでしょう。直に見て楽しむ、それが一番です。今月11日まで上演しています。

友部正人
9月14日(水) ブラッサイ

今日は東京都写真美術館でやっているブラッサイの展覧会に行ってきました。「夜のパリ」の本物の写真が見たかったからです。写真集は30年ぐらい前に買って、今でも大切に持っています。実物の写真は本当にきれいでした。70年以上も前の写真なのに、夜の冷気が写真から伝わってきます。まるで撮影をしているブラッサイの横に自分も立っているかのようです。どうしてこんなに臨場感があるのでしょう。まるで実際の空気をはさみで切り取ったみたいです。あまりにも時間をかけて撮影しなくてはならないのでそうなるのでしょうか。売春宿の人物写真も、偶然ではなく、撮りたいと思ったものを、その場所で再現して撮影しているそうです。ぼくはそんなことは知らなかったので、写真集で見たときは、よくこんなところを撮らせてもらえたなあ、と感心したものでした。

友部正人
9月17日(土) ゆうこときかない祭り

「不屈の魂 ゆうこときかない祭り」という、インパクトの強いタイトルのコンサートが、午後2時から、上野水上野外音楽堂でありました。出演者は遠藤ミチロウ、シカラムータ、ゲタカルビ、友部でした。
ぼくは最初に出て、ソロで3曲、マーガレットズロースをバックに7曲演奏しました。音楽堂には屋根があって、そのせいで言葉が聞き取れないくらい反響がしたのですが、ステージの上はとてもいい音で、演奏を思いっきり楽しむことができました。一番最初にに歌わせてもらったのは、マーガレットズロースのインストア・ライブが名古屋で決まっていたからで、ぼくらの出番が終るやいなや、彼らは車で名古屋めざして走っていきました。「間に合わないような気もするけど」と言い残して。

ミチロウは弾き語りでした。ミチロウはぼくの30年来の友だちで、久しぶりに会ったら自然にうれしい気持ちになりました。ゲタカルビの元アナーキーのメンバーとも久しぶりでした。時間がたつと、会わないでいた時間が、なつかしさのしっぺ返しとなってやってきます。
最後のシカラムータのステージをミチロウやユミと一緒に見ていたら、Tシャツが泥だらけの、野狐禅の竹原ピストルくんがそばに来ました。一番前で聞いていて泥だらけになったそうです。「どうしてここにいるの」と聞いたら、「友部さんとミチロウさんを聞きに来ました。」と言っていました。

シカラムータの最後で、ぼくは彼らといっしょにビクトル・ハラの「平和に生きる権利」をソウルフラワーユニオンの歌っている日本語訳で歌いました。前から好きな歌だったのでシカラムータの人からこれを一緒にやろうと誘われたときはうれしかったです。

コンサートが予定より早く終わったので、ぼくとユミは打ち上げを辞退して、川瀬さんの車で、日比谷野音に銀杏BOYZを聞きに行きました。ちょうどアンコールの最中でした。後で楽屋で会ったら、4曲目でまた峯田君が足をけがしたらしい。痛そうでした。
日比谷に行くとき皇居を見て、今日聞いたアナーキーの「東京イズバーニング」を思い出しました。そしてどうして皇族の人たちだけこんないいところに住んでいられるんだろう、と思いました。

友部正人
9月20日(火) 寺岡呼人

横浜サムズアップで、寺岡呼人くんのライブのゲストとして、4曲演奏しました。そのうち2曲はソロで、2曲は呼人くんと2人で。
呼人くんと知り合ってはや17年、だけど弾き語りの彼の歌を2時間聞くのは初めてでした。どの歌にもストーリーがあって、耳はいつのまにか言葉を追っていました。知らない間に夢中になって聞いていたのです。満員の客席を見ると女性ばかりで、普段のぼくのお客さんは全く来ていないな、という感じでした。それがちょっと残念。女性ばかりの客席は何を歌っても何を言っても反応がよくて、「ふあ先生」があんなに受けたのも初めてです。楽屋でずっとビールを飲みながら聞いていた「ゆず」の二人も、アンコールで突然呼び出されて歌いました。そういえば二人とも横浜在住でした。
ライブ会場でしか売っていないという、「徒然道草」という呼人くんのアルバムを聞いています。これには今夜歌った歌がたくさん入っています。

友部正人
9月24日(土) 現代アート展

11月9日に出るぼくの新しいアルバムを録音したBankART Studio NYKに「グローバル・プレイヤーズ 日本とドイツの現代アーティスト」という展覧会を見に行きました。30分しか時間がなくて駆け足でしか見られなかったのですが、それなりに堪能しました。
特にユリアン・ローゼフェルドのビデオ作品はおもしろく、その前から動けなくなってしまいました。(30分ぐらいの作品らしいです。)他にもおもしろいビデオ作品もあって、きちんと見るならもう少しゆとりをもって行かなくては、と思いました。
NYKは元々日本郵船の倉庫だった建物です。どんなところでぼくがレコーディングしたのかもわかります。この展覧会は10月17日までやっています。

友部正人
10月3日(月) 秋のソロツアー

9月27日から山口、米子、倉吉、広島、福山と一人で歌い歩いて、今日は横浜に戻ってきています。

山口から米子まで行く特急列車の中で、お墓参りに行くおばあさんに会いました。一人暮らしなのだそうですが、とても生き生きしていてすてきでした。(電車を降りて、お墓参りに一緒について行こうかと思った。)
松江駅で米子の主催者の山根さんと実重さんに会い、一緒にMGへかつ丼を食べに行きました。MGの35周年コンサートに呼ばれて1年がたちます。MGのあっちゃんにまた会えました。
山陰放送のラジオ番組に二つ出て、夜はJAZZ INN いまづ屋でライブをしました。米子で単独のライブをするのはたぶんはじめてです。山根さん、実重さん、ありがとう。

翌朝倉吉からラ・キューの杉原さんたちが車で迎えに来てくれました。途中植田正治写真美術館に寄り道しました。
倉吉のラ・キューは駐車場の片隅に建っている一軒家の小さな店です。周りに大きな施設がいくつもできて、ますます小さく見えます。そのラ・キューの2階で30人ぐらいの人が歌を聞いてくれました。ノーマイクのせいで、自分の体から声が出ている感じがうれしかったです。

翌日はオフで、杉原さん、磯江さんたちと温泉に行った後、夕方広島へ向かいました。広島バスセンターから市電でホテルまで。一人で外国を旅しているみたいでちょっと楽しくなりました。翌朝は大田川の土手を走りました。ニューヨークシティマラソンのための練習です。(今年は抽選に落ちたと前に書いたのですが、旅行会社に申し込むという別の手段で出られることになりました。)3時間半走ったらくたくたになって、夕方までホテルで眠ってしまいました。
夜はOTISでいい感じのライブでした。音楽がちょうどいい感じでおさまる空間で、とてもやりやすいです。ライブの後は、元石さんご夫妻たちに誘われてお好み焼きを食べに行きました。洋画の大好きな、ちょっと田辺聖子さんに似たおばちゃんが自慢のお好み焼きを作ってくれました。

翌朝は広島市現代美術館でシリン・ネシャットというイランの映像作家の個展を見てから、福山に向かいました。ポレポレは好きな店なので毎年歌いに行っています。今回はツアー5ヵ所目だったので、ちょっとガラガラの声でした。でも終った後ポレポレの主人のゆうさんから、「今までで一番言葉が聞こえた」と言われてほっとした気分でした。

