友部正人より 
友部さんからのお便りのご紹介です。

2004年1月1日(木)サムズアップ・オールナイト・コンサート
目がさめたのがお昼だったので、今日は短い一日でした。なぜ寝坊をしたかというと、寝るのが3時ごろだったから。それにしてもよく寝たものです。
昨夜は横浜のサムズアップでオールナイトのイベントがあり、ぼくも参加しました。大晦日のイベントに参加するのはボ・ガンボスのクラブ・チッタ以来。もう10年も前のことです。年が変わる瞬間、「50歳になってから歌うラブソング」をどんとやKyonたちと歌っていました。
昨夜のイベントでは、東京ボブディランと一緒に、ボブディランの歌ばかりを歌いました。ぼくは飛び入りだったのですがたくさん歌いました。まず東京ボブディランが「ジョン・ウェズリー・ハーディング」を歌い、それからぼくと5曲一緒にやりました。「ドント・シンク・トゥワイス」「ブラインド・ウィリー・マクテル」「コカイン・ブルース」「イズ・ユア・ラブ・イン・ヴェイン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」の順です。「ブラインド・ウィリー・・・・・」は前に柳原陽一郎くんから頼まれて訳した歌詞を少し手直ししました。歌いやすくなったと思います。「イズ・ユア・ラブ・イン・ヴェイン」はユミのリクエストです。ユミはボブディランなんて全然好きではないのですが、最近「武道館ライブ」の中のこの曲にはまっています。歌っていると自然に気持ちが高まってくるとてもいい歌なのに、ボブディランはあまりライブではやらないようです。女の人とうまくいかないむずかしい人間だということを自分で告白しているとても素直な歌です。これをもっとライブで歌えば、うまくいくようになると思いますが。
「ブラインド・ウィリー・・・・」は全部ぼくが日本語で歌いましたが、あとの4曲は東京ボブディランが英語で、ぼくが日本語で半分ずつ歌いました。
東京ボブディランこと重松くんと、ベースの永見くんはぼくのライブを聞きに来てくれたことが何度もあるそうです。ドラムとベースの二人はまだ20代の若い人たちだけど、今夜のライブでますますボブディランが好きになったそうです。まだまだやりたい曲があるので、ぜひまたやりたいと思います。
5曲じゃ物足らなかったので、夜中の1時半ごろ出番だったバンバンバザールに飛び入りして、グレイトフル・デッドの曲でハーモニカをやかましく吹きました。(こういうときは、自分ではとてもいいと思っている)。最後に「夜よ、明けるな」をバンバンと一緒に久しぶりに歌っておしまい。ジャズっぽいコードの曲だと、演奏の自由の幅が広がるもんだな、と思いました。だからいろいろやりたくなるんだなと。
ぼくの2004年の元旦は半日しかありませんでしたが、その分はまた2004年の大晦日に取り戻したいと思います。今年もどうぞよろしく。
友部正人
1月7日(水) スターパインズのリハーサル
今朝アパートの大家さんがお正月のしめなわを片付けていました。ぼくは自分で作った紙のクリスマスツリーを昨日すてました。クリスマスもお正月ももう終わりです。
今日は9日のライブのリハーサルをしました。ロケット・マツ、武川雅寛、横澤龍太郎、知久寿焼というメンバーです。みんなと会うのは今年はじめてですが、特に新年の挨拶はありません。去年最後に会ったときと同じです。いつも「やあ」というだけで、練習に入ります。
去年の1月12日に鎌倉芸術館でライブをしてからちょうど1年たちました。9月にそのときのライブ盤が出て、バンドで何箇所かツアーをしました。知久くんは参加しませんでしたが、12月にはそのバンドで新曲を10曲レコーディングしました。バンドでのレパートリーが増えました。ライブはいつも時間が限られているので何をやろうかと迷います。リハーサルでやっと
気持ちがかたまってきます。バンドの音が決めてくれるみたいです。ベースのいないバンドですが、とても4人とは思えない音の厚みです。「あれからどのくらい」のCDの中に、一人でいくつもの楽器と格闘しているイラストがありますが、あれを楽しんでやっているという感じです。たのもしい感じ。

友部正人
1月9日(金) あれから1年
スターパインズカフェで今年はじめてのライブでした。去年の鎌倉芸術館のライブから1年がたったので、タイトルも「あれから1年」。バンドのメンバーはロケット・マツ、武川雅寛、横澤龍太郎、知久寿焼の4人です。
まず初めに「大道芸人」を一人でやり、それから面接みたいに、武川くん、知久くん、ロケット・マツと一人ずつデュオでやりました。さっぱりとした気分でライブがはじまりました。前半に『あれからどのくらい』のなかの曲を、後半に12月に録音した新曲から5曲を選んでやりました。「ロックンロール」で本編を終わり、アンコールがあったのでさらに「一本道」をソロで、「遠来」をバンドで演奏しました。アンコールの前に時計を見たら、もう9時半をまわっていました。7時半きっかりに始まったから、2時間を越えていたわけです。今日の2時間はあっというまだったけど、物足らないという感じでもなかった。バケツがちょうどいっぱいになったところで水道の栓を止めたという感じです。
「友部さんのライブはお客さんがおとなしいね」と楽屋で誰かが言いました。「でも、東京のお客さんってこんな感じだよ」とまた別の誰か。東京のライブは、聞き手と一対一になるような気がします。何かと一対一になることは、東京の暮らし方なのかもしれないなと思います。
そういうところは、ニューヨークとも似ています。
今夜は、福岡のライブの主催者の田中くんたち4人も来てくれました。青春18切符で、鈍行を乗り継いで来て、そのまままた夜の鈍行で帰るそうです。こうして昨日のライブのことを書いていても、まだ彼らは鈍行に揺られているんじゃないかな、なんて思ったりします。もう、永遠に福岡には着かないんじゃないかって。
明日、郡山のラストワルツでライブをすると、しばらくお休みです。明日は、ロケット・マツと武川くんが一緒に行ってくれます。その後バンドでの演奏はしばらくお休み。でも、12月に録音した曲がCDになったら、また今日のバンドで演奏を開始します。
友部正人
1月10日(土) 田口犬男
現代詩手帖の1月号の「ジュークボックスに住む詩人」は双葉双一くんの歌を取り上げています。ぜひ読んでみてください。お正月は本を読んですごそうと思っていたのですが、暖かかったので街にでかけてしまいました。本はそんなに読みませんでした。年末に田口犬男さんの新しい詩集が届きました。『ハッシャ・バイ』という題です。田口さんの詩には英語がよく使われます。ハッシャ・バイというのはイギリスの古い子守唄のはじめの部分です。新しい「犬男ワールド」は今まで以上におもしろい。前作『アルマジロジック』に続き、表紙の写真は小野由美子です。家でゆっくりすることのなくなった日本の正月には、詩集がぴったりです。田口さんの詩集は大人の童話。やさしい気持ちになれます。
2年ぶりの「LIVE! no media 2004」を2月15日、22日、29日にやります。今回はそれぞれの日に、詩人のゲストをお呼びしています。田口犬男さんは29日に出演します。詩集の発売を記念して、たくさん朗読していただけたらと思います。

友部正人
1月11日(日) ラストワルツ・ライブ
郡山のラストワルツでライブをしました。メンバーはロケット・マツと武川雅寛です。ラストワルツにはCDが洋酒の瓶のようにたくさんあります。その二つは人生に欠かせないもの、という感じがします。ゆったりと50人は座れるお店です。今夜は超満員になりました。主催の伊藤さんのおかげです。PAは名古屋から福井さんが来てくれました。9月の諏訪以来です。
カウンターに並ぶ洋酒をバックに演奏しました。曲目はスターパインズと同じです。ただ、今夜は特別に、詩の朗読を伴奏付きでやりました。「銀の汽笛」を武川くんのバイオリンで、「永遠の光」をロケット・マツのピアノで。はじめての試みでしたが、気持ちがいいということがわかりました。朗読に音をつけると、聞き手よりも読み手にとってやりやすくなるみたいです。2月のラ・カーニャでも、こういう試みが少しあってもいいかもしれません。スターパインズに続き、ライブはなかなかよくできたと思います。ロケット・マツと武川くんは、今のところぼくのベスト・メンバーです。
ラストワルツの主人の和泉さんはムーンライダーズの大ファンらしくて、打ち上げではずっと「火の玉ボーイ」なんかがかかっていました。武川くんにソロアルバムがあるということもはじめて知りました。武川くんと和泉さんの記念写真をぼくが撮ってあげました。ワインとパスタとピザと音楽、楽しい夜でした。
友部正人
1月15日(木) welcome snow
昨日からニューヨークに来ています。いつものように着いた日は何もできません。夕べは早々とベッドに入ったので、今朝は4時ごろ目がさめました。新聞の天気予報によれば、今日はとことん寒い、と書かれていて、最高でも-10度にならないとのこと。朝8時ごろ外に買い物に出てみると夜中から降り始めていた雪が歩道や車道をすっかり覆っていました。ハドソン川を見に行きたいとユミが言うので、11時ごろでかけました。アパートから川までは歩いて5分ぐらい。なんともう流氷が流れてきています。岸にかたまった氷の向こうを、かなりの勢いで海に向かって流れていきます。でも去年の2月に見たような大きなかたまりはまだありません。去年の流氷がペンギンだとしたら、今年のはまだ鳩ぐらいです。
お昼過ぎにダウンタウンに出かけました。そのとき-11度だった銀行の温度計が夕方帰ってきたときには-15度に下がっていました。でもそんなに気温が低いようには思えません。手袋とマフラーがあればだいじょうぶです。でも街には一人もスカートの女性を見かけません。寒さが東京とはだいぶ違うという感じがします。でも寒さのおかげで時差ぼけの眠気を忘れられるかもしれません。毎日外にでかけて、寒さに手伝ってもらって眠気とたたかいましょう。
友部正人
1月16日(金) 華氏とと摂氏
風が強く、昨日より気温は少し高いのに寒く感じられます。昨日のホームページの日記を見たら、温度のところのマイナスの記号が消えていました。華氏だと思われたかもね、とユミは言っています。華氏15度は摂氏マイナス10度だから、もっと低かったんです。でも今日のニューヨークタイムズに載っていた旭川の陸上自衛隊の写真を見ると、旭川はすごい雪でとても寒そうでした。マイナス15度なんて旭川では普通なのでした。(寒い作業場で家具作りをしている聖くんやオカチンは元気かな。)日本人から軍隊に対する嫌悪感がうすれて、自衛隊に応募する若者も増えているそうです。小泉首相は2005年には自衛隊を軍隊にするとはりきっているとか。冬でも夏の野菜が食べられりるのは中東の石油のおかげなのだから、派兵は当然という防衛庁の意見。日本の新聞よりわかりやすい記事だと思いました。
明日は少し暖かくなるそうです。といってもまだマイナスですが。今日はほとんどお店が来てなかったユニオンスクエアの青空市ですが、たぶん明日はおいしいパンが買えるでしょう。
PS はなおさん、昨日の日記の気温のところにマイナス、と入れておいてくださいね。全部で3箇所あります。(なおしました。はなお)
友部正人
1月19日 雪の中のナイフ
鼻水を流しながら、寒い街を歩いています。今日はバッテリーパークシティのジューイッシュミュージアムに行きました。ビリー・ホリデイの映画やDJ・スプーキーやカール・ハンコック・ラックスなどによるシンポジウムや黒人少年たちによる70年前のレイプ事件の映画上映があったのですが、着いたらもう最後の映画上映がはじまっていて、あきらめました。今日はマーチン・ルーサー・キング牧師の祝日でした。
ハドソン川から吹き付ける風がものすごく、歩くのも大変でした。そのまま帰るのはもったいないので、すぐ近くのネイティブ・アメリカン博物館に行きました。公共の場はどこも飛行場並みの保安検査なので、ぼくは持っていたアーミーナイフを入り口の雪の下に隠しました。いつも持ち歩いているナイフなのですが、よく問題を起こします。
紹介されていたのは牧場を営みロデオのショウをする現代のインディアンたち、インディアンと関係の深いバッファローなどの動物 たちの現状。でも今日の新聞によれば、実際のインディアンは貧しさにあえぎ、アルコール中毒や麻薬中毒になる人たちが多く、崩壊に瀕している部族もあるそうです。人間の現実は紹介されていないという感じでした。
朝起きるとおしりのあたりが痛いのは、凍ってつるつるの歩道を歩くからかもしれません。
友部正人
1月25日(日) ボトムライン閉店
ニューヨークで最も古いライブハウスの一つ、「ボトムライン」が1月23日(金)で閉店しました。1974年2月から30年間続いたお店でした。ぼくが一番多くライブを聞きに行ったところでもありました。ニューヨークに来るたびに一回は誰かの演奏を聞きに行っていました。デイブ・ヴァン・ロンク、ランブリン・ジャック・エリオット、ケブ・モー、スティーブ・フォーバート、リッチー・ヘブンス、ダン・バーンなど、フォーク系の歌を聞ける唯一の場所でした。
ワールド・トレード・センターの事件以来お客さんが減って、家賃の支払いに苦労していたそうです。それでもここ半年はなんとか月11000ドルの家賃を払い続けたとか。大家がニューヨーク大学なのだから、もう少し理解があってもよさそうなのにと思います。ぼくとユミが聞きに行ったライブはいずれも、400席ある客席がいつも満席だったような気がします。だから去年の暮れに経営不振の話を耳にしたときには意外な感じがしました。同じテーブルにすわった見ず知らずの人たちとおしゃべりしたりとか、いつもお客さん同士が和気あいあいとしていて、歌が好きな人たちには我が家のような雰囲気のあるライブハウスでした。
今日ユミと二人でボトムラインの前まで行ってみました。「長い間ありがとう。本当にたくさんの音楽にここで出会えました。特にブルース(たぶんスプリングスティーンのこと)。一ファンより」という張り紙がドアにピンでとめられていました。ブルースの後に誰か別の人がパティ(たぶんスミス)と書き加えていました。昨日のニューヨークタイムズの記事を読んで、ぼくたち以外にもぽつんぽつんとやって来て、写真を撮っている人たち(ぼくぐらいの年齢の)がいました。
友部正人
1月27日(火) 大雪、さて飛行機は
ニューヨークは今午後9時。映画を見てさっきアパートに戻って来たところです。映画を見ていた2時間の間にがんがん雪が降っていて、車道にもたくさん積もっていてびっくりしました。ぼくもユミも映画のことなんて忘れてしまいました。わくわくするうれしい気持ちと反対に、明日のことが心配になってきました。ぼくたちは明日のお昼の飛行機で横浜にもどるのです。夕方にカーサービスの予約をしようとしたら、大雪の予報なので予約は受け付けていないと、2社から断られました。ここんとこ毎日大雪の予報だったのになかなか降らなかったのです。たぶんもう降らないね、なんて言っていたらこの雪です。果たして飛行機は飛ぶのか、飛行場まで車は走れるのか、明日の朝にならなくてはわかりません。
見てきた映画は日曜日にゴールデン・グローブ賞をとったばかりの「ロスト・イン・トランスレイション」です。フランシス・コッポラの娘のソフィア・コッポラの映画で、舞台は東京です。外国人から見た日本人や東京の街がよくわかりました。自分ではわからないところをのぞかれているようでした。お互いに結婚をしている年齢差のある男女の照れくさいような愛の話。映画はとてもよかったけど、その余韻は雪に消されてしまいました。
万が一明日中に飛行機が飛ばなくても、あさってには帰れるでしょう。31日の甲府のライブまでにはなんとか・・・。
友部正人
1月29日(木) 横浜
朝9時に予約してあったカーサービスが9時20分になっても現れず、飛行機の時間もあったのでそれ以上待っていられなくて、バスでグランドセントラル駅まで行き、空港バスでJFK空港まで。(朝のタクシーはいつもつかまらないし、ましてや雪の日なんて特に無理です。)それから12時間飛行機に乗って、横浜に戻ってきました。
テレビをつけたら、さっきまでいた雪のニューヨークがニュースになっていて、積雪は30センチと報道されていました。27日夜から28日にかけてJFK空港ではたくさんの飛行機便が運休になったらしいけど、28日のお昼にはもう正常に戻っていたようで、ぼくたちの便もオンタイムでした。そのままテレビを見ていたら、東横線の横浜駅と桜木町の間が明日で廃止になるとか。ぼくたちの最寄の駅の高島町もなくなるわけです。みなとみらい21線になると駅が少し遠くなります。ぼくたちがニューヨークにいる間、横浜にも雪が降ったそうですね。そんなめずらしいときに横浜にいなくて残念でした。
友部正人
2月5日(木) 風音を見て
頭からカニがいなくならないのは、昨日試写会で見た『風音』のせいです。昔沖縄には風葬の習慣があって、風葬場におかれた遺体をカニが食べたそうです。会場でもらったアンケートに、印象に残ったシーンは?という質問があって、ぼくは登場人物たちの表情がよかったのでそう書いたけど、後からカニの存在が大きくなってきました。
風音というのは、頭蓋骨にあいた銃弾の穴を海風が吹きぬけるときに発生する音で、ほら貝の音色に似ています。島の子供たちがこの頭蓋骨の横に魚の入った瓶を置いて風の道をふさいだので、突然風音は鳴らなくなります。子供たちはそこに魚を置いて、一週間たってもまだ生きているかどうか、賭けをするのです。
頭蓋骨は沖縄で戦死した日本軍の青年のもので、昔好きだったその青年の消息をたずねて、加藤治子が演じる志保が村にやって来ます。その戦死した若者が志保に残した手紙がとてもよかった。心に秘めたことを何も言えないのは、この映画の登場人物たちみんななのです。それで見ているものとしては歯がゆい感情にもなります。言えば交わったはずの道が言わないから元のまま平行に進んで行く。でも長い時間の行き着くところに、ちゃんと交わる場所があるということでしょうか。
「どうして清吉さんは志保に万年筆を渡さなかったのかな」と帰り道にユミがしきりに言いました。渡せるチャンスは何度もあったのに。ふたりでいろいろと考えながら帰りました。この映画は今年の夏休みに東京で一般公開されるそうです。半年してもう一度見たら、新しいことに気づくかもしれません。
友部正人
2月10日(火) 足助の雛人形
愛知県県の足助町はちょうど雛人形祭りがはじまったところでした。商店や個人が訪れる観光客のために家にあった古い雛人形を飾るのです。中には100年以上も前のもあるそうです。今年で6年目というこのお祭りに100軒以上が参加しているそうです。ぼくは足助のかじやさんというライブハウスでライブがあったので、歌う前に少しだけ雛人形を見て歩きました。
もう時間が遅かったので、ほとんどのお店は閉まっていて、昼間は何千人も歩くという通りもすでに閑散としていたのですが、一軒まだ灯りがともって営業をしている本屋さんがあり、ふらりと入りました。そんなに大きくはないのに、読んでみたくなる本がたくさんそろっていました。普通の本屋さんとちがうのは、文庫本があまりないことです。そのかわり絵本などの児童書は豊富でした。ほんの少しだけど、洋書もありました。何も買わないで出たのですが、とても心に残る本屋さんでした。
まだまだ先だと思っていた2月15日から始まる詩の朗読会、「LIVE! no media 2004」が急に近くなってきました。だいたい物事はぼくにとってこんな風に近づいてきます。内容のことは予測つかないのですが、2月15日はすでに満員になるようなので、来ようと思っておられる方は2月22日か29日にしていただけるとうれしいです。出演者たちもだんだんこのイベントになれてきて、いろいろと内容を考えているみたいです。今までよりさらに熱く濃い内容になるでしょう。何がでるやら、ぼくもとても楽しみです。
友部正人
2月15日(日)LIVE! no media 2004 はじまる
LIVE! no media 2004の一日目が終って帰ってきました。今午前一時半。いつもならライブの後、横浜につく頃はほとんど車の中で寝ているのに今日は元気です。目がさえています。
今日は出演者が一番多い日で、長時間のライブだったけど、お客さんはみんなとても満足したみたいで終ってもすぐには帰らず、谷川俊太郎さんにサインをもらったりしていました。谷川さんは今回で二回目なのですが、今年は新作ばかり朗読してくれました。最後に「アンコールをやりたくなっちゃった」と自ら言い、「なんでもおまんこ」をべらんめえ口調で朗読しました。宮沢和史くんは場を支配する不思議な力のある声でたくさん朗読してくれました。詩と歌は別のノートに書かれるみたいで、詩をたくさん読んだ後、2、3週間前に書かれた新曲も披露してくれました。弾き語りのギターもきちんとアレンジされているのが特徴です。オグラくんは今回も自作の手回しオルガンを使って、ベートーベンのような風貌で、落語にも似た詩の朗読をするので大うけでした。田辺マモルくんも新作ばかりを披露してくれました。ラップ調のもみ上げの詩にはみんな大喜びでした。いつのまにかみんな朗読がとてもうまくなってきていました。今年25歳というバンジージャンプフェスティバルの町田直隆くんは、25歳が若い年齢なのか、それとももう大人になってしまった年齢なのかよくわからない、と言っていました。でも朗読して歌う町田君の目と体は、今日の他の出演者とは明らかにちがっていました。町田くんも今日のために書いたという詩を朗読してくれました。
みんなが新しい詩を用意してきたのが特徴の今日のライブでした。一人一人の朗読をもっとじっくり聞きたくなりました。今日は出演者が多すぎたかもしれません。それぞれの人の特徴ある詩を聞くと、ぼくは自分のがかすんでしまうような気がします。
ぼくは現代詩手帖の「友部正人特集号」で書き下ろした詩と、最近書いた「トランペットとトレイン」というのを読みました。田辺くんとは、コンサートシリーズ「言葉の森で」にゲストで出てもらったときに一緒に作った連歌、「わが町のスターバックス」をまたやりました。二回目なのですが、一回目のときのようには感動しなかった。こういうのはその場だけの歌なのでしょうか。宮沢くんとは「鎌倉に向かう靴」(作詞:友部正人/作曲:宮沢和史)を一緒に演奏しました。去年の鎌倉芸術館でのぼくの30周年記念ライブでは一緒に歌えなかったので。
あっという間の三時間でしたね、というのは出演者の田辺くんの感想ですが、ぼくもそんなに時間がたっていたとは思いませんでした。来週の日曜日もラ・カーニャで、「LIVE! no media 2004」があります。詩人の工藤直子さんをはじめとして、水谷紹くん、三宅伸治くん、知久寿焼くんといった人たちが出演します。お楽しみに。
友部正人
2月19日(木) てつがく
今日はバスで三渓園まで梅を見に行きました。梅はまだ三分咲きぐらいでしたが、園内にはたくさんの野良猫がいて、警備のおばさんが「持って帰っていいよ」と言っていました。砂利の上や木の下で、猫はみんな居眠りしていました。ときどき目を開けて何かを見ているのですが、何を見ているのかはわかりません。動物ってときどきそんなものを見るみたいです。
今度の「Live! no media 2004」に出ていただく工藤直子さんの本で最初に読んだのが「てつがくのライオン」でした。かたつむりに「ライオンって哲学的だ」といわれて、どういうのがてつがくてきかやってみようとするのです。ライオンは遠くを見ます。そしてこれがてつがくかな、と思うのです。誰かに見てほしいけど誰もきません。ライオンはてつがくをしたことを話しに、かたつむりに会いにいきます。ぼくの息子がまだ小さかったころ、この話は我が家の大ヒットでした。工藤さんは先週谷川さんが出てくれたときに聞きに来てくれました。そして「お話を読んでもいいんだよね」と、遠くを見ててつがくしていました。
友部正人
2月20日(金) 三宅伸治ライブ
横浜のサムズアップで三宅伸治のライブを堪能しました。ドラムスの杉山章二丸くんと二人でした。来月、オリジナルメンバーによるモジョクラブのライブがあるそうで、そのせいか今夜はモジョクラブのころの曲も多かった。章二丸くんによれば、今夜はまだ出し惜しみしているとのことでした。それにしても三宅くんはなんと生き生きとギターを弾く人なのでしょう。ここ何年かで一番ギターを弾きまくっているように思えました。
明日の「Live! no media 2004」の宣伝もしてくれました。三宅君は毎晩枕元にノートをおいて寝ているそうです。新作が期待できそうです。アンコールに呼ばれて、「はじめぼくはひとりだった」を一緒に歌いました。いつもより早く歌詞のかけあいに入ったのがよかったみたいです。後で三宅くんもそう言っていました。今日も三宅君にライブの楽しさをおしえられました。
友部正人
2月24日(火) LIVE! no media 2004
ラ・カーニャでの「LIVE! no media 2004」の2回目が日曜日にありました。詩人のゲストは
工藤直子さんでした。工藤さんは、「のはらうた」から「おれはかまきり」を小学生低学年の素直な感じ、中学ぐらいの屈折した感じ、哲学してる感じと、みっつの感じで朗読しました。そして代表作「てつがくのライオン」を、工藤さんのファンだというラ・カーニャの岩下夫妻の中学生の娘に贈りました。それからはじめて朗読するという「おいで、もんしろちょう」を、リクエストしたぼくのために読んでくれました。泣いた人がたくさんいました。