明日から今度は四国に歌いに行きます。そしてしめくくりは10日吉祥寺のスターパインズカフェです。いつもなら家から普通に歌いに行くのですが、今回はツアーの直後なので、高知からはるばる歌いに行くみたいでちょっとうれしい気分です。このツアーで体験したことを全部スターパインズで出せたらなあと思います。

友部正人
10月9日(日) 四国ソロツアー

四国ツアーから戻って来ました。今回は徳島、高松、高知の3ヵ所でした。

10月5日は徳島の「寅家」でした。みんなからトラさんと呼ばれている岡本くんのお店です。狭い店内には幅広い年齢層の人たちが聞きに来てくれました。ぼくの前に、歌手を目ざしている女子高校生がオリジナルを2曲歌いました。ぼくはその後2時間歌い、岡本くんの手料理で打ち上げ。外は雨が降っていて、人通りの途絶えたアーケード街では10代の男の子たちが集まってダンスの練習をするだけの、静かな徳島の夜でした。

6日はオフで、高松の牟礼町のイサム・ノグチ庭園美術館に行きました。予約制で、往復はがきで申し込んであったのです。イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園のある札幌の市長さんもちょうど来ていて、知り合いでもないのに「モエレ沼公園にも行ったことがありますよ。」とあいさつしました。

7日は高松の「ベニーズ・バー」でライブ。高知から高須賀満さんも歌いに来てくれました。店内はイスやテーブルが雑然とあって、本やビデオやレコードやサーフボードや古着がとりとめもなくある自由空間。ステージの後ろのソファが空いていたので、「誰かすわる?」と聞いたら、一番前にいた若い男の子がすわりました。お客さんも雑然とした感じでした。ぼくもそんな雰囲気に刺激されてけっこうのって歌いました。

8日は高知の「ファンシー・ラボ・リング」。まず17歳の少年が詩の朗読をし、それから高須賀さんが歌いました。ぼくはその後2時間ぐらい歌いました。高知新聞の記者、天野さんと一緒にお家にうかがったことのある、片岡千歳さんも途中から聞きに来てくれました。片岡さんはずっと古書店をしてこられた方で、詩集も出しておられます。終演後、「言葉を音楽に載せて人に伝えるのはむずかしいね。」と感想をおっしゃってくれてうれしかったです。
打ち上げは「バリ・ムーン」という、名前はエスニックだけど和風のお店。ご主人の井倉さんは東京に住んでいたことがあって、国分寺のほら貝や西荻のことを懐かしそうに話していました。

今日は高知の主催者の町田夫妻、窪川から聞きにきてくれた鳩’sの島岡夫妻と、ひろめ市場でゆずサワーを飲みながらくじらを食べたりして過ごし、夕方の飛行機で横浜に戻って来たところです。そうそう、空港に高知のシンガー・ソングライター矢野絢子さんのお母さんも見送りに来てくださいました。

友部正人
10月10日(月) スターパインズカフェ

吉祥寺のスターパインズカフェで4ヶ月ぶりのソロライブ。思えばスターパインズではこの1年、3回ともソロでやってきたことになります。だけど今日は安藤健二郎くんが急遽駆けつけてくれて、クラリネットで4曲一緒に演奏してくれました。安藤くんは終った後しきりに、気持ちのいいライブでしたね、と言っていました。ぼくも安藤くんと一緒に演奏した「夕暮れ」は、もう一人のぼくと演奏しているみたいで面白かった。ぼくがどんな風にハーモニカを吹くかをちゃんとつかんでいるみたいでした。

今日はぼくが自分にリクエストする感じで選曲をしました。歌っていると、自分のいる場所にこだわって歌ってきたことがわかります。ぼくは今どんな場所にこだわっているのか、どうしてぼくは場所にこだわるのか、そんなことを思いました。

終演後のCDや本の売り場はいつもにぎやかですが、今日は絵本があったせいで楽しい雰囲気でした。ふと見上げると宮沢章夫夫妻がいて、ユミの写真集「左目散歩」を買ってくれました。帰ろうとする宮沢さんたちを引き止めて近くの居酒屋に。宮沢さんたちは飲まないのですが、ぼくのお酒に付き合ってくれました。

今夜は雨で寒かったけど、心弾む感じでした。スターパインズの音響は、声がずいぶん出ている気分にさせてくれます。山口からはじまった全部で9ヵ所のツアー。今回は喉のトラブルもありませんでした。たった一人のツアーなのに、しばらくないとなるとどことなくさびしいものです。

友部正人
10月16日(日) ハーフ・マラソン

13日からニューヨークに来ています。こちらは7日から14日まで8日間も雨が降り続いて、こんなことはこの100年間で2度目らしいです。夜眠るとき激しく窓ガラスを打ち付けていた雨も、朝になってもまだ降っていて、天気予報では昼までには止むといわれていたのに、そのまままた夜まで降り続けて、という感じです。

でもその雨も土曜日の朝には上がっていて、今日は風が強いながらもいい天気。スタテンアイランドのハーフ・マラソンを走ってきました。ハーフ・マラソンを走るのは7月のブロンクスに続いて今年2回目です。去年はブルックリンとブロンクスの2回のハーフ・マラソンを走りました。今までで一番成績が良かったのは、初めて走った去年のブルックリン・ハーフ・マラソン。今日は会場への到着がぎりぎりになって、トイレの列に並んでいたら出発が5分遅れてしまったけど、それは途中で挽回することができました。

今年の夏にヨーロッパを一人自転車で縦断したばかりの比嘉さんにも会うことができました。走ってみて、ヨーロッパはアメリカより小さいことが実感できたそうです。(比嘉さんは5年前にアメリカを横断している。)海を隔てて見るとマンハッタンは、大きなビルが水際ぎりぎりまで建っていて、走り仲間の岡田さんがそれを見て「重そうだな」と言っていました。

友部正人
10月19日(水)サンボルト

Son Voltのライブに行ってきました。何にも喋らないでただ黙々と2時間近く演奏して、聞く方もいささかくたびれました。おそらく演奏していた彼らも疲れたのじゃないかなあ。前から一度聞きたかったので、とても期待して行きました。歌詞はあまりわからなかったけど、ボーカルの人の民謡っぽい歌い方とか、R.E.Mのようなサウンドは気に入りました。ウッディ・ガスリーの「プリティ・ボーイ・フロイド」そっくりの曲もあって、たぶん好きなのだろうなあと思いました。聞いている音楽がぼくと好みがあっているような気がします。2曲ぐらいハーモニカを吹いたけど、それもなかなかよかった。あとは何を歌っているかだけど、歌詞を読めばわかるでしょう。CDを買って聞いてみようと思います。

友部正人
10月23日(日) ノース・カントリー
夜中の1時半ごろ目が覚めて、気分がよかったのでそのまま朝まで起きていることにしました。本を読んだりレコードを聞いたり、お腹がすいたらちょっと食べたり、という感じ。そのうちに朝がきて、セントラルパークを2周して、お昼ごろにはもう眠くなっていた。まだ時差ぼけが続いています。

そんな状態なのに、夕方から映画を見に行きました。「ノース・カントリー」という映画です。主役が「モンスター」のシャーリズ・セロンで、新聞にも大きく作品が紹介されていて、見たいなと思っていたら、ちょうど友だちのメグからも「ノース・カントリー」に行かないか、とメールがきたので、3人で行くことにしました。さすが封切直後で混んではいたけどわりといい席にすわれました。ミネソタの炭鉱で働く一人の女性が、男たちからの性的な嫌がらせに耐えられなくなって裁判を起こす物語です。ミネソタが舞台だからか、女性監督のニキ・カーロが大好きだからか、ボブ・ディランの歌がたくさん使われているのが興味深かった。

主人公は二人の子供をかかえて生きていくシングルマザーです。炭鉱で働くことにしたのは他より給料がよかったから。もともと炭鉱は男だけの職場だったので、若い女性というだけで大変な嫌がらせを受けます。だけど女性が自由に生きることのむずかしさは職場の外でも同じこと。結局主人公の女性は裁判を起こすことで小さな町全体を敵にまわすことになります。そのうち主人公の母親が娘に理解を示し、父親も味方をし、職場の同僚の女性たちが賛同して、裁判は勝利に向かいます。(実際は和解したそうです。)そのあたりの理解の雪解けがとても感動的です。これは本当にあった、アメリカではじめての、職場でのセクシャルハラスメントを問題にした裁判を元にしています。

映画の後、主人公に強く共感を覚えたユミとメグは、まるで映画の中の男たちのようなぼくを相手に、一つのテーブルで仲良く中華料理を食べたのでした。

友部正人
10月24日(火) セントラルパーク
「ノース・カントリー」を見て何か他の映画も見たくなって、近所のブロックバスターに行ってみたら、なんと全部DVDになっていて、ビデオは旧作のほんの一部だけ。ニューヨークではまだDVDプレーヤーを持っていなかったのでショックでした。旧作の限られたものだけを何度も見るか、いっそDVDプレーヤーを買うしかなさそうです。

セントラルパークは紅葉と、10日後にあるニューヨークシティマラソンで高揚しています。明らかにみんなの走る速度が速くなっています。まだ真っ暗な朝の公園を、大勢の人が走っています。7時ごろまで明るくならないのは、まだ夏時間のせいもあるのですが。
今週は夏時間の最後の週で、日曜日からまた元の時間に戻ります。持っている時計を全部1時間ずつ戻さなくてはなりません。電話にも電子レンジにもビデオプレーヤーにも時計はついているから、全部合わせると10個ぐらいの時計を1時間ずつ戻さなくてはならない。ときには説明書を見ながら、けっこう大変です。日本でも夏時間を導入しようという計画があるらしいけど、大変だからやめた方がいいと思います。

1年10ヶ月かけて走って世界一周をしていたデンマークの大学の科学者が、日曜日に、ロンドンのスタート地点にゴールしたそうです。新聞によると、その人はシベリアを横断して、日本にも立ち寄ったそうです。10月9日にはニューヨークに来て、セントラルパークを16キロ走ったとか。荷物とか宿泊とか食べ物とかはどうしたのだろう、とても気になります。途中の経過はworldrun.orgでも見られるそうですが、本が出るのなら読みたいです。

友部正人
10月26日(水) DVDプレーヤー
話は前回のレンタル・ビデオの続きですが、あれから結局DVDプレーヤーを買ってしまいました。広告で安いリージョン・フリーのプレーヤーを見つけたからです。税金を入れても100ドルぐらいでした。帰ってさっそくテレビに接続したのですが、これがけっこう手間取った。画面に色が出ないのであせったら、配線をまちがっていたのでした。

ユミが日本から持ってきていた早川義夫さんのDVD「いい人はいいね」を二人で見ました。現代詩手帖に早川さんの歌のことを書いたら、そのお返しに早川さんが本と一緒に送ってくれたのです。思わぬうれしいプレゼントでした。それをユミがニューヨークでPCで見ようと持ってきていた。日本でゆっくりと見る時間がなかったからです。

早川さんのDVDはDual DVDというもので、1枚が2層になっていて2枚組みというDVDです。こんなものをはじめて見ました。それからレコード屋などを注意してみると、音と映像が1枚で2層になっているようなCDがいつのまにかたくさん出ているようです。一つ新しいことに触れると、また新しいことに出会ってしまう、そんな世の中です。

「いい人はいいね」には41曲も入っていて、今夜はその半分しか見られなかったけど(もう時間が遅かったから)、途中で切り上げることがむずかしいくらい濃い内容でした。エスプレッソのカップの横に特大の板チョコがついてきたみたいだった。

友部正人
10月28日(金) MoMA
なぜか寒いとわかっている日にぼくたちはMoMAに行くようです。今日もとても寒かった。だけど以前のように長時間館外で待たされることはありませんでした。金曜日の夕方からは小額の寄付で入館できたのですが、それを完全無料にすることで、入場に時間がかからなくなったからです。

エリザベス・マーレイという女性の作品を見たかったのです。ミロやピカソなどの影響で絵を描き始めた、今65歳ぐらいの女性です。最初は平面に記号のような絵を描いていたのですが、だんだんそれがふくらんできて、紙でできたフランク・ステラのようになっていきました。いろいろやりたくなってしまったのでしょう。だけどあらゆるエキスは初期の平面の中にあって、最初からそこに彼女の将来の作品が凝縮されていたのがわかりました。

3階の写真のギャラリーで、新しい写真家たちの作品を見てから、2階の現代アートを見ました。写真ギャラリーで一番おもしろかったなんとかという人の作品は、今横浜のトリエンナーレにも来ているそうです。MoMAには印象派から現代までの作品があって、世界の美術の流れが見られてとてもおもしろいです。中でも現代美術と呼ばれているものがよかった。

40個のスピーカーで40人の聖歌隊の合唱を聞くという作品があって、ユミはすっかりこれにはまっていました。1つのスピーカーからは1人の声が聞こえます。全員が歌って最高に盛り上がる部分では40個のスピーカーから40人の声が出ているわけです。スピーカーは円陣に並べられ内側を向いています。中央にソファがあって、ぼくたちはそこで聞きました。たいていの人は落ち着かなくなって、スピーカーに耳をあてて聞いたりしてします。あまりにも不思議な力のあるコーラスだからです。長い一本足で立っているスピーカーが、だんだん40人の人間のように見えてきます。

いつのまにか美術はあらゆるジャンルで表現をするようになってきています。美術は現在も表現のパイオニアであり続けている感じがしました。

友部正人
10月30日(日) ニューヨークの奴隷制度
セントラルパークで5マイルのレースがありました。ぼくは前から申し込んであったのですが、ヨシたちに誘われユミも突然走ることになって、レース初体験のユミがけっこういいタイムを出したものだからみんなびっくりです。マラソンの1週間前だからか、7000人も参加したそうです。

レースだけで日曜日が終るのもさびしいので、夕方、ニューヨーク歴史協会に「ニューヨークの奴隷制度」という展覧会を見に行きました。1991年にマンハッタンの建設現場で黒人奴隷の墓地が見つかるまで、ニューヨークに奴隷制があったことは知られていなかったそうです。実際にはニューヨークの奴隷は他の都市よりはるかに多く、きびしく管理されていたようです。。最初に奴隷をアフリカから輸入したオランダ人たちはわりとゆるやかだったようで、黒人たちが自由を要求すると、認めて農地も提供したらしいです。でもその後に統治をはじめたイギリス人はかなりきびしいルールで奴隷をしばり、ルールを破った奴隷は半殺しにするよう白人に奨励していたそうです。

ぼくとユミが入ろうとしたら、入り口にいるクローク係の黒人の若者に「自然史博物館なら隣だよ」と確かめられました。奴隷制度の展覧会を見に来たようには見えなかったのかもしれません。入場者のほとんどは黒人でした。それと白人のおばあさんも多かった。