水谷紹くんは一曲も歌わず、この日のお昼までかかって書いたという、ある一人の女性を主人公にした、アルバム「LIVE! no media 2002」の中の「クーラー」の続編を何篇か読んでくれました。no mediaの参加者の中では最も虚構性の強い詩を書きます。表現方法も独特で、ときには残酷ですらあります。ぼくの知っている紹くんと作品とのギャップが一番興味深いところです。
知久くんは今までの詩と、最近朝日新聞の夕刊に掲載された新作「おるすばん」を朗読と歌で聞かせてくれました。「おるすばん」の朗読は夕刊を広げて読んだのがうけていました。この詩はぼくも新聞で読んで、すごいな、と思ったのです。
三宅くんも期待どおり新作ばかりやりました。聴衆参加型、とアンケートに書かれていましたが、彼にかかるとロックンロールばかりではなく、詩も楽しいものに変貌します。そんなまれな特製をそなえた人です。
ぼくは今夜は詩集「名前のない商店街」と「すばらしいさよなら」から読みました。また新作も一つやりました。新作が一つあるとそれだけですっきりします。ライブの最後に、三宅くんとぼくの共作の「渡り鳥」をふたりで歌いました。2回目もたくさんの人が聞きに来てくれました。ありがとう。

3月にMIDIから発売になる尾上文のアルバムを聞きました。詩のぎっしりとつまった作品です。ぼくにとっては懐かしい古い歌も入っていました。あまりにもよく知っているので、未発表だったとは思えません。今井忍がギターを弾いている3編の詩がぼくは好きです。「絶滅して名前だけになった動物たちを今夜樅の木の地球儀に飾ろう」という、『Something lost in Christmas』は特に好きな詩です。尾上くんは今度の日曜日の「no media 2004」に出演しますが、どんなふうに何を読むのか楽しみです。
友部正人
2月28日(土) 2月28日のなんでもない一日
今日も横浜には大きな客船が停泊していました。名前はよく見えませんでしたが、もしかしたら初めて見る船だったかもしれません。少し前、クリスタル・セレニティという客船が大桟橋に来たときは、数百人もの素人カメラマンたちが撮影していました。横浜に来て7年目になるのですが、横浜にやって来る客船はだいたい決まっています。クイーン・エリザベス号は1回だけ見たことがあります。大桟橋と同じぐらいの大きさがあって、氷川丸がボートのように見えました。
東京ステーションギャラリーに香月泰男展を見に行きました。彼が絵の具を命と同じぐらい必要としたシベリア抑留を描いた作品がやはりものすごく説得力を感じるのですが、「柵」というタイトルの、ただ柵を描いただけの作品がぼくはとても親近感を覚えました。
明日は「LIVE! no media 2004」の最終日だというのに、朝からぶらぶらしているのは、なかなか新作が書けないからです。でも、ぼく以外の出演者たちは、新作を書いているようです。
きっと明日も面白い夜になるでしょう。
友部正人
3月2日(火) 「LIVE! no media 2004」を終えて
ミッドナイトプレスという詩の雑誌の、谷川俊太郎さんと正津勉さんとの対談をしてきました。ミッドナイトプレスは季刊なので、対談が載るのは次の「夏の号」です。谷川さんにはつい先日、「LIVE! no media 2004」に来ていただいて、お会いしたばかりです。
対談の内容は終ったばかりのno mediaのことでした。谷川さんはno mediaというタイトルも気に入っているそうです。谷川さんに送られてきたり、谷川さんも参加した世界中からの詩の朗読のCDを聞きながら話は進みました。そういう部分は、誌上ではどう表現されるのか楽しみですが。
「LIVE! no media 2004」は2月29日で終了しました。2月29日は石川浩司さん、尾上文さん、田口犬男さん、平井正也さん、友部正人でした。
石川さんの朗読は体全部を使ったものなので、記録として残すには映像も必要かもしれません。今回はその用意はしていませんでした。たいていの人は自分の詩集を見ながら朗読したのですが、石川さんはほとんど暗記していました。手にテキストを持たないぶん、自由なパフォーマンスができたみたいです。
尾上さんはもうすぐ発売になるCD「ファミリーレストランの未来派」からの詩と、いつかまとめて本にしたいという幻獣についての詩を朗読しました。ぼくが好きな「Something lost in Christmas」もやりました。この詩が収録された新しいCDについては、現代詩手帖4月号のぼくの連載でも取り上げるつもりです。
田口さんはいつも通りはだしで、最新詩集「ハッシャ・バイ」から朗読しました。田口さんの詩にはジョン・レノンやグレイトフル・デッドなど、ぼくにもなじみのある人々がよく登場します。またキリストや夏目漱石といった人々も登場します。いろんな人物たちが当たり前のように田口さんの詩の中を歩きまわっています。
マーガレットズロースの平井さんは「no media」に出ることになってから、詩のことばかり考えたそうです。「詩の奴隷になったみたい」と言っていました。そしてとてもおもしろい詩を書いてきたのでうれしくなりました。平井くんを誘ってよかったと。
ぼくは今日は新作がなかったので、今までの詩集からと、22日も読んだ「遠い外国にある誰もいない我が家」を読みました。そして、平井くんとは「大阪へやってきた」を、石川くんとは「ぼくの猫さん」を一緒に歌いました。「ぼくの猫さん」はたまとの「けらいのひとりもいない王様」ツアー(92年)以来だったのですが、久しぶりに歌ったらぼくの頭から離れなくなってしまいました。今もかかっています。
こんな風に終ったno media 2004でした。この記録は近いうちにCDブックで発表したいと思います。お楽しみに。
友部正人
3月7日(日) 奄美大島
4日から奄美大島に行き、6日の最終便で戻って来ました。ぼくは4年ぶり、ユミは20数年ぶりの奄美でした。4日の午前中に奄美に着いたぼくたちを、ライブハウス、ASIVIのフモトくんとショーイチくんが空港で出迎えてくれました。名瀬へ行く途中のひさ倉という店で鶏飯をごちそうになりました。ここは養鶏もやっていて、卵は有精卵だそうです。買って帰りたかった。
奄美小学校の体育館でピアニストの板橋文夫さんとパーカッションのおながみどりさんのライブがありました。全校生徒を対象にしたコンサートで、子供たちの保護者もたくさん聞きに来ていました。はじめてジャズを耳と目にする子供たち相手の板橋さんたちの奮闘ぶりは見ものでした。そして何よりも心に残ったのは、子供たち全員による民謡の合唱でした。奄美民謡が2曲と沖縄民謡が1曲でした。とくに「ヨイスラ節」のメロディがよかった。
夜はASIVIでぼくのライブがあり、後半に板橋さんとおながさんが飛び入りしてくれました。板橋さんたちの音に合わせて詩の朗読もやりました。
5日は朝からバスで最南端の古仁屋まで行き、そこから海上タクシーで加計呂麻島へ。海上タクシーというのは貸切船のことで、行きたいところまで乗せてもらえます。大きさはまちまちで、ぼくたちが乗ったのは10人乗りぐらいの船でしたが、二人だけでも乗せてもらえます。料金は船によってちがうそうですが、スリ浜というところまで1500円でした。船長さんはおだやかでとてもいい人でした。
スリ浜にはペンションなどが数軒あって、とてもきれいなビーチがあります。寅さんの撮影場所にもなったそうです。そこから何度も寄り道しながらのんびりとフェリー乗り場のある池間まで歩きました。誰もいないのでのんびりしてしまいます。音もしないのでとても静かです。諸鈍という集落でデイゴ並木を見ました。ここも寅さんの撮影場所でした。夕方のバスでまた名瀬に戻ったのですが、スリ浜に行ったんだったら泊まらなくちゃ、と後からみんなに言われました。
夜はASIVIで板橋さんとおながさんのライブがあり、今度はぼくが後半に飛び入りしました。
立ち見もでる大入り満員で、こんなのめずらしいですよ、とフモトくんも言っていました。
6日は夜7時の便だったので、ASIVIのショーイチくんが車で島を案内してくれました。一番興奮したのは製糖工場の見学です。さとうきびがトラックで運ばれて来るところから、砂糖になって倉庫の床に降り積もるまでを見ることができました。案内してくれたのは工場で働いているMさんとYくんです。二人はライブにも来てくれました。おみやげに砂糖を5キロももらってしまった。倉庫の天井めがけて噴出される砂糖が雪のようにコンクリートの床に降り積もります。倉庫はすきまだらけなのに、不思議なことに蟻は一匹も来ないそうです。
友部正人
3月11日(木) 新しいアルバム
今週はぼくの新しいアルバムのトラックダウンをやっていました。だいたい終って、並べて聞いてみたところです。今回のアルバムは、レコーディングスタジオではなく、鎌倉芸術館のステージを借りて録音しました。わざとモニターは使わず、耳でお互いの音を聞きながら演奏しました。はじめは聞き取れなかった音が、なれてくると聞こえるようになってきて、はじめての録音方法でしたが、これからの参考になりました。こんなピクニックのような録音方法を思いついたのは録音エンジニアの吉野金次さんです。トラックダウンもスタジオではなく、吉野さんの事務所でやりました。なんだか毎回違う録音方法を試しているようです。
タイトルは「何かを思いつくのを待っている」になりました。「休みの日」と同じ扇谷さんにジャケットをお願いしていて、もうだいぶ出来上がっています。かなりいいジャケットになりそうです。写真は小野由美子の撮った冬のニューヨーク。中身は夏の歌も多いのですが。発売は5月8日ですが、早く聞いてもらいたい気持ちです。
友部正人
3月16日(火)忙しい日々
なぜか今月はとても忙しく、一日二つずつぐらい用事をすませています。今日は横浜で、朝日新聞の記者からインタビューを受けました。今度の日曜日の「おやじの背中」の記事になります。いつも読んでいた連載記事に自分が出るのはおかしな感じです。
夜は目黒でおおたか静流さんとピアニストのフェビアン・レザ・パネさん、バイオリンの武川くんとあさってのカメリアホールでのコンサートのリハーサル。パネさんはぼくははじめてでしたが、とてもきれいな音楽をする人でした。セロニアス・モンクみたいにすきまの大きな音。こんなピアノを弾く人にはじめて会いました。18日はこの4人でコンサートの最後に演奏します。おおたかさんとのコンサートでは今までで一番の完成形になるかもしれません。
カメリアホールは亀戸にあるのですが、亀有にあると思ったのはぼくだけではなかったみたいです。おおたかさんもうっかりまちがえそう、と心配していました。このコンサートに来るなら、駅をまちがえないようにね。
というわけで今夜も帰宅は真夜中。これから今日4食目を食べるところです。
友部正人
3月23日(火) 松山、三崎町の旅
松山と愛媛県の佐田岬の先っぽの三崎町に行ってきました。
松山のライブは20日だったのですが、前日入りしたのでかなりぶらぶらすることができました。市電に乗って道後温泉にも行きました。観光客でいっぱいでした。
20日は春分の日で、商店街にはずらりと日の丸が並びました。時代の保守化を感じつつ歩いていると、インド料理店がインドの国旗を出しているのを見つけました。それがとてもかわいらしく思えて、20日の共演者の佐藤くんを誘ってカレーを食べに行きました。ご主人はインド人で、ナンが非常においしかった。ライブ会場となった若葉幼稚園の流水園長先生は田島征三さんとも友だちだそうです。50歳からギターをはじめて今57歳、定期的にバンドでライブもしています。本当はお坊さんだという流水さん、お酒も飲まず楽しそうに話す人でした。
21日は松山の主催のN’s アークの西岡さんに車を運転してもらい、佐田岬の先っぽの三崎町へ。2時間半ぐらいかかりました。大分までのフェリー乗り場のまん前の「ひかる」という喫茶店がライブ会場。地元のフォークサークルが主催です。平均年齢は40代後半。ライブの後はサークルの中村さんのお宅でイセエビやさざえをご馳走になりました。中村さんのお宅のリビングはものすごい設備を備えたオーディオルームになっていて、お仕事は電気屋さんだそうです。マイルス・デイビスやビリー・ホリディをいい音で聞かせてもらいました。
3泊4日の松山と三崎町の旅、だいぶ愛媛県を知ることができました。この次はみんなが噂をしていた秘湯、小藪温泉に行ってみたいと思いました。
友部正人
3月25日(木)きょうのできごと
池袋のジュンク堂で、比嘉良治さんと宇田夏苗さんの『50歳から楽しむニューヨーク散歩』
の出版記念レクチャーがあった。比嘉さんは雲遊天下の最新号でぼくとユミが対談している