友部正人
11月2日(水) ルーファス・ウエインライト
東京のMIDIレコードから今日、待ちに待った「Speak Japanese, American」のサンプルがニューヨークに届きました。さっそく聞いてみました。一番地味な曲だけど、「おやすみ12月」が新鮮でした。ホームページの試聴コーナーも聞ける状態になっています。45秒ずつですけどね。発売まで1週間あるので、ぜひその前に聞いてみてください。

今夜はルーファス・ウエインライトのコンサートに行きました。ルーファスくんはユミもファンなので二人で行きました。場所はアパートのすぐ目の前にあるビーコン・シアターです。劇場で二日間コンサートができるほど人気があるようです。今夜は二日目で、少し声がかれていました。

今までルーファスくんの歌を、フリーコンサートやイベントなどで聞く機会はあったけど、ちゃんとしたコンサートを聞くのははじめて。朗々と歌うルーファスくんをたっぷり聞きました。全員で10人のバンドもとてもよかった。特にギターの人が、とユミは言っています。一度もソロは弾かなかったけど、いい演奏をしていました。キーボードもドラムスもベースも管楽器もクラシックぽいアレンジでとてもよかったけど、サウンドの要になっているのは全員が歌うコーラスだったと思います。ルーファスくんはあくまでも人間の声を大切にしています。

前座で歌ったレジーナ・スペクターという不思議な感じの女性もすごく良かったです。帰りにCDを買いました。ぼくははじめて聞く人でしたが、「洋楽に詳しい田辺マモルくんなら知ってるかも」とユミがいっていました。あんまり普通じゃないことを普通にやるおもしろい人でした。

友部正人
11月3日(木) 細江英公
ニューヨークシティマラソンのEXPOに行き、レースの登録をしてきました。レースは今度の日曜日です。

EXPOの会場でヨシやマドレンたちと落ち合い、チェルシーのギャラリー街にあるアパーチャー・ギャラリーに、写真家の細江英公さんの講演を聞きに行きました。細江さんの友人であるヨシが誘ってくれたのです。細江さんは自分の作品「薔薇刑」と「鎌鼬(かまいたち)」について講演をしました。「薔薇刑」では三島由紀夫と横尾忠則のこと、「かまいたち」では土方巽と秋田の農村で撮影したときのエピソードなどです。細江さんの話はとてもユーモラスでした。緊張感のある写真と撮影の裏話のギャップがおもしろかったです。アパーチャーから出版された限定500部の「かまいたち」の写真集を買って、サインしてもらいました。

講演の後はみんなで韓国の豆腐料理を食べに行きました。豆腐はぼくの一番好きな食べ物です。ニューヨークで飲むマッコリの味も最高でした。

友部正人
11月6日(日) ニューヨークシティマラソン
ニューヨークシティマラソン完走。ニューヨークは今年で4回目になります。ぼくの年に一回のマラソンです。去年はニューヨークの抽選に外れて、はるばるケープコッドマラソンまで出かけていったのでした。
今年は気温も湿度も高いという予報で、午前10時10分のスタートのときすでに少し暑いと感じるぐらいでした。フィニッシュまであと10キロのあたりから足がつりそうになり、どうやったらつらないでゴールできるかと、後半はそればかり考えていました。タイムは去年より10分も遅い3時間42分でした。今年は3時間30分を切りたいなあ、と思っていたけど、足がつりそうになってあきらめました。
でもフィニッシュした直後、「つらかった」ではなく「楽しかった」という気分になったのはうれしかった。それでこそやったかいがあったというものです。うれしいことに知り合いはみんな完走しました。
応援も走るのと同じように疲れるみたいで、帰り道にみんなで軽く食事した後、アパートに戻ってお祝いのワインを飲んだら、ユミまでぐったりと眠くなって、8時には二人ともベッドの中でした。

友部正人
11月7日(月) マラソンにまつわる話
ニューヨークタイムズに昨日のマラソンの結果が出ていました。6時間以内の完走者の全員の名前と記録が細かい字で載っています。近所のいつも新聞を買うお店にはもう4部しか残ってなくて、そのうちの一番きれいなのを選んで買いました。あとの3部はしわしわのビリビリでした。
海外から2万人近い人がマラソンに参加するためにニューヨークに来ているので、レース結果の載る今日のニューヨークタイムズは売り切れても不思議ではありません。(その分刷り増ししているはず、とユミは言いますが。)おみやげに何部か買って帰る人もいるはずです。

ユミがセントラルパークを走るというので、新聞を持ってぼくも一緒に行きました。ユミが公園を一周する1時間の間、ぼくはマラソンのゴールのところにある特設観客席にすわって新聞を読んでいました。そしたら女性の旅行者から写真を撮っていいかと聞かれました。たぶん地元ののんびりした人に見えたのでしょう。

マラソンの前日に、国連からセントラルパークまでの6キロを走るフレンドシップランというのがあって、ユミとぼくも参加しました。海外からのマラソン参加者のためのレースなのです。野口みずきが今年のアベベ賞をもらい、ステージで挨拶していました。(野口はニューヨーク市長と二人で、マラソンのゴールでテープを持つ役もした。)
国連に行くとき、途中でオランダから来たというカップルに会い、彼らがマラソンに出るのは
65回目だという話を聞いてぼくもユミもびっくりしました。たぶんぼくより少し若い人たちです。世界各地の大会に出場するのが彼らのバケーションなのだそうです。ニューヨークに来る1週間前にもヨーロッパでフルマラソンを走ったばかりというから驚きです。

友部正人
11月12日(土) BankART Life Live
昨日横浜に帰ってきました。今回のニューヨークはマラソンに明け暮れました。

16日にライブをする横浜「BankART Life」会場の下見をしてきました。結局3ヵ所でライブをすることになりました。スタッフもお客さんもそのたびに移動します。展覧会場を見ながらのライブです。展覧会場は2つの建物に分かれています。7時半の開演時刻に間に合わなかった人は、移動した場所まで追いかけていかなくてはなりません。詳細は当日受付でおたずねください。早めに来て展覧会を先に見るのもいいと思います。
2番目の会場、NYKの1Fは、「Speak Japanese,American」を録音した場所です。今回はいろいろな作品が展示されているけど、録音したときはがらーんとしたただの倉庫でした。
展覧会を楽しみつつ、ぼくのライブも楽しみに来てください。

友部正人
11月16日(水) BankART Life Live
「Speak Japanese,American」の発売記念ライブを、「BankART Life」という展覧会場でやりました。2ヵ所に分かれたライブ会場を、歩きながら歌うことでつなげたライブでした。

前半はBankART1929という会場で50分ほど演奏をして、そこからお客さんと共に「フーテンのノリ」を歌いながら、BankART Studio NYKまで移動しました。第一会場から第二会場まで歩いて5,6分ぐらいの距離だったので、「フーテンのノリ」1曲分かなと思ったのです。でも歌が早く終ってしまい(後で調べたら2番と3番をとばしていた。)あとはハーモニカでもたせながらNYKの3階まで階段を一挙に上がり、そこにある真夜中の畑のような作品の中で「Speak Japanese,American」を生で大声で歌いました。畑だと思ったのはだだっぴろい部屋全体にロープがはりめぐらされていて、その循環しているロープからバケツが2つぶら下がっていて、それが案山子に見えたからです。NYKの3階は今までは公開されていなかった場所で、暗くて強烈な土とカビの匂いがします。そこには3点の動く作品が設置されています。どれも黙々と働き続けるさびしい機械です。

予定ではNYKの1階に展示されている金色の船の上で歌うことになっていました。ところが前日の夜になって、その場所が使えないことがわかって、やむなく変更しました。NYKの1階は「Speak Japanese,American」をレコーディングをした場所なので、そこが使えないのは痛手でしたが、3階は1階よりもっと元の倉庫のままの状態なのでかえってよかったのかもしれません。

2部の後半で突然のどに何かがつまったような状態になり、声が出にくくなったのですが、歌には支障がなかったのでそのまま続けました。聞いている人たちは、声が突然変わったのでびっくりしたことでしょう。原因はわかりませんが、もしかしたら3階のカビのせいかもしれません。

そんなこんなで、楽しいコンサートでした。「フーテンのノリ」を歌いながらの行進はみんなとても喜んでくれました。途中の道路になぜか警官が多かったのですが、トラブルは何もありませんでした。主催してくれたBankARTの池田さんも、終了後に「おもしろかったですね」と言ってくれたので、ぼくもうれしかったです。「BankART Life」は横浜トリエンナーレの期間中やっています。

友部正人
11月19日(土) 笠間
笠間にやって来ました。ライブをしたのは光照寺、古い古いお寺です。呼んでくれたのは西荻窪のホビット村で30年ぐらい前に村長をしていた川内しんやさん、今は笠間在住のアーティストで、アイデコしんやと呼ばれています。

ライブは夜の7時からで、お寺の本堂はかなり寒く、ストーブを4つもたいても追いつきません。しんやさんの金屏風、鈴木さんの描いたイソギンチャクの絵の屏風、須知さんの鉄の花器に囲まれて、はじめて笠間で歌いました。夜空には満点の星、お寺の門から入り口までは、ろうそくが足元を照らしとても幻想的でした。
ライブの後はしんやさんの家で、娘さんが作っておいてくれた食べ物で、スタッフの人たちと打ち上げをしました。ぼくが笠間で会った人たちは、みんな何かを作るアーティストでした。

友部正人
11月20日(日) おめでとう。
今朝は友部駅から朝8時48分の特急に乗って帰りました。どうしてそんなに早い電車で帰ったかというと、1時から横浜で、マーガレットズロースの平井くんと妻の有美子さんの結婚式とパーティがあったからです。ぼくとユミは二人の立会人代表の役を頼まれていました。会場はサムズアップの姉妹店のストーブスです。二人のご両親や兄弟や親戚の方たちも参加しました。ぼくの古い友人、渡辺勝が神父のような役で式を進行させ、ぼくとユミが証明書に署名をし、平井くんたちは誓いの言葉を述べ、キスをしました。夢のあるとてもいい式でした。

その後はうきぐもという青森のバンド、チョコレートパフェ、原朋信、渡辺勝とぼくが代わる代わる順番に歌い、最後にマーガレットズロースが演奏して、平井くんのお父さんが挨拶をしておしまい。みんなは2次会へと向かったのですが、ぼくたちは早起きのせいか時差ぼけのせいかワインのせいか、少し眠くなったので帰ることにしました。それにしても、式も歌も引き出物も全部自分たちの手で作ってしまう二人は本当にすばらしいと思いました。

新郎新婦のために、サムズアップの佐布さんの奥さんが本物の花できれいなブーケを作ってあげたのですが、今日誕生日のユミのためにもすてきなレイを準備してくれていました。なんていう名の花なのだろう、わからないけど涼しげでとてもきれいでした。ユミは今日50歳になりました。

友部正人
11月21日(月) 横浜トリエンナーレ
夕方から横浜トリエンナーレに行ってきました。10万人を突破したそうですが、今日はとてもすいていました。会場の倉庫まで無料バスが出ていて、つい乗ってしまい、後悔しました。旗の下を歩いた方がきっと気持ちよかったでしょう。会場に入ってもしばらくは場の雰囲気に馴染めません。順路があるわけでもないし、予備知識がなければしばらくは戸惑うでしょう。だから早めに行く方がいいと思いました。

一見楽しげな現代アートですが、意図するものがわかるまで時間がかかるものも多いです。時間をかけても見つけられないものもあります。壁にかかっている絵を見るのとはだいぶ違うのです。ぼくは全体の半分ぐらいしか作品を体験できなかったように思います。
刺激的だったのは、中庭の電話ボックスの作品やムタズ・ナスルというエジプトの作家のビデオ作品、奈良美智の作品でした。普段から目端のきくユミはもっといろいろ見ていたようです。パリ在住の二人の作家による「天使探知機」にはとくに感激していました。MoMAで見ていいなと思ったロビン・ロードという人のビデオ作品や、ニューヨークで知り合った照屋勇賢くんの作品もやっぱり良かった。

友部正人
11月23日(水) 基山
佐賀県基山町は子育ての町です。保育園や「てらこやきっど」というフリースクールでは様々な子育ての試みが行われています。5年前から毎年、ぼくはこの基山に歌いに行っています。去年までの4回は「てらこやきっど」でライブをやり、今年は町民会館の小ホールでやりました。基山のライブの特徴は子連れのお客さんが多いことです。子供たちは今年は会館の会議室で「ハウルの動く城」をライブ中に見ていました。去年までは「てらこやきっど」の倉庫でライブをしたので、子供たちは外を飛び回っていたし、大人たちはバーベキューを楽しんだりしていました。会館は暖かいし音響もちゃんとしているのですが、解放感という点では「てらこや」が勝っています。「てらこや」の寺崎さんも終了後に、「来年はまたてらこやでやりますか」なんて言っていました。

友部正人
11月24日(木) 唐津
唐津の「RIKI HOUSE」に歌いに行きました。前にも一度歌いに行ったことがあるようなのですが、いつごろなのかぼくには思い出せません。たぶん20年以上前のことだと思います。その頃ビルの地下にあったお店は、今は西唐津駅のすぐ横にあります。唐津は久しぶりなので、たくさんお客さんが来てくれました。とてもうれしかった。帰り際にあるお客さんが「また20年後に」と言った後、「いや、毎年来てください」と言い直して帰りました。
泊まっていたホテルのすぐ前を幅の広い川が流れていて、朝見ていたらたくさんの鳥たちが川の中に立って餌をさがしていました。その意外な川の浅さにちょっとびっくりしたのでした。

友部正人
11月25日(金) 福岡、北九州
この日からユミも福岡に来て、ぼくは一日キャンペーンでした。新聞社2つとラジオ番組3つ。最後に行った番組でパーソナリティをしていたジェイクというアメリカ人は日本語がじょうずで、ぼくが出演するというのであらかじめぼくのホームページを見て、英訳詞のところも読んでくれていました。彼はグレイトフルデッドのファンで、「ジェリー・ガルシアの死んだ日」をとても喜んでいました。他に「涙」「アクシデンタル・ツーリスト」にも感心していました。ぼくはといえば、ぼくの歌詞の英訳へのはじめての反応でそれがとてもうれしかった。

11月26日(土)
住吉神社能楽殿でマーガレットズロースとアルバム発売記念ライブ。みんなで白足袋をはいてステージで演奏しました。マーガレットズロースのギターの平井くんはひどい風邪をひいていたけど、楽屋でストレッチをしてなんとか声が出るようになり、みんな一安心。一部はソロでやって、二部はマーガレットズロースと8曲一緒に演奏しました。せっかく今までで一番いい演奏だったのに、マーガレットズロースのメンバーもぼくも、録音するのをすっかり忘れていました。でも能楽殿の音は今でもぼくの中で鳴り響いています。京都の磔磔や大阪のレインドッグズ、吉祥寺のスターパインズカフェでもこれをまた再現できればなあ、と思います。