ニューヨークの写真家で画家で大学教授。宇田さんとも比嘉さんを通してニューヨークで知り合ったライターの人です。。ジュンク堂の4階にある喫茶室は、お祝いにかけつけた人でいっぱいになり、比嘉さんは子供のようにはしゃいでいた。池袋のジュンク堂にははじめて行ったけれど、一階のレジのところが、ニューヨークのバーンズ・アンド・ノーブルに雰囲気が似ていた。各フロアーに椅子やテーブルがたくさんあって、みんながそこで本を読んでいるのも似ていた。図書館みたいな本屋だとユミはしきりに言っていました。
ジュンク堂に行く前に、横浜で『きょうのできごと』という映画を見ました。こういう奴、いたよなあ、ぼくが若いときにも、というような若者たちばかりが出てきて、とても素直に感情移入できました。それになんといっても大阪弁のパワーに圧倒されました。ユミは大阪生まれなので、普段は標準語を話しているのにすっかり元に戻って、映画館を出ると完全に大阪弁を喋っていました。おかげでぼくは映画をまだ見終わっていないような気分でした。大阪の人は東京でもニューヨークでもよく目立ちます。頭の構造が違うような気もします。みんなが自分のことを話しています。大阪ではそれが普通です。なんといっても大阪弁にはパワーがあります。みんな英語なんて勉強しないで、大阪弁を習ったら元気になれるかもしれない。出演者たちはほとんど大阪の人ではないのに、みんな完璧な大阪弁を喋っていました。
映画といえば、比嘉さんと宇田さんのレクチャーの場所で、『シャル・ウィー・ダンス?』の監督の周防さんと会いました。ぼくと周防さんには共通の友人(映画監督)がいて、その友人の話をしているうちに、周防さんとも前から知り合いだったような気がしてきました。そんな柔らかい感じの人でした。
友部正人
3月30日(火) 自分についてのトピックス
今日はデザイナーの扇谷さんのオフィスまでジャケットの色校を見に行きました。途中の有栖川公園の桜がとてもきれいでした。都会のど真ん中なのに、広尾には小さな村のような雰囲気があって、いい町だと思いました。扇谷さんは『休みの日』のジャケットもデザインしてくれましたが、今回も思い切ったタイトル文字の入れ方でさえてます。雪のリバーサイドパークで撮ったモノクロのジャケットです。小野由美子の写真もまたまたさえています。
そういえばユミと一緒に仕事をした新しい季刊雑誌、Kokochinoが送られてきました。椅子がテーマの創刊号で、ぼくはパリのことを書いています。夜のエッフェル塔の写真がいいです。3月31日発売です。
現代詩手帖4月号の「ジュークボックスにすむ詩人」では、尾上文の『ファミリーレストランの未来派』を取り上げています。尾上文の詩の朗読は歌のようで、歌は詩の朗読のようです。尾上文をはさんで詩と歌は兄弟のようです。
4月4日(日)は新宿のテアトル新宿のレイトショーにぜひ来てください。『タカダワタル的』という映画をやっています。映画の後、10時半ごろからぼくが少し歌います。
友部正人
4月6日(火) リハーサル
今日は11日のリハーサルをマーガレットズロースとしたので、書いてる文字までかすれそうになるくらい喉がカラカラです。ロックバンドと歌うのはたいへんですね。一人だと3日は連続でライブをやれるけど、ロックバンドとなら3日に一回です。彼らとは何回も一緒にやっていて曲目もたくさんあるのに、今日はまたまたはじめての曲をやりました。まあ、自分の曲はいいのです。大変なのは彼らですから。たぶん11日はぼくの曲をたくさん彼らと一緒にやると思います。逆に彼らの歌をぼくが歌うのは大変です。一回や二回では覚えられません。大好きで聞いているのと、それを自分で歌うのではちがいます。でも歌えると楽しいものです。そんなぼくとマーガレットズロースのリハーサルでした。「これはおもしろいコンサートになるよ」とマーガレットズロースの平井くんも言っていました。
その前に京都の磔磔で有山じゅんじと二人でライブがあります。9日です。有山くんと二人で作った曲は3曲あります。一つはぼくの「夢がかなう10月」に入っている『涙』、一つは明日発売される有山くんのニューアルバムに入っている『いつかあの娘がもどってきたら』。残る一曲がまだ未発表の『小さなコンマ』という歌。その歌をやりたいと今日有山くんからメールが来ていました。家で明日その練習をしておきます。やっぱりリハーサルはしておかないと。
友部正人
4月16日(金) ビエンナーレ
14日からニューヨークに来ています。
「明日のショーについてお聞きしたいんですが。」「Sold out.」「じゃあ、今夜のは?」
「Sold out.」カーネギーホールのボックスオフィス。カエタノ・ベローソの公演は二晩とも売り切れでした。「トーク・トゥー・ハー」という映画で一曲歌ってたカエタノ・ベローソには、普段はあまりコンサートには行きたがらないユミも興味を見せたのですが、残念でした。
夜はホイットニー美術館のビエンナーレに行きました。金曜日の夜は任意料金なのでとても混み合います。特に二年に一度のビエンナーレなので長蛇の列。四階から順番に見ていきますが、四階にはこれといったものはありませんでした。三階には社会性の感じられる作品が多く、身近に感じられます。毎回ビデオやフィルムの作品が多くなっているようで、こういったものはおもしろいかどうか判断するのに時間がかかります。草間彌生の「水の上の蛍」は一人ずつしか見られないので長蛇の列でした。ぼくは25分並んで20秒だけ見ました。閉じられた空間に自分の世界を作る作品が多くなってきているのも特徴かもしれません。横浜のトリエンナーレでもやった何千個ものミラーボールを水に浮かべる草間彌生のイベントが明日からセントラルパークでも始まるみたいです。

友部正人
4月12日(月) 磔磔の30周年おめでとう、と言葉の森で
京都磔磔の30周年に行ってきました。有山じゅんじと一緒にやるのも久しぶりで、同じ人間なのにいつも新鮮なところが相変わらずでした。歌の方も相変わらずで、新作が昔からの
レパートリーのように聞こえます。前にぼくと二人で作った「いつかあの娘がもどってきたら」を
有山君がソロでやり、「涙」と「小さなコンマ」は二人でやりました。
磔磔のオーナー、水島くんは3年前に今の長島茂雄さんと同じ病気で倒れたことがあって、それからずっとリハビリをしていたのですが、最近回復して少しずつまた飲みはじめてるそうです。やっぱり飲むと楽しい、と言っていました。
30年続いたニューヨークのボトムラインは今年の1月についに閉店しましたが、磔磔はまだまだ続きそうです。
昨夜は吉祥寺のスターパインズカフェで「言葉の森で」の第6回目がありました。ゲストはマーガレットズロース。普段ならステージで色々と話をするのに、昨夜はそんなことも忘れて演奏に没頭してしまいました。あんまり「言葉の森で」らしくなかったと後でユミが言っていました。そういえばマーガレットズロースとの出会いなど、何も話さずに終ってしまいました。彼らの新しいアルバムのタイトルじゃないけれど、ぼくは「こんな日を待っていたんだ」なのでした。久しぶりのぼくのエレキギターもいい音がしていたし、マーガレットズロースも飛び跳ねてました。「ぼくは君を探しにきたんだ」も彼らの早いテンポのアレンジで歌ったら、なんだかアジテイションみたいになっちゃったね、と言ったら、「アジテイションってなんですか」ってついこの間まで学生だった平井くんが言うのです。アジテイションももう死語なのですね。それぞれがそれぞれの顔のまま笑ってる、こんな「言葉の森で」もいいのではないかと思います。
友部正人
4月21日(水) 比嘉良治さんのお宅で
ぼくが「雲遊天下」の最新号で対談している比嘉良治さんのロフトに遊びに行きました。比嘉さんはニューヨークに40年住んでいるアーティストです。比嘉さんは台所を自分のテリトリーにしています。食材を見ながら何を作ろうかと考えるのが大好きなのだそうです。奥さんのマドレインさんも台所に入るのは遠慮がちになると言っていました。
今夜は牡蠣やエイやあさりやあんこうなどの海産物をごちそうになりました。集まった比嘉さんのお友達とも知り合いになりました。比嘉さんもマドレインさんもマラソンをやっています。二人にそそのかされて、ぼくは今度の土曜日にハーフマラソンを走ることになりました。ブルックリンのコニーアイランドからプロスペクトパークまでだそうです。ユミや比嘉さんたちは
プロスペクトパークのゴールで待っててくれるそうです。まだ申し込みはしていませんが、きっと朝5時ごろ家を出て、コニーアイランドに向かうでしょう。
比嘉良治さんが写真を撮って、宇田夏苗さんが文章を書いた『50歳から楽しむニューヨーク散歩』がニューヨークの紀伊国屋の3月の3位になっていました。著者二人がマラソンをやっているせいか、セントラルパークの紹介ばかりが目立つニューヨークの案内書です。
今夜は比嘉さんから借りた何冊ものマラソントレーニングの本を読みながら眠ることにします。土曜日のマラソンには間に合わないけど。
友部正人
4月25日(日) ニューヨークの週末
昨日のブルックリン・ハーフマラソンを走りました。コニーアイランドのボードウォークを往復させられて、それからプロスペクトパークまでのまっすぐな道を延々と走ります。ずっと下り坂なので調子に乗って走っていると、プロスペクトパークに着いてからが大変です。ゴールまでそれから4マイルぐらい走らなくてはなりません。途中に長い長い上り坂もありました。
ゴールでユミや比嘉さんたちとうまく会えなくて、一人でアパートに帰って風呂に入ろうとしていたらユミから電話がかかってきました。みんなもずっとぼくのことを探していたそうです。ダンボ地区にあるピザ屋にいるというので、また地下鉄に乗ってブルックリンまで出かけました。マンハッタンからイーストリバーを渡って最初の駅、ハイ・ストリートを出ると、彫刻家の下次さんの車でみんながぼくのことを待っていてくれました。ぼくがあまりにも遅いので、混んでるピザ屋にいられなくなったそうです。
それから下次さんのアトリエに行きました。下次さんとは先日比嘉さんのお宅で知り合ったばかりです。彫刻家の仕事場を見せていただくのは初めてです。石を使った作品が多いのでほこりっぽいのかと思ったら、古い倉庫の中のアトリエなので、天井から落ちてくるのでそうです。「彫刻家はそんなにいろんな形は作らないものなのですよ」という下次さんの言葉は印象的でした。自分の形が見つかったら、同じものを何回も作り続けるのです。歌もそんなところがあるような気がします。歌にも目に見えない形があって、その形を作りつづけてきたような気がします。帰りは下次さんにマンハッタンのぼくたちのアパートまで車で送ってもらいました。途中、ハドソン川のシップ・ターミナルに停泊中の世界最大のイギリスの客船、クイーン・マリー2世号がチラッと見えました。
今日は比嘉さんがセントラルパークの4マイルレースを走るというので、朝から応援に行きました。今年66歳の比嘉さん、同年齢の人の中では6位というがんばりぶり。それから駅伝の記録保持者だというあさ子さんから、ストレッチングのやりかたをおそわりました。その後はみんなでぼくたちのアパートのすぐ隣にあるフェアウェイというスーパーマーケットの2階のカフェテリアで朝食を食べました。評判は前から聞いていたけど、実際に入って食事をしたのははじめてです。買い物には毎日来ているのですが。フェアウェイの2階はオーガニックの食料品の売り場なので、レストランもヘルシーなイメージがあってはやっているのではないか、というあさ子さんの推測です。このごろはマーケットにもレコード屋にも本屋にも、ほとんどカフェがあるニューヨークです。マラソンとヘルシーフードという絵に描いたようにニューヨーク的な週末でした。
友部正人
4月29日(木) セントラルパークの桜
いつもならせいぜい二日に一日しかセントラルパークを走らないのに、なぜかこのところ毎日のように走っています。といっても走ってる時間は短いのですが。
セントラルパークにはいろんな種類の桜があって、もう二週間以上も桜が咲き乱れています。ニューヨークの桜はとてもグラマラスです。よく枝からぽろりと落ちないなと思うくらい。貯水池を走って水を飲もうとしたら水呑場の上にボリュームたっぷりの桜が真っ赤に咲いていて、懐かしい匂いがしたのです。花の匂いではなく、桜餅に使う桜の葉の匂いでした。想像の中でその匂いにはかすかな塩味もしました。汗かもしれません。
ぼくのはじめてのマラソン友だち、写真家の比嘉良治さんと奥さんのマドレインさん、ぼくとユミの四人で、チャイナタウンでお昼を食べました。中華はやはり一番おいしくて、ぼくとユミはぱくぱく食べているのに、比嘉さん夫妻は控えめです。どうしてからと思っていたら、食事の後ジムに行く予定だったそうです。マドレインさん、半そでをまくって力瘤を見せてくれました。