11月27日(日)
北九州市八幡の旧百三十銀行ギャラリーでソロのライブでした。名前の通り、元銀行の建物をギャラリーとして使っています。横浜の元富士銀行で去年やった「友部正人文化祭」や、先月の横浜BankART1929でのライブのように、元銀行の古い西洋建築でのライブが続いています。天井の高い西洋建築は響きが歌向きではないのですが、ぼくは心地よく歌えました。またいつかやりたいなあ、と思ったギャラリーでした。

友部正人
12月1日(木) リハーサル
今年の春から借りている、横浜の馬車道駅にある北仲ホワイトというビルの中の友部オフィスで、ヴァイオリンの武川雅寛くんとギターの水谷紹くんとぼくの3人で、今度のスターパインズのための練習をしました。この3人のリハーサルなら、音楽スタジオを使うこともないと思ったのです。
北仲ホワイトというビルには建築家や現代美術のアーティストたちが大勢入居していて、横浜トリエンナーレ期間中の現在、その仕事場を誰でも見られるよう解放しています。ぼくとユミの借りている部屋は何も見せるものがないので参加していませんが、今日の練習の音は廊下を通る人の耳に届いていたようです。
今年の夏には、この部屋でアルバムジャケットの写真をユミが撮影しました。あと1年したら壊されてしまうというこのビルを見て、誰もが「もったいないなあ」、と感想をもらします。

友部正人
12月3日(土) クラブライナー
クラブライナーという名前の高円寺にあるライブハウスに歌いに行きました。ライナーという名前には特に意味はないそうです。テルスターというバンドの人たちがバンドをやりながら運営しているライブハウスだそうで、ミュージシャンの側に立てるお店を目指しているそうです。応援していきましょう。

今日はぼくと、ワタナベイビー、モールスという3組のイベントで、クラブライナーの横山くんが企画してくれました。それぞれ40分ぐらいの持ち時間なのだけれど、アンコールで、ワタナベイビーと「ぼくの猫さん」、モールスとは「朝は詩人」を一緒に演奏しました。「ぼくの猫さん」は92年の「けらいのひとりもいない王様」(友部正人&たま)の中の唯一のたまとの合作の曲で、作詞はぼく、作曲は石川浩司。普段は演奏しないから、コードもワタナベイビーから教えてもらう始末。でも覚えたのでこれからはまた演奏できます。モールスはゆったりとした曲も得意のちょっとサイケデリックなバンドで、「朝は詩人」はぴったりでした。彼らはアメリカの西海岸のインディーズのバンドと親しく、気になっていたレーベルのことなども後で教えてもらいました。

打ち上げでは聞きに来てくれた銀杏BOYZの峯田くんや村井くん、チンくんとも話をしました。夏の大阪のときは峯田くんが打ち上げに来なかったので、彼とゆっくり話すのははじめてでした。現代詩手帖の11月号にぼくが銀杏BOYZのことを書いて、それを3人ともとてもよろこんでくれました。峯田くんは打ち上げには参加しないで、ぼくに手紙だけ渡して帰るつもりだったそうですが、手紙は家に忘れてきて、結局夜遅くまで喋ってました。

ワタナベイビーとはずっと前、彼のソロアルバムでぼくがハーモニカとギターを弾いたことがあって、ステージで彼にそのことを言われたので、帰ってからCDを聞いてみました。リードギターらしいことは何もしていないのに、リードギターとクレジットされていました。今はとてもはずかしい。

モールスの友だちだという若いアメリカ人は「Speak Japanese,American」を聞いて、「日本にいるぼくの100人ぐらいのアメリカ人の友だちはみんな日本語がじょうずだよ」、と言っていました。確かに彼の日本語もとてもじょうずでした。彼のように日本語の歌詞もちゃんと理解してくれる外国人が増えたら、日本語の歌の状況も変わるでしょう。そんな日が待ち遠しいですね。

友部正人
12月7日(水) 京都、神戸、大阪
関西に歌いに来ています。今日から京都、神戸、大阪でライブをします。今日は京都の磔磔でした。マーガレットズロースも東京から車でやって来ました。前半はソロで、後半は彼らと一緒に演奏しました。マーガレットズロースとは「悲しみの紙」がうまくいった気がします。磔磔の水島さんは「トランペットとトレイン」が良かったようです。マーガレットズロースと一緒に演奏することを考えて作った歌なのでうれしいです。

友部正人
12月8日(木)
昼からVOCEと大阪でリハーサルをしました。12月23日にVOCEと一緒に神戸の弓削牧場でクリスマスコンサートをします。その練習でした。VOCEは藤原カオルちゃん、靖子さん、中島さんの3人のボサノバのグループです。ぼくの「夕日は昇る」を彼ら流にアレンジしてレパートリーにしています。23日は8曲ぐらい一緒に演奏する予定です。一日2回公演で、なんと夜のディナー付きの8000円のコンサートはすでに売り切れ間近だそうです。リハーサルにも熱がこもります。

夜7時からマルビルの地下にあるタワーレコードでインストアライブをしました。大阪のユニバーサルの方が企画してくれたのです。マルビルの上のホテルの部屋を楽屋として用意してくれました。その気遣いに感謝です。全部で3曲やったのですが、2曲目の「Speak Japanese,American」でマーガレットズロースが突然現れてコーラスをつけてくれました。
そういえば彼らは8時から梅田のライブハウスで自分たちのライブがあったのです。彼らはいつも突然やって来ます。インストアのおもしろいところは、熱心にぼくの歌を聞いてくれている人たちのすぐ横で、まるで関係なく別のCDを探したり視聴している人たちがいるところ。昔バスターミナルで歌っていた頃のことを思い出しました。

インストアの後マーガレットズロースのライブを聞きに行きました。新曲の「ここで歌え」がとてもよかったな。

友部正人
12月9日(金) 神戸 ジェイムス・ブルース・ランド
神戸のジェイムス・ブルース・ランドで光玄と二人のライブでした。光玄と二人だけでライブをするのはとても久しぶりです。神戸に行くたびに会ってお酒を飲んだりしているのに、ライブではあまり会っていなかったようです。そのせいか、今日の光玄の声はとても新鮮でした。昔は叫ぶばかりだった歌が、ぐっと押さえて大人になっていました。ハーモニカもとてもうまい。

ジェイムス・ブルース・ランドは古い倉庫の事務所だった部屋を使ったとても広々としたお店で、ふかふかのソファがいっぱい並べられています。音がとてもよく、いつまでも歌っていたくなります。今夜はお客さんの数はすごく少なかったのだけど、気持ちのいい演奏ができてうれしかったのです。

今回の関西はオフの日にリハーサルやインストアライブが入って4日間連続歌うことになり、ユミからお酒は止められていました。ツアー中は喉のためにお酒を飲まない人も多いので、ぼくもそれに賛成して飲まないでいます。飲まなくても、他の人が飲んでいれば自分も飲んでいるような気分になれることがわかりました。3日以上ツアーが続くと声がだんだん疲れてくるから、そういう場合は飲まないのがいいと思いました。

友部正人
12月10日(土) 大阪 レインドッグス

大阪のレインドッグスでライブでした。京都と同じように、前半は一人、後半はマーガレットズロースと一緒に、という構成でした。レインドッグスはモニターがステージの両脇にしかないので、リハーサルでは音作りに少し苦労しました。その分PAの岡野くん(マーガレットズロースのベースと同じ苗字なので覚えてしまった。)ががんばってくれて、本番はとても気持ちよく演奏できました。一部のソロでは1曲目に「1976」の中の「ヘマな奴」を久しぶりにやりました。アンコールではマーガレットズロースの「パンツの歌」も平井くんとかけあいで歌いました。今夜はお客さんも満員で、新しいCDもたくさん売れました。タワーレコードのインストアライブに来てくれた人も大勢いました。