ところで4月27日に発売になったパティ・スミスの新譜、とてもいいですよ。きれいなのです。
批評では「ウェイブ」と比較して書かれていましたが、まるでみかけの変わらない新境地だとぼくは思います。5月1日にブルックリンで15ドルでライブがあるのですが、ぼくは2日の朝帰国なので行かないでしょう。
友部正人
5月1日(土) WFMUレコードフェア
毎朝セントラルパークのストロベーリーフィールズにある「イマジン」のモザイクをバラの花びらで飾っている東洋人がいます。赤や白やピンクの花びらでそれはそれはきれいに縁取るのです。今朝は花びらとりんごで飾っているので、思わず話しかけてしまいました。もしかしたらと思っていましたが、やはり日本の若者でした。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが大好きな埼玉の青年でした。イマジンのモザイクを縁取っているたくさんのりんごは、ストロベーリーフィールズに住み着いているホームレスからもらったのだそうです。5月20日までニューヨークにいるそうです。
昨夜から18丁目のメトロポリタン・パビリオンでWFMUというラジオ局主催の中古レコード市が始まっています。この時期にぼくがニューヨークに来たかったのは、これに行きたかったからのようなもの。このレコード・フェアにはアメリカの東海岸中から何百もの中古レコード店が集まるのでとても貴重です。探しているレコードはたいていここで見つかります。たくさん買うと店にもよるけど半額ぐらいにまけてくれます。ここに来ていつも思うのは、こういう商売をしている人たちはみんなとてもいい顔をしていること。どこか知的でなんとなく子供っぽくて。あらゆる種類の音楽にここでは再会できるけど、ニューヨークの若者たちに人気があるのはやはりなかなかラジオでもかからないようなパンクやアバンギャルド。ロックは今でも最も創作力の高い音楽なのかもしれません。
というわけで今日は5時間もずっとレコードやCDばかり見て過ごしました。途中でトイレに行ったときにビデオの上映室で見たパブリックイメージリミティッドがよかった。集まっている人を見ているだけでも楽しいお祭りです。
友部正人
5月3日(月) ただいま
ニューアーク空港からコンチネンタル航空で帰ってきました。コンチネンタルは成田到着が午後1時すぎなので、横浜に帰ってきてもjまだすっきりしています。局止めにしてあった郵便物を中央郵便局に取りに行き、あさっての春一番の準備をします。
コンチネンタル航空はお酒のサービスがないので、わりと身体も元気です。本を読んでもとてもすんなりと頭に入ってきます。でも最後まで読んだらやっぱり一口お酒が欲しくなる。そんなときのためにちゃんとアイリッシュ・ウィスキーを小さな入れ物に入れてぼくは持ち歩いています。コンチネンタル航空はJFKからではなく、ニューヨークのすぐ隣のニュージャージー州のニューアーク空港が発着なので今まで敬遠していたのですが、頼んであったカーサービスでマンハッタンからたった15分で空港に着いてしまいました。マンハッタンの部屋から搭乗ゲートまで、JFKよりずっと近く快適な感じがしました。
ニューアーク空港で買った雑誌を読みながら、成田から横浜に向かうリムジンバスの中で眠ってしまいました。目が覚めたのは高速をみなとみらいで下りたとき。マンハッタンとあまり変わらない景色に「あれ、ここはどこなんだっけ」としばらく寝ぼけて、横浜に着いたとわかっても、歩いている若い女性たちのファッションがマンハッタンとうりふたつ。(どうもマンハッタンが日本の影響を受けているような気がしてしょうがないのだが。)ここまで近くなったんだなあと思いました。
友部正人
5月5日(水) 春一番
3日に帰国して、4日の午後にはもう大阪へ移動。春一番コンサートに出演するためです。
ぼくにとっては2年ぶりの春一番コンサートでした。春一番コンサートとしては再開後10回目になるのだそうです。大阪城野音で再開1回目があったのが10年前。そのときぼくは武川雅寛と二人で「私の踊り子」などをやったのでした。今年はぼくの新譜の発売と重なったので、武川くんと、ロケット・マツと「何かを思いつくのを待っている」の中の曲を中心に40分時間をもらって演奏しました。武川くんにとっては10年ぶりの春一番でした。
前日思いっきり雨が降ってくれたので、ぼくの出番の2時半頃には目をあけていられないくらいまばゆい日差しでした。朝9時に会場に行き、最初にサウンドチェックをやらせてもらい、その後1時間ぐらい楽屋の隣のリハーサル室で練習をしました。40分といってもせいぜい7曲です。選曲にはちょっと苦労しました。結局「シャンソン」と「チルチル、ミチル」を入れて、残り5曲を新曲にしました。「チルチル、ミチル」のときは拍手してくれる人もいて、みんなが知ってる曲もやってよかったと思いました。いつもは予定の時間より大幅に遅れて終る春一番ですが、今日はめずらしく早めに終ったようです。うっかりしていて、最後の山下洋輔さんと木村充輝さんの演奏を聞き逃しました。
会場では5月8日発売の新譜「何かを思いつくのを待っている」を先行発売していました。大阪での発売記念コンサートはぼくの気持ちではこの春一番だったのですが、5月16日にもう一度ロケット・マツと大阪でコンサートをします。ぼくの大好きなパン屋さん、楽童の20周年を記念するコンサートですが、スティールパンの奏者、山村さんもゲストに加えて、じっくりとたったぷり演奏する予定です。
通常のライブの後、アンケートなどに感想を書いてくれたり、友だちだと直接感想を聞かせてくれたりするのですが、やはり自分の耳で確かめるのが一番です。たいていは「それほどでもなかった」という自己評価になるのですが、今日は思ったよりよかったのが2曲ぐらいありました。演奏しているときは全部最高だと思っているのですから、後から聞かないのがいいのかもしれませんが。
最終の一つ前ののぞみに乗り、横浜に帰ってきました。ユミとロケット・マツはずっと喋っていたようですが、ぼくは弁当を食べるとすぐに眠ってしまいました。満員の車内のほとんどの人が眠っている連休最後の日の新幹線でした。
友部正人
5月13日(木) 発売記念ツアー
5月16日から「何かを思いつくのを待っている」を記念して、6月12日までツアーをします。今回はほとんどの場所にロケットマツか武川くんが同行してくれます。6月6日の吉祥寺スターパインズカフェだけ、横澤龍太郎も入ったレコーディングメンバー全員でのライブになります。少ない場所に限られたツアーですが、たくさんの人に聞いてもらいたいです。
新しいアルバムが出ると、古いのも聞いてみたくなります。夕べは「読みかけの本」を聞きました。山川ノリオプロデュースのこの1999年のアルバム、いい演奏がたくさん入っています。ユミは「ジェリー・ガルシアの死んだ日」と「小さな町で」がよかったそうです。それから、このころのバンバンバザールはよかったなあ、とも言ってました。ぼくは「月の光」と「永遠の光」がよかった。みんなさんも聞きなおしてみてはどうですか。
友部正人
5月17日(月) 楽童20周年コンサート
昨日は大阪の一心寺シアター倶楽で、吹田の楽童というパン屋さんの20周年を記念するコンサートがあり、ぼくとロケットマツは新しいアルバムの中の曲を中心に2時間ぐらい演奏しました。後半には、スティールパン奏者の山村誠一さんも「横顔」「イタリアの月」など5曲に参加してくれました。スティールパンの乾いた鉄板のような音は、「眠り姫」のようなおっとりした
曲にもよく合うのでした。とてもおもしろかった。アンコールの「夜になると」では楽童の松永さん夫妻もコーラスで参加してくれて、まるでお芝居のフィナーレのように盛り上がったのでした。
一心寺シアター倶楽は大阪の天王寺にあり、近鉄デパート裏の無国籍風居酒屋での打ち上げの後、ぼくとユミとマツは天王寺にあるホテルに泊まりました。昨日一日降った雨も今日は上がっていたので、3人で天王寺公園や新世界のあたりを散歩しました。おととし来たときにはあった公園の中のカラオケ屋台はもう全部撤去されていて、美術館周辺は工事中を装ってひっそりとしていました。動物園周辺のホームレスの屋根には大きく「NO WAR」のメッセージ。ホームレスの人たちを見ながら、「暇だったらみんなで太極拳でもしたらかっこいいのに」とユミ。
新世界のうどん屋でうどんを食べました。うどん屋には必ずおいなりさんやおにぎりがあって、うどんのだしとよく合います。うどんだけじゃ足りないので、いつもぼくはおいなりさんを食べます。久しぶりの新世界には、70年代にはあったZゲームや寄席の新世界花月はもうなくなっていました。春一番コンサートを天王寺の野音でやっていた70年代、新世界はどうしても歩かなくてはならない町でした。町の頭上を高速道路が走ったり、周辺の街の様子が大きく変わったせいで、新世界は小さくなってしまったみたいでした。天王寺駅のそばのスターバックスでコーヒーを飲み、お昼すぎのバスで伊丹空港に。また降り始めた雨の中に天王寺という生活感のある町を残して、バスは新世界から高速道路にのり、空港へと向かいました。
友部正人
5月19日(水) 西荻窪で取材
雨の西荻窪。前回ナモのお店バルタザールに行ったときも雨でした。西荻窪に行くときはいつも雨が降ります。前回は雲遊天下の連載で、ホビット村の八百屋のナモとの対談でした。今回は装苑という雑誌の取材をぼくが受けました。中央線の特集だからです。ぼくは中央線を離れて25年になるけど、ぼくのイメージはまだ中央線のようです。取材の間、スピーカーから『何かを思いつくのを待っている』がずっと小さくかかっていました。バルタザールでは毎日ぼくの新しいアルバムを営業中にかけてくれているそうです。
取材でぼくと話したのはBEAMSという会社の南馬越さん。世界中を飛び回るバイヤーだそうです。その南馬越さんがぼくに会いたいと思ったのは、ぼくの『一本道』が阿佐ヶ谷に住むきっかけになったからです。南馬越さんは阿佐ヶ谷に骨を埋めるそうです。取材は2時間で終わり、その後バルタザールで食事をしました。ぼくは飲みたい気分だったので、しその焼酎を飲みました。そらまめのてんぷらやヒヨコマメのハンバーグがおいしかったです。
取材陣とわかれて、ぼくとユミははじめて行くニヒル牛に。おもちゃの団地のようなお店でした。ぼくらの古い友だちの島田君が店番していました。
友部正人
5月21日〜23日 ロケットマツと沖縄へ行く
ピアノやアコーディオン担当のロケット・マツと二人で沖縄でライブをしてきました。
21日は石垣島のすけあくろ。いわゆるジャズ喫茶ですが、半地下にある空間がライブハウスになっています。すけあくろには今年で連続3年目です。今年は空梅雨だというのに、急に雨が降り始めました。去年のおおたか静流さんと来たときのことを思い出しました。雨のせいか、お客さんの数は今までより少なかった。石垣島で昔作った『海が降る』や、新しいアルバムの中の歌を2時間ぐらいやりました。
翌日は土砂降りの雨の中、御嶽と呼ばれる神社のような場所に、サキシマスオウノキという巨木を見に行きました。雨が降っている森の中のサキシマスオウノキは、大蛇のように今にも動き出しそうで怖くなるくらい迫力がありました。西表島にはこの木の群生している場所があるそうです。
22日は那覇のクラブDセットでライブ。旅行者のようなお客さんが多かったと誰かが言っていました。沖縄は外から来て住みついている人がとても多いところです。ツアー2日目で、ぼくもロケット・マツもとても調子が良かったです。井波緑さんがぼくたちの前に30分歌いました。
23日は沖縄ツアー最終日。場所はコザのモッズです。この日も井波緑さんが歌ってくれました。とてもまっすぐで気持ちのいい人。ぼくは声の調子がイマイチでしたが、演奏はバッチリでした。『シャンソン』や『愛はぼくのとっておきの色』のような早い曲が受けるみたいです。
お客さんで、自分で海に入ってとってきたというもずくを持ってきてくれた人がいて、ライブの後そのもずくで軽い打ち上げをしました。生きている髪の毛のようなもずくは、ミネラルのかたまりでとてもうまかった。
24日は東京に戻る日。ロケット・マツと朝の国際市場に行き、島らっきょうを買いました。マツは島らっきょうの匂いが心配だからと、100円ショップでタッパーを買ってそれに入れてもらっていました。何枚ものビニール袋に入れてくれたので、はじめは何の匂いもしなかったのに、羽田から横浜までの空港バスの中ではかすかに匂いがしていました。ここに島らっきょうがいるぞ、という感じ。後ろの女性がずっと鼻をタオルで覆っていたのが気になりました。たぶん島らっきょうのせいではないと思うけど。
友部正人
5月26日〜31日 北海道〜九州
今日からぼくとユミと武川くんの3人の、5泊6日の北海道、九州ツアーです。九州には東京に戻らずに直接札幌から入ります。どうしてこんなに飛び飛びのツアーを組んだかというと、5月25日がぼくの誕生日で、飛行機会社の誕生日割引のサービスが使えるからです。5月25日でぼくは54歳になりました。
さて、コザで痛めた喉がまだ回復していなくて、旭川ではちょっと苦労しました。演奏中はよかったのですが、打ち上げで声がでなくなって、ただ笑っているだけでした。遠くから懐かしい友だちが車で聞きに来てくれて、しかも今度のアルバムをとてもほめてくれたのでうれしくなりました。はじめてじゃないかな、彼にほめられるの。ライブをしたアーリータイムズの野澤さんは武川さんの大ファンで、ぼくも知らなかった武川くんのソロアルバムを聞かせてくれました。
翌27日の朝は最悪の喉のコンディションでした。前夜、札幌から迎えに来てくれた主催の木下さんの車で高速を使って札幌へ。札幌ドームのそばの人気のあるお店でラーメンを食べました。昨日の旭川でもおいしいラーメンを食べたのですが。札幌に着いてまずFMの番組に出ました。新しいアルバムから2、3曲かけてもらいました。パーソナリティの女性があらかじめアルバムを聞き込んでいてくれたのがとてもうれしかった。めったにないことです。リハーサルの後、中古レコード屋で「奇妙な果実」の入ったビリーホリディのレコードを見つけて買いました。「奇妙な果実」は2テイク入っています。
くうというライブハウスはこれで3回目です。板橋文夫さん、三宅伸治さん、武川さん、と3回とも誰かと来ています。ぼくが今読んでいるビリーホリディの自伝の話を打ち上げでしたら、お店のオーナーの山本さんがすぐにビリーホリディをかけてくれました。旭川から札幌までの車の中でミネラルウォーターを2リットル飲んだおかげで、喉はほぼ回復しました。
28日は札幌から福岡への移動。でも着いたら新聞社の取材が2つと、FMの番組が2つ、FMの方は武川くんにも出演してもらいました。二人だととても気が楽です。福岡でお会いした4人の方はみんなちゃんとアルバムを聞きこんでくれていて、またまた感激でした。このごろの日本は変わったのでしょうか。夜は長浜の屋台へ。「こんなにおいしいラーメンは食べたことがない」とぼくは思いました。
29日は小倉のフォークビレッジでライブ。リハーサル中に水戸のFM局から電話の取材が入りました。オーナーの小野さんとも初めてお会いしました。はじめに地元のトコロくんが歌いました。なかなかいいなと思います。ぼくたちの小倉の演奏もとても良かったような気がします。たぶんツアー3日目ということもあるのでしょう。武川くんのバイオリンをバックに、「ニューヨークの半熟卵」の中の一部分を朗読するという実験もやってみました。これがとても好評でした。「ニセブルース」が受けたのもうれしかった。打ち上げは鯛やひらめや蟹や蛸でした。こんなのもそうざらにはありません。
30日は博多の百年蔵でライブ。午後になって雨が激しく降り始めました。百年蔵は現役の酒蔵です。その中の一つの蔵がコンサートの会場です。足を踏み入れると日本酒の香りがぷーんとして、ひんやりとした長い時間を感じさせます。酒蔵とお寺は似ています。この夜のライブの一部はRKBテレビに収録されました。6月の下旬の深夜番組で1、2曲放映されるそうです。博多は焼き鳥屋が多い街です。武川くんお勧めの店が日曜で閉まっていたにもかかわらず、ぼくは焼き鳥に固執しました。福岡の友だちも交えて天神で焼き鳥を食べました。その後はあまり覚えていません。たぶん眠ってしまったのでしょう。
31日、目が覚めると別の自分になったみたいでした。体が動かないのです。焼き鳥屋で焼酎を飲みすぎたみたいです。激しく雨が降っていました。主催のBEAの森くんに見送られ、タクシーで空港へ。福岡空港の3階のレストランの数はすごいですね。あいにく食欲はまったくなかったけれど。
友部正人
6月3日(木) 6月6日に向けて
横浜に戻ったと同時に風邪をひいてしまい、今日もまだ咳き込んでいます。今日は午後からガンボスタジオで6日のリハーサルをしました。ロケットマツ、武川雅寛、横澤龍太郎というレコーディングメンバーです。6日は『何かをおもいつくのを待っている』をライブで再現します。
といっても、この4人でやるとどうしてもそうなってしまうのですが。龍太郎くんは「春一番に出たかったな」と言っていました。ぼくも「来てほしかったな」と答えました。春一番にはぼくとロケットマツと武川くんの3人で出たのです。あまりにも龍太郎くんの出番が少なすぎますよね。その分、6日にはおおいに演奏してもらおうと思います。この4人のメンバーで『何かをおもいつくのを待っている』を演奏するのは今のところ今度のスターパインズだけですから。
友部正人
6月6日(日) 吉祥寺スターパインズカフェ
吉祥寺スターパインズカフェ。今日でアルバム発売に合わせて予定していたレコーディングメンバーとのライブはほぼ終りました。後は、10日の水戸と11日の山形がソロで、12日の仙台が武川くんと二人です。いろいろと変則的な編成でライブをやってみましたが、今日全員ではじめてやってみて、今回のアルバムの中の曲には、ドラムスの龍太郎くんがいないとだめな曲がいくつかあるなあ、と思いました。特に『石がふくらむ町』についてはそう思います。このアルバムのメンバーはなかなかいいので、これからも思い出したように集まってはライブをやっていきたいです。あの町ならあそこでやりたいなあ、というのがぼくの頭に浮かんできます。酒蔵や民家、学校、小さなホール、青空の下、夜景のきれいなレストラン、りんご畑など。横浜なら海の上なんていうのもいいかもしれません。いろんな人と相談しながら散発的にこの4人のライブをこれからも実現して行こうと思います。
今日のライブにはエンジニアの吉野金次さんや、最近取材で親しくなった雑誌「装苑」のスタッフもみんなで聞きに来てくれました。それからマーガレットズロースの岡野くんは、彼らの新作ライブアルバムを持ってきてくれました。「穴」っていう歌がおもしろいと思いました。
ぼくの歌は都会から郊外に出たところです。歌が次の町に着くまで、窓の景色でも眺めていることにします。
友部正人
6月10日〜13日 3日間の東北ツアー
10日は水戸のガールトークでソロでライブをしました。大きなグランドピアノがあるガールトークは、主にジャズのライブをしているお店です。だからどことなくぼくが普段やっているライブハウスとは違う大人っぽい感じがします。大人ではなく大人っぽさだと言ったら、ガールトークの主人の笹ノ間さんは笑っていました。間に休憩を入れて二部構成にしたのは、そういうお店の雰囲気に合わせたのではなく、久しぶりでソロのライブをやる自分のためでした。一本調子になるのを避けるために、休憩を入れてみました。
11日も山形のストリートシャッフルでソロのライブでした。やはり休憩を入れ、2時間ぐらいやりました。お客さんは少なかったけど、アンコールの声は普段よりたくさんかかりました。みんな一人で聞いているような気分になっていたのかもしれません。2年前に山形に来たとき、熱があって調子が悪かったので、その挽回ができました。
12日は仙台のサテンドールで、この日だけ武川くんに東京から来てもらって二人で演奏しました。今回のアルバムの中の曲は、レコーディングメンバーが一人参加してくれるだけでだいぶアルバムの雰囲気に近くなります。『シャンソン』とか『長井さん』のような「あれからどのくらい」の中の曲も、武川くんのバイオリンがあるとだいぶ楽しくなりました。演奏後の打ち上げもサテンドールでしました。新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダなど、とてもおいしい料理をたくさん食べました。
13日は仙台のデイト・エフエムの三浦マサヨシさんの番組に出ました。オンエアされるのは7月6日と8月3日です。
今回は古本カフェ、火星の庭の前野さんが風邪でライブに来られなかったし、火星の庭が好きなので仙台には必ず来ていたユミも雑誌の仕事で来られませんでした。朝、武川くんが東京に帰り、火星の庭の開店時間まで一人でブラブラしていたら、高田渡が歌ってる『ブラザー軒』を偶然見つけました。まだ11時前でお店は開いてなかったけど、ガラス越しに中を覗いてきました。この次仙台に行ったら入ってみるつもりです。では。
友部正人
6月16日(水) 対談のこと
時間が前後しますが、6月7日に寺岡呼人くんと二人で対談をしました。ホームページに載る記事だと聞いていたので、呼人くんが自分でテープレコーダーか何かを操作しながら対談するのかと思っていたら、対談を記事に起こす女性やカメラマンの男性など何名かのスタッフが一緒でちょっとびっくりしましたが、対談の内容は思い出話のようなプライベートなものでした。ぼくがデビューしたころに体験したびっくりするようなことや、ぼくの新しいアルバムのことなども話しています。彼の故郷の福山やその隣町の尾道を、彼のお母さんに案内してもらったことは今でもとても心に残っています。尾道の漁師の住む団地や古い床屋、駅裏の質屋でぼくが買ったキャノンのズームレンズ、古い喫茶店、どこへもたどり着かない迷路のような町でした。
今このときの対談が4回に分けて掲載されてます。読んでみてください。 music club on line
友部正人
6月17日(木) 明日からニューヨーク
明日ニューヨークに発ちます。一ヶ月間日本を留守にします。5月はじめに戻って来たから約1ヶ月半ぶりです。今回はいくつかアパートの修理をしなくてはなりません。人に頼まなくてはならないことは億劫なことです。
ニューヨークに行く前にユミが見たいというので、ぼくも昨日は久しぶりに東横線に乗って恵比寿まで、奈良原一高の写真展を見に行きました。ユミは昔から奈良原一高のファンです。生の裏側にある死と、死と共存する生のあふれるようなエロティシズム、上品な表現主義とでもいうのでしょうか。独特の世界でした。ぼくはアメリカを撮ったシリーズものがとても感じました。アメリカ大陸のような自然の中で生きていたら、人間はみんな宇宙人になってしまいます。好きで撮り続けたヴェネチアの極めつけが夜の街だったというのも、とてもよくわかるような気がします。ぼくは行ったことのない街だけど、ヨーロッパは夜がどこか未来的です。
雑誌「装苑」の7月号に奈良原一高のファッション雑誌のために撮った写真が特集されています。これを見ても、大胆な思いつきを元にして写真を制作しているのがわかります。6月28日に発売される「装苑」には、2ページの南馬越さんとぼくの対談が載っています。その前日あたりから、東横線などでは車内広告も見られるそうです。
横浜でもコンサートをしようと前から会場を探していたのですが、とてもいい場所が見つかりました。いつどのようにやるかはまだ未定なのですが、築75年ぐらいの古いビルです。同じような港町である横浜とニューヨークをつなげるような活動をしていきたいです。今日下見のつもりででかけたのですが、そこで偶然金子マリや北京一に会いました。約束して会ったことはまだないのに、偶然にはあちこちでよく会うこの二人なのです。おかしいね。
友部正人
6月20日(日) キッズレース
今年の11月にあるニューヨークシティマラソンの抽選にはずれてしまいました。3年連続当たりだったので信じられないような気持ちです。比嘉良治さんから今日セントラルパークで5マイルのレースがあるよ、とメールがきたので、鬱憤晴らしもかねて比嘉さんの応援にユミとでかけました。お腹丸出しのウエアで真剣に走る比嘉さんはとても60歳を過ぎているとは思えません。
5マイルレースの後、キッズレースというのがあって、これがおもしろかった。2歳児は約50メートル、3歳児、4歳児は90メートル、5歳児は180メートルというレースで、まだほとんどちゃんと前には走れない2歳児、3歳児は井の頭公園のモルモットを思い出しました。これはきっと大うけ間違いないので、ショウとして各地を巡業すればいいのにと思いました。
友部正人
6月22日(火) カサンドラ・ウィルソン
久しぶりにコンサートに行きました。ブルーノートのカサンドラ・ウィルソンのライブです。ギター、ハーモニカ、パーカッション、ウッドベースという編成で、バンドのメンバーのうち二人はドレッドヘアでした。カサンドラ・ウィルソンの髪もそうなのかもしれません。『レイ・レディ・レイ』や『恋の終列車』など、知っている曲も何曲かありました。演奏アレンジは全く違いますが。まだ若い人だと思うけど、力のぬけたリラックスした演奏は聞いていても楽しくなります。少し前のアルバムの中の『カモン・イン・マイ・キッチン』や『奇妙な果実』は秀逸です。今日のライブでは演奏しませんでしたが。