ライブの前に、大阪のLマガジンという雑誌の取材を受けました。来年の1月に発売になる現代詩文庫「友部正人詩集」と「no media」に関する取材でした。1月下旬発売のLマガジンに載るそうです。詩に関する取材はめずらしいので、どんな記事になるのか楽しみです。2月には京都で「no media 京都編」をガケ書房でやる予定です。

友部正人
12月13日(火) 吉祥寺スターパインズカフェ
実はこれを書いているのは14日の夜です。昨日のライブのテープを聞きなおしています。最近は自分のライブを録音しなくなったのですが、昨日は特別なライブだったので、DATに録音してもらいました。

一部はバイオリンの武川くん、ギターとコーラスの水谷くん、という3人で演奏して、最後の2曲だけロケット・マツに参加してもらいました。実験は「ジョン・レノンとピカソ」という歌。水谷紹くんが大きなタンバリンのような太鼓を手でたたき、武川くんはボールペンでバイオリンの弦をたたいていました。それがおもしろかったのか、拍手が意外に大きくて一安心。「涙」を3人で演奏したのもよかったです。ソロではなく、何か他の楽器があったりコーラスがあったりするのはやはりとてもいいです。一部最後の「ロックンロール」ではロケット・マツがピアノを弾いたこともあって、3年前の鎌倉芸術館をふと思い出しました。

二部は「アクシデンタル・ツーリスト」を朗読して、「働く人」と「眠り姫」を一人で歌い、それから「朝の電話」をロケットマツのピアノの伴奏で歌いました。そこにマーガレットズロースが入って彼らのアレンジしたレゲエバージョンの「一本道」。このあたりの流れはなかなかよかったと思います。今回のツアーで文句なく楽しいのは「トランペットとトレイン」です。今日マーガレットズロースに武川くんがトランペットで、ロケット・マツがピアノで参加して、なおさらおもしろくなりました。テープで聞きなおしてもやはりおもしろかった。「ぼくは君を探しにきたんだ」で平井くんがぼくより大きな声を出して歌っています。とても楽しそうに聞こえます。

アンコールは「地獄のレストラン」とボーナストラックの「Speak Japanese,American」をやりました。全体で2時間半ぐらいのライブでした。自分のライブなのに、バンドだとテープを聞きながら、お客さんのように楽しめます。

友部正人
12月15日(木) 盛岡
今日から東北4県を、仙台のテリーさんと一緒に行動することになっています。仕事が山積のユミは今回はお留守番です。新幹線盛岡駅のロータリーでテリーさんを見つけると、ちょうど警官と口論の最中。そこは駐車できない場所だったので、車から離れないよう見張られていたようです。

紅茶の店しゅんは松本さんという、ものすごく気さくでパワーのある女性が経営しています。床も壁も階段も全部木造で、一階にはグランドピアノが置いてあります。そのすぐ横で歌いました。お客さんは二階に上がる階段に腰かけたり、二階から見下ろしたり、一階のカウンターから見ていたり、という感じです。しゅんは天井がとても高いので、音がとてもいいと評判だそうです。打ち上げでぼくはしゅんの紅茶を何杯も飲みました。大勢で来てくれた岩手大学の学生ともたくさん話しました。そして松本さんのインドや紅茶の話を聞きました。ケラケラととてもよく笑うすてきな女の人でした。

友部正人
12月16日(金) 八戸
盛岡の紺屋町のクラムボンへ行くと高橋さんが豆を焙煎しているところでした。カウンターではいがぐり頭の男性がくず豆を手で取り除いています。「一日どれくらいそうやって取り除くのですか」とテリーさんが聞いていました。2、3キロと言っていたような気もするし、10キロだったかもしれません。
高速道路を車で走って八戸へ、今夜は箱舟という小さなお店でライブです。竹岸さんという年配の女性がお店のオーナーです。同人誌に詩を書いていて、いくつかの作品を読ませていただきました。詩の端正な言葉が無言で青森の大自然と向き合っているようでした。また竹岸さんはミシシッピー・ジョン・ハートが好きで、4年前からジョン・ハートのギターを練習もしています。お客さんの半分は元気な中年の女性でした。箱舟の常連だそうです。女性だけでお酒を飲むそんな仲間がいるっていい暮らしだなと思います。持ってきた詩集やエッセイ集はほとんど売れてしまいました。そんなことにもパワーを感じました。テリーさんは竹岸さんの部屋に本がたくさんあるのを見て、自分の母親を思い出していました。

友部正人
12月17日(土) オフ
朝起きてホテルの窓から外を見ると雪が積もっていました。八戸は雪が少ないところと聞いていたのでびっくりです。雪の中を走ってみたくて、ウミネコの島まで行きました。スニーカーでも新雪はすべらないことがわかりました。
今日は青森への移動日です。テリーさんはぼくを青森まで送ると、やり残した仕事があるので、とまた車で盛岡に戻りました。ぼくは大船さんのお宅に。大船さんは青森の「雪の会」の役者です。夜はその雪の会の人たちのお芝居を見に行きました。

友部正人
12月18日(日) 青森
朝起きて外を見ると吹雪でした。「でも、風が吹くときは雪は積もらないんだよ」と大船さんは慣れたものです。吹き荒れる雪を見ているとめまぐるしくて息が止まりそうになります。
そんな悪天候なのに、今夜のライブには大勢の人が来てくれました。会場は林語堂という古書店です。合わせると200坪ぐらいありそうなお店の2階がライブ会場でした。文庫本の棚を背にして歌いました。本棚の本の背表紙とぼくが着ていた衣装の柄がよく似ていて、見ている人にはおもしろかったようです。

2階にある本にはどれも50円という値段がついていましたが、林語堂の喜多村さんがライブ終了後にライブに来たお客さんに、欲しい本を何冊でも持って帰ってもらいたい、とアナウンスしたものですから、お客さんたちは何冊もの本を抱えて本棚から本棚へといつまでもさまよっていました。ぼくも本を何冊かいただいてうれしくなりました。

友部正人
12月19日(月) 仙台
青森から仙台への移動はぼくには予想外の距離でした。高速道路はほとんど車が走っていません。「スキー場のゲレンデをすべっているみたいですね」とテリーさん。静かな山水画の世界を猛烈な勢いでテリーさんの車が走ります。仙台には夕方到着、テリーさんはFMのDJもしていて、ピーターパンというロック・カフェで番組の取材を受けました。(お店はそのとき音楽を止めてくれました。)

今夜はチョップオンズというお店でライブ。30席ぐらいのこじんまりとした空間です。椅子に座れなかった人たちが何人も入り口のあたりに立って聞いてくれました。8時から始まったライブは、途中に休憩をはさんで、11時ごろ終りました。そのまま12時ごろからチョップオンズで打ち上げでした。でっかいベーコンのブロックをそのままこんがりと焼いた料理は豪快でした。ひとかたまりで普通の厚さのベーコンが30枚はとれそうです。ずっとお酒は控えていたテリーさんもこのときばかりは全開で、ぼくのいろんなアルバムをかけまくり、飲みまくっていました。

テリーさんのいたおかげで、今回の東北ツアーは今までとは違った感じになりました。テリーさんもいろんな人と出会ってうれしかったそうです。接点の少なかった2つの世界が倍に広がった感じです。今回ツアーにかかわってくれた人たち、ありがとうございました。