地下鉄シェリダンスクエアー駅から帰ろうとしたら閉まっていて、近くのW4th駅まで歩いて地下鉄に乗ったのですが、乗り換えの59丁目駅のホームでセネガルの人が民族楽器を弾きながら歌っていて、とてもよかった。セネガルの大スター、ユッス・ンドゥールと歌い方が良く似ていました。いつもの駅から地下鉄に乗っていたら、素通りして聞けないところでした。
友部正人
月23日(水) ロン・セクスミス
ブロードウェイの23丁目にある小さな公園、マディソンスクエアパークで、ロン・セクスミスのフリーコンサートがありました。ベース、ドラムス、ギターという自分のバンドと1時間半たっぷりと歌いました。新しい「レトリバー」というアルバムからの曲が中心でしたが、1枚目、2枚目のころの曲もやっていました。彼の曲は悲しげなメロディと淋しげな詩が特徴ですが、がんばってロックもやってみた、そしたらその中の一曲がカナダでヒットチャートに入った、と言っていました。はじめてだそうです。アメリカでもヒットするといいのに、と言っていたけど、あまり特徴のない感じの曲でした。ちょっとダンス音楽のような。
でも今彼はとても前向きになっているのか、終った後CDを買ってくれた人にサインをしています。ぼくがCDにサインをしてもらっているとき、ユミが写真をとってもいいか、とロンにたずねると、一緒に写りましょう、と言って立ち上がりました。並んでみて、とても背の高い男だとわかりました。あまりのサービス精神に驚いて、ユミはその場にショールを落としてきてしまったようです。もう一度戻り、後片付けをしていたスタッフの人たちに聞いたけど、見つかりませんでした。
友部正人
6月24日(木) 文藝春秋とアミリ・バラカ
8月号の文藝春秋に10行の詩を書きました。新しいアルバムが出たので、と編集の方が言っていました。毎月1人ずついろんな詩人が10行の詩を書いています。7月8日発売です。
セントラルパークのサマーステージで、イーストビレッジにあるニューヨリカン・ポエッツ・カフェの30周年記念イベントがあって、アミリ・バラカがゲスト出演しました。「ニューヨークの半熟卵」にも出てきますが、ニューヨリカン・ポエッツ・カフェでは毎週ポエトリースラムという詩の朗読のコンテストみたいなものがあって、客席から審査員をつのって採点します。ぼくとユミははじめて行ったとき、審査員をやらされました。その後、谷川俊太郎さんと谷川賢作くんもここでライブをしたそうです。日本からわざわざ来て参加する積極的な人たちもいます。
創始者のミゲル・アルガリンさんはプエルトリコ人で、詩の中にはスペイン語が頻繁に出てきます。ニューヨークにはプエルトリコ人がたくさん暮らしています。アメリカ合衆国と同等ではないけど、一部のようになっています。そんなプエルトリコの人たちに、ミゲルさんは詩で訴えかけます。「我々はちゃんと存在している」のだと。戦争に駆り出されたり、労働力としてアメリカに暮らしているけど、プエルトリコは一人一人が生きていればなくならない、というような内容だったと思います。重い内容でも笑顔でわかりやすく朗読するので共感を得ていました。
アミリ・バラカは老人でした。背は低くやせているけど、とても活発で素早い老人でした。大きな声で自作の詩をまくしたてます。歌うような感じがトム・ウェイツの朗読によく似ています。もしかしたら、トム・ウェイツは影響を受けているかも。観客はみんなこの人を聞きに来たかのようにしーんとしています。観客に向かって、というより、自分が紙切れに殴り書きした詩に向かって朗読しているみたいでした。自分の大きな世界に揺られていました。しきりに出てくるジャズミュージシャンの名前。ラングストンヒューズもそうだけど、黒人の文学と音楽はとても密接です。言葉を楽器の音のように吐き出しながらジャズを演奏しているみたいなので、トム・ウェイツを思い出したのかもしれません。
友部正人
6月25日(金) グッゲンハイム美術館
夕方から大雨。小降りになるのを待ってグッゲンハイム美術館に、ブランクーシの展覧会を見に行きました。ぼくはブランクーシのことはイサム・ノグチの伝記ではじめて知ったのだけど、イサム・ノグチの作品でブランクーシに酷似しているものがあり、いかに強く影響を受けたのかがよくわかりました。人体や顔をものすごく簡略化したブランクーシの彫刻はさわやかでとても美しく、どこか赤ちゃんの寝顔のようでした。
ブランクーシと同時に「手」をテーマにした写真の展覧会もやっていて、これもまた見ごたえのある内容でした。ジェフ・ウォールとかシンディ・シャーマンとか、現代の写真家だけではなく、ブラッサイやマン・レイなど歴史になっている写真家たちの写真もたくさんあって、考えてみれば人を写した写真にはたいてい手が写っているので、選択肢の広い展覧会だったわけです。
夜になっても雨はおさまらず、雨にぬれた夜の街はモノクロの写真のようでした。
友部正人
6月26日(土) プロスペクトパーク
カナダのシンガーソングライターたちが集まってニール・ヤングの歌を歌うコンサートがブルックリンのプロスペクトパークでありました。プロデュースしたのはハル・ウィルナーという音楽家で、ぼくの持っているアルバムではクルトワイルの曲をいろんなアーティストが歌っているのと、ニーノ・ロータの曲を演奏しているものがあります。去年はレナード・コーエンを特集してやっていたので、来年はジョニ・ミッチェルかなとぼくは予想しています。
1時間ぐらい遅れて行ったのですが、セントラルパークのサマーステージより大きな野外音楽堂は超満員で、外側の芝生にもすわる場所がないくらいでした。ぼくが知ってるミュージシャンはロン・セクスミスだけでしたが、入れ替わり立ち代りいろんなミュージシャンが出てきて1曲ずつニール・ヤングの歌を歌います。プログラムには名前が出ていても、紹介がないので誰なのか全くわかりません。あくまでもメインはハル・ウィルナーがアレンジしたニール・ヤングの曲なのです。終ったら11時でした。ブルックリンの静かな住宅街を地下鉄の駅までえんえんと歩いて帰りました。子供たちが集まって何かを話していたりとか、マンハッタンとは雰囲気のちがう暮らしやすそうな街です。
友部正人
6月27日(日) ゲイパレード
今日は街中でいろんなお祭りをやっていて、ぼくたちのアパートのすぐ前でもアイリッシュ音楽とブルースのストリートフェスティバルがあるっていうので見に行きました。植木のお祭りなのですが、いろんなエスニック料理を買い食いして歩くのが楽しいです。ステージのまわりにはあまり人が集まっていなくて、期待はずれでした。でも中古レコード屋が2軒来ていて、ロケット・マツお勧めのダラー・ブランドの「アフリカン・マーケットプレイス」を見つけました。
今日最大のお祭りは、今年で35年目になるというゲイ・プライドです。今年はマサチューセッツ州でアメリカではじめて同性婚ができるようになって、そのお祝いのような盛大なパレードでした。約100万人が大学や会社や教会などのグループで五番街をダウンタウンのクリストファーストリートまでパレードします。午後2時から始まったパレードがやっと終ったのは夕方5時ごろでした。感動的だったのは最近できたゲイの公立高校、ハーベイミルクスクールの生徒たち。全身で生きている喜びを表現していてとてもすばらしかった。それから教会関係のグループが非常に多いのも目立ちました。サド・マゾのグループなんていうのもあって、鎖でつながれたりして堂々と歩いていました。毎年この時期にニューヨークにいるせいか、どうしても毎回見てしまうゲイパレードです。
友部正人
6月28日(月) ユッス・ンドゥール
今夜は11時半からアスタープレイスにあるジョーズパブで、セネガルのユッス・ンドゥールのライブがありました。売り切れだったので一度断られたのですが、関係者らしい民族衣装を着た人が裏口から中に入れてくれました。チケットはちゃんと買わされたのですが。そしたら楽屋の前にユッス・ンドゥールがいて、ファンの人たちと記念写真を撮っていました。
ジョーズパブはそんなに大きくはないライブハウスです。すぐ目の前にユッス・ンドゥールがいて、終始にこにこしながら歌っていました。ベースがなくて、ギターが2本とトーキングドラムとパーカッションと女の人のコーラスという編成です。ギターがリズムの要という感じで、踊りたいような気持ちになってきます。アフリカの音楽にはとても親近感を覚えます。もしかしたら昔、日本とアフリカはつながっていたのかもしれません。とても共感できる音楽です。
ユッス・ンドゥールは去年、イラク戦争に反対してアメリカのツアーをキャンセルしました。今夜の彼はそんなことにはふれず、とても陽気にみんなが一緒に歌える曲をやっていました。しきりに「ピース」と言っていましたが。ユッス・ンドゥールの「エジプト」という最近のアルバムは全部宗教的な歌ばかりですが、いろんな考えの人たちが対等に暮らすことを歌ったきれいな曲があります。現代詩手帖の「ジュークボックスに住む詩人」でそのうち取り上げるかもしれません。
友部正人
6月30日(水) デイブ・バン・ロンク・ストリート
グリニッジビレッジのシェリダン・スクエアという通りの一部が、今日からデイブ・バン・ロンク・ストリートに名前が変わります。今日は夕方からそのセレモニーがあって、奥さんのアンドレアやフランク・クリスチャンに会ってきました。遅刻してセレモニーには参加できなかったけど、後で聞いたら、数人の人が挨拶をして、ブラスバンドがニューオーリンズジャズを演奏したそうです。デイブの住んでいたアパートの前には、真新しい「デイブ・バン・ロンク・ストリート」と書かれた標識が立っていました。1年前に、いろんな人の証言を集めた本が出ると聞いていたけど、はたしてもう出ているのでしょうか。表面的にはぶすっとして見えるけど、ディブにはいろいろとおもしろいエピソードがたくさんあるみたいです。ライブ盤が出るそうですが、それは聞いてみたいと思います。
久しぶりにフランクに会ったので、近くのケトル・オブ・フィッシュにビールを飲みに行きました。もう3年半もアパートの家賃の値上げことで大家と裁判をしているフランク、そろそろ追い出されるかな、と言っていました。「夢がかなう10月」からもう8年がたちます。来年はフランクと日本をツアーしてみたいものです。セレモニーで見かけたオデッタもケトル・オブ・フッシュに来ていて、
帰ろうとしているところを呼び止めて話しかけました。年をとってだいぶやせてしまったけど、声は昔のままでした。「一つのことをずっと続けてきた人はきれいだね」と後でユミが言っていました。
友部正人
7月7日(水)沖縄
7月3日から今日まで、日本に戻っていました。7月5日と6日に沖縄で、NHKBSの井上陽水の特番の撮影があったためです。日本には3泊しただけです。この番組にはぼくの他に、小室等さん、高田渡さん、加川良さん、三上寛さんが出ています。なんだか70年代のはじめの、陽水も含めた九州ツアーを思い出すメンバーですが、この番組のタイトルも「同窓会」です。どうも1972年の春のこのときのツアーは、陽水の中でも強く残っているようです。8月5日にNHKBSで90分番組として放送されるそうです。
そしてまたニューヨークに帰って来ました。時差で睡眠時間がぐちゃぐちゃになっています。座るとすぐに熟睡しているという状態です。今日は着いてすぐに、ハドソン・リバー・パークに、ゴスペルのアカペラの人たちのライブを聞きに行きました。ちょうどニューヨークのメグのところに遊びに来ているシバも一緒です。それからサキソフォン吹きのマサも一緒でした。元ザ・バンドのガース・ハドソンがオルガンを弾いていました。本当はレボン・ヘルムも来るはずだったようですが、天候の都合でウッドストックからは来られなかったようです。残念。終了後、ガース・ハドソンと話すチャンスがあったのに、ぼくたちはただ「よかったよ」と言うだけで、自分たちがミュージシャンで、いつか一緒にやろうね、とは言えなかったのです。残念。
友部正人
7月11日(日) トーマス・マプフーモ
今日は朝5時に起きて、ブロンクスのベッドフォード公園に。ブロンクスハーフマラソンを走ってきました。といっても今日は暑くて、とても気持ちよく走れる感じではなかったです。最初のノロノロが結局最後まで続いてしまいました。でも自分のライブがよくなかったときと違って、タイムが良くなくても後で苦になりません。足の疲労以外何も残らないのが不思議です。
その後セントラルパークにジンバブエのトーマス・マプフーモのライブを聞きに行きました。野外のフリーコンサートです。炎天下なのに大勢の人が集まってきました。アフリカ系の人が多いのが特徴でした。ぼくがとてもいい、と言ったら、メグたちやマサたちも聞きに集まってきました。ぼくは何年か前に、ニューヨークのライブハウスで聞いたことがあったのです。