友部正人
12月23日(金) 弓削牧場クリスマスコンサート
今日の弓削牧場でのクリスマスコンサートは、午後1時からと午後7時からの2回公演です。2年前の夏にも一緒にここでコンサートをしたボサノバのバンド、ボセの人たちにまた呼んでもらいました。ボセはぼくの曲を何曲かボサノバにアレンジして歌っています。ぼくの中ではわりと地味な曲もすてきな雰囲気のある曲にアレンジしてくれています。「七月の王様」や「言葉の森で」なんかは特に光っています。

昨日から関西を襲った大雪で、六甲山の裏手の、標高400メートルの山の上にある弓削牧場は雪に埋もれ、チェーンをつけてない車は上がれなくなっていました。それでゆうべ遅くまで、弓削牧場とボセとで、コンサートを中止するかどうかを話し合ったそうです。だけどコンサートがあるかどうかの問い合わせはあっても、キャンセルの電話は1本もなかったので、送迎の車を用意したりして、とにかくやることになりました。

雪は交通には災いでしたが、コンサートには最高の贈り物でした。昼間は一面の銀世界を窓の外に見ながら、夜はろうそくのあかりが雪の中にゆれ、樅ノ木のイリュミネーションが遠くでまたたくのを見ながらの、雰囲気たっぷりのコンサートになりました。しかも弓削牧場が用意したランチやディナーは、ぼくたちも同じものを後で食べさせていただきましたが、ボリュームもあってとてもおいしかった。夜の部の後半はボセの靖子さんがあおったこともあってみんな立ちあがり、弓削牧場のオーナーご夫妻はライブハウスみたいだと喜んでいました。

友部正人
12月24日(土) 和歌山
今日はボセと和歌山のオールドタイムというライブハウスでコンサートでした。今日はトロンボーンやピアノの中島トオルさんが他の仕事でいないので、ボセは藤原カオルさんと高田靖子さんの2人だけです。前半にボセが演奏して、後半はぼくとボセが一緒に演奏しました。途中で靖子さんにホーミーを実演してもらいました。この人は本当にいろんな声で歌えて、しかもホーミーまでやる秘めたる才能の持ち主です。

ぼくがオールドタイムで歌うのは久しぶりでしたが、お店もご主人も変わっていなかった。このところぼくはロックバンドと一緒にライブをすることが多かったけど、今回のように全然ジャンルの違う音楽のバンドとやるのもいいものです。いい経験でした。帰り道の車の中、みんなそれぞれにホーミーをやってみるのですが、なかなかうまくいきません。ユミがわりとそれらしい声を出していましたが、ぼくは全然。すぐにあきらめました。

友部正人
12月26日(月) サムズアップ
有山じゅんじとバンバンバザールがサムズアップでライブをするので聞きに行きました。有山くんとバンバンが一緒によくライブをしているのは知っていましたが、聞くのは今日がはじめて。それぞれのソロがあったり、バンバンバザールの中に有山くんが入ってお互いの曲を一緒に演奏したりしていました。有山くんの歌は、「ぼちぼちいこか」の中の曲が多かった。ぼくもこのアルバムは傑作だと思います。他には「鯖ジン」もやっていました。

アンコールのとき、有山くんが突然ステージでぼくに「一本道」をやろうというので、ステージに出ていって歌いました。ライブ盤「ブルースを発車させよう」の中の有山アレンジの「一本道」です。バンバンの富永くんのギターがスチールギターのように聞こえてとても心地よかったです。

友部正人
12月27日(火) 煙草
ぼくは別に無理をして煙草をやめたわけではありません。ただなんとなく吸いたくなくなったのです。そうなってからもう30年ぐらいになります。煙草をやめるコツの一つに、いつでもまた吸える、と思うのがいいと聞いたことがあります。でも30年も吸わないでいたので、もう吸えなくなっているみたいです。というのは、今日新宿のトップスで来年の2月に思潮社から出るCD詩集「no media 2004」の打ち合わせがあったのですが、周囲の人たちの煙草の煙で喉がすっかりいかれてしまったからです。打ち合わせに集まった4人は誰も煙草は吸わないので、わざわざトップスでやる必要はなかったのですが、はじめに待ち合わせたお店が閉まっていたので。日本の喫茶店はコーヒーの香りよりも煙草の匂いがするところ、ということを忘れていました。普段は禁煙のカフェにしか行かないので。

トップスはぼくがはじめて東京で都会だなあ、と思ったところです。35年ぐらい前の話ですが。演劇関係者などがゆでたてのじゃがいもにバターをのせて食べていました。ヘルシーな感じがしました。その頃はぼくも煙草を吸っていたので、煙のことなど気にはならなかったのですが、今日はかなりつらかったです。じゃがいもを食べてる人もいませんでした。

友部正人
12月29日(木) 取材
Poetry Calendar Tokyoの取材を、北仲WHITEの友部正人オフィスで受けました。内容は主にポエトリー・リーディングに関してでした。
その部屋は、ギターを弾いて歌の練習をしたり、原稿を書いたり、倉庫として使ったりしています。「Speak Japanese,American」のジャケット写真もここで撮ったのですが、たいていの人はあの写真の部屋はニューヨークだと思うようです。ジャケット写真に写っていた焼き物の猫や古風なスチームの暖房器具がそのままあって、Poetry Calendarの人たちも「そうか、ここだったのか」と喜んでいました。スチームの暖房器具は壊れていて、今はただの飾りです。部屋には900ワットのハロゲンヒーターが1つあるだけなので、さぞかしみんな寒かったでしょう。取材のあとみなさんを、今度2月にno media 2006をやるBankART studio NYKへと案内しました。東京とは違う横浜の街の雰囲気に感心していました。

友部正人
12月30日(金) 編集
北仲WHITEのオフィスに録音エンジニアの小俣くんが機材を持ってきてくれて、「no media 2004」の編集をしました。2004年2月のLive! no media出演者14人全員の朗読が、少しずつ入ります。全体で74分ぐらいのCD詩集となって、2月19日の「Live! no media 2006」に間に合うようにと作業を進めているところです。
小俣くんは元たまのPAエンジニアで、今もたまの事務所があった八王子の倉庫を仕事場にしているのですが、そこはぼくたちのハロゲンヒーターだけのオフィスよりもっと寒いそうです。でも日が暮れると、さすがの小俣くんも寒そうにしていました。

友部正人
2005年12月31日(土) ミッドナイトラン
ぼくたちは3日からニューヨークに行くので、お正月の買い物といってもあまりないのですが、大晦日のわさわさした街の感じを味わいにでかけました。最近は1日から営業しているマーケットもあるのに、やはり買いだめをしようとする人たちで食料品売り場はごったがえしていました。
いよいよ新年が近づくと、ぼくとユミは走る服装になって、みなとみらいに飛び出して行きました。夜中とは思えない人と車の数でした。観覧車の前を走り過ぎるころちょうど新年になって、小さな花火が上がりました。停泊している船もいっせいに汽笛を鳴らしました。れんが倉庫の裏を走っているとき、ユミがシャンペンのプラスチックのキャップを踏んで足をくじいてしまいました。誰かが飛ばした栓が石畳の上に落ちていて、暗いのでよく見えなかったのです。あまりにも痛そうなので走るのを中止して、栓を拾わないで帰った人をのろいながら、のろのろと歩いて帰りました。走れば10分のところを1時間もかかって。ニューヨークのセントラルパークで毎年大晦日のカウントダウンにやるミッドナイトランを、横浜で二人だけでやろうとして、とんだ災難でした。

友部正人