今年のニューヨークでは、スカートが満開です。短いのや涼しそうなのがひらひらと、とてもぼくの目を引きます。そんな満開の会場ですが、トーマス・マプフーモとブラック・リミテッドはやはり素晴らしかった。アフリカの音楽は部屋の中を飛ぶハエのような音楽です。ステージの二人のかわいらしいダンシング・シスターズ、細かいハエの羽根の動きに合わせて踊るのですから、なかなか真似はできません。はえたたきを握るのはトーマス・マプフーモです。トーマス・マプフーモの音楽には、文字のようにきちんとした画数があります。その画数に沿って音楽が自由に演奏されていきます。その画数は言葉の役目も果たしているようです。たくさんの音の軽快な組み合わせが言葉になっています。みんな音の言葉に酔っているのです。
今日は朝から一日中外にいて、夕方までずっと簡易トイレのお世話になりました。
友部正人
7月13日(火) 華氏9/11とスーパー・サイズ・ミー
マイケル・ムーアの「華氏9/11」を見てきました。封切られて何週間かたつのに、まだ満員でした。噂通り、ありものの映像を編集したような映画でしたが、ドキュメンタリーだからといって、自分の映像だけを駆使しなくてはならないということはないと思います。つぎはぎだらけなのが、漫画的でかえって効果的かもしれません。言いたいことを言うための、遊びのない遊びという感じがします。
マイケル・ムーアの疑問はとても基本的な疑問ばかりです。アメリカを一度も攻めたことのない国をどうして攻めるのか。戦争に行きたくない奴がどうして戦争を起こすのか。豊かだった国を破壊しつくして、軍隊が撤退したらビジネスマンを送り込む。自分の国でやれば無駄な道路だとか建築だとかいわれるけれど、イラクなら再建という大義名分がある。「戦争は悪いことだけど、ビジネスにとっては最高さ」と誰かの言葉。そんな金持ちたちの野望に巻き込まれてイラクに送られる失業中の若者たち。一握りの人たちの欲望が起こした戦争なのでした。
その数日前には、「スーパーサイズ・ミー」というドキュメンタリー映画を見に行きました。マクドナルドのハンバーガーやポテトフライを一日三食、まる一ヶ月間食べ続けるとどうなるか、ということを監督自ら人体実験した映画です。聞いただけでもおもしろそうな映画なのに、沖縄帰りの時差のせいか、ぼくははじまってすぐに眠ってしまい、ほとんど見られませんでした。その分ユミがぼくの分も楽しんだようです。映画としてはマイケル・ムーアよりこちらの方がユニークでおもしろいということでした。アメリカの肥満問題はとても深刻です。ぼくもときどきは目を覚ましたので、断片的には覚えていますが、もう一度ちゃんと見直すべきでしょう。
友部正人
7月14日(水)ジョニー・ウィンター
B.B.キング・カフェにジョニー・ウィンターのライブを聞きに行きました。1000人ぐらい入るライブハウスは満員で、ぼくはバーのところに立って聞きました。トカゲのようなしつこいイメージのあったジュニー・ウィンターですが、年をとって枯れて、いい味のブルースギターリストになっていました。バックのテンポより遅れてギターを弾き、歌もバンドのメンバーと交代に歌っていました。声量がないのか声がよく聞き取れず、ちょっと残念でした。ぼくの横で大騒ぎしている酔っ払いの若者たちがいて、聞こえなかったのはそいつらのせいかもしれません。注意をしようとしたいかつい男と喧嘩になりそうでした。そういう物騒な雰囲気はどちらかというと客席の方にありました。ジョニー・ウィンターはステージでただ淡々とブルースを歌います。ジョニー・ウィンターは14歳のときにマディ・ウォーターズをはじめて聞いて、いつか一緒にステージで演奏しようと思ったのだそうです。だから後にマディ・ウォーターズから息子と呼ばれるようになりました。こわもての男たちが熱い眼差しを送るジョニー・ウィンターは、特殊な世界のヒーローという感じがします。
友部正人
7月15日(木) ティファニーで朝食を
アパートのすぐ近所の、ハドソン川にあるちょっとこぎれいな突堤で、映画の上映会がありました。上映されたのは「ティファニーで朝食を」でした。
8時からと書いてあったのに、7時半ごろ行ってみるとまだ何の準備もできていません。集まっている人もまだ10人ぐらいでしたが、明らかに映画を見に来ている人たちなので、ぼくとユミも積み上げてあった椅子を勝手に下ろして、一番前で始まりを待つことにしました。今日は肌寒いし、風が強くて、しかもハドソン川に突き出した突堤の上なので、髪の毛も空に向かって逆立つほどです。係員たちが根気強く、空気を入れてふくらませるスクリーンを突堤の先に立たせようとしているけど、そんな風のせいで何回やっても失敗してしまいます。誰が見ても「今日は中止かな」という感じなのに、9時をすぎてあたりがやっと真っ暗になったころ、風船みたいなスクリーンはなんとか対岸のニュージャージーの町の明かりを背にして立つことができました。気がつくといつのまにか、観客は何百人にも膨れ上がっています。こういう小さな催しにも積極的に参加するのが日本とはちがうところ。
ぼくはもう何回も見たことのある映画だけど、捨てられたキャットがゴミ箱のすきまから出てくるシーンではやはり感動してしまう。まあ、それだけって感じもしますが。「本当は主人公のホリーはどこかに行ってしまってもどらないのにね」と、カポーティの原作を読んだことのあるユミはちょっと不満そうです。でもまあ、そんな映画の内容よりは、突堤の先にいて星空を見ながら映画を見るっていうのがすてきでした。ぼくたちの背後からはエンパイアステートビルも覗き込んでいて、マンハッタンにいるなあ、という感じ。途中寒くて何度も帰ろうかと思ったけど、二人で毛布にくるまって我慢して、見終ったのは11時半でした。
友部正人
7月17日(土) 帰ってきました。
暑い暑い横浜に戻って来ました。戻って来たら郵便がたくさんたまっていて、その中にはぼくが原稿を書いたりユミが写真を載せたりしている何冊かの雑誌もあります。まず、ぼくとユミが2ページを受け持ったKOKOCHINOは沖縄特集で、この時期沖縄特集は多いのですが、少し視線をはずしていて引き込まれました。ぼくのページはなぜかニューヨークなのですが。
現代詩手帖の「ジュークボックスに住む詩人」は高知のシンガーソングライター、矢野絢子さんの「てろてろ」を取り上げています。文藝春秋は文芸誌かと思ったらちがうのですね。10行だけの詩を書きました。装苑は中央線や東京の特集で、ずっしりと重みのある内容でした。これはニューヨークにも送ってくれたので、もっと早く手にしていたのですが。
東京の友だちからの便りだと雨がなかったというのに、新潟や福島やインドでは大雨で洪水らしいです。暑いとなぜかノートでも開いて、何か書いてみたくなります。たぶん動きたくないからかもしれません。
友部正人
7月25日(日) 三宅伸治とのツアー
三宅伸治くんとの二日間のツアーから帰って来たところです。
23日は朝10時に三鷹駅で三宅くんたちと待ち合わせ、三宅君のローディーの沼くんの運転で長野まで行きました。途中甲府のハーパーズミルに寄り、坂田くんに修理を頼んであったB25を受け取りました。ニューヨークでひびが入ったところを直してもらったのです。きれいに掃除もしてくれてました。
今日は長野市のライブハウスJで。ぼくにとってははじめてのJでした。ステージの真後ろが搬入口になっていて、とても機能的なつくりです。搬入口はステージの幅いっぱいに開くので、お芝居なら背景として使えそうです。いつもの曲目に新曲もあって、全体で2時間20分ぐらいのステージでした。
24日は再び沼くんの運転で山梨県の都留市まで。長野、都留間を沼くんはたった2時間で運転しました。高速道路の電光掲示板に表示されていた半分の時間で着いてしまいました。
ライブをしたのはテコロッテという広々としたレストラン。100人近い人が聞きに来てくれました。ぼくも三宅君も前に一回ずつ、それぞれソロでライブをしたことがあります。とても元気のいい兄妹で経営しています。最近は地下に、週末だけ営業するバーもはじめたそうです。1、2曲入れ替えただけで、昨日とだいたい同じ曲目です。ぼくと三宅くんが歌う前に、主催者の高部君も歌いました。ぼくと三宅君のカバーを一曲ずつ歌ったりしてサービス精神も満点。
2時ごろまで打ち上げをして、三宅くんと沼くんは車で東京に戻り、ぼくは都留に泊まりました。
友部正人
7月28日(水) NRBQ
アメリカのボブ・ディランフリークのJoeがわざわざ日本にTシャツを送ってくれたけど、何のことかわからなくてメールで質問したら「『ハイウェイ61』のジャケットでボブ・ディランが着てるTシャツだよ」とがっかりされてしまったみたいだ。当然そんなことはすぐにピンとくるはずだと思っていたようだ。さっそくCDのジャケットを調べてみた。同じTシャツだった。とたんにうれしくなって、Largeサイズだけど家の中で着ている。
昨夜サムズアップに電話したら、ちょうどバンバンバザールがライブ盤の発売記念ライブをしているところでした。サムズアップで録音されたもので、「夜よ、明けるな」も入っています。ライブは終りかけだったので聴きに行けなくて残念でした。
ぼくとユミは今夜そのサムズアップに、アメリカからやってきたNRBQのライブを聞きに行ってきました。1時間ちょっとの短いライブでしたが楽しかった。前からライブを見たいと思っていたので、横浜まで来てくれてうれしかった。ニューヨークではまだライブを見たことはありません。家に帰ってから、NRBQのCDをかけて聞いていました。「ビューティフル・サンデー」の入っているアルバムです。狂人のようなキーボード奏者と眠そうなドラマー、おだやかな顔つきのベーシスト、物静かなギターリスト、この四人からなるNRBQの型にはまらないライブ演奏はおもしろいので見た方がいいです。
友部正人
8月2日(月) 奥村憲司さん
今年はじめての花火を昨日横浜のみなとみらいで見ました。横浜は花火大会の多いところ
だけど、今年はまだ見ていなかったのです。7月4日のアメリカの独立記念日の花火も、ぼくは沖縄に行っていて見られず、ユミだけニューヨークの友だちと見に行ったのでした。年中戦争をしているアメリカの花火は、どうしても爆弾や戦闘シーンを思い出させます。
昨夜横浜で見た花火には、そういう戦争のイメージはありませんでした。日本はまだ戦争から遠くにいるんだなあ、と感じました。花火が始まったころにはまだ水平線の上にあった月が、花火の音につられてゆっくりと昇っていくのがわかりました。花火の打ち上げられる速度よりはうんと遅いのに、月が競争をしているように見えてしまうのです。昨日は一時間前に行ったのにもうすわる場所もないほど人でびっしりでした。数年前まではこんなことはなかったのに。ほんの1時間の花火大会に100万人近くの人が集まるだなんてすごい。
ぼくたちが花火を見ていた昨日の未明、滋賀県のホスピスに入院していたイシオカ書店の店長、奥村憲司さんが亡くなったことを、今日知りました。今年の夏は暑く、よく奥村さんのことが頭をよぎりました。この暑さを乗り切れるかと気がかりだったのだと思います。奥村さんとは四月にメールを交換したのが最後でした。そのときぼくはニューヨークにいて、奥村さんは入院先から携帯メールを送ってくれました。「読書三昧の毎日です」と、ちょっと退屈そうでした。奥村さんの訃報を聞いて、イシオカ書店のホームページを見たら、7月18日に近江八幡の酒游館のライブに出演して歌ったそうです。「それまではまだ元気だったんだなあ」と知りました。ライブの前も、病室でギターを弾いて練習していたそうです。毎年近江八幡でライブを主催してもらってきたけど、ぼくはまだ一度も奥村さんの歌を聞いたことがありません。自作の曲を作って歌っていたことも知りませんでした。ぼくも奥村さんの歌を聞きたかったと思いました。
奥村さんほどお酒と料理を楽しむ人はいませんでした。毎年来ていた春一番に今年は入院していて来られませんでしたが、奥村さんのいない服部緑地の芝生はなんとなくさびしいものでした。歌と本の好きないい酔っ払いでした。
友部正人
8月8日(日)福山、広島、そして葉山
8月5日から7日まで、修理してもらったばかりのギブソンB25を持って福山、広島でライブをしてきました。
5日は福山のポレポレ。毎年来ています。リハーサルが終ってコーヒーを飲んでると、マスターのゆうさんがどんとのCDをかけはじめました。8月5日はどんとの誕生日だったのです。どんともこのポレポレが大好きでした。それでどんととの共作「かわりにおれは目をとじてるよ」をやることにしたのです。ゆうさんにはコンガをたたいてもらうことにしました。「夜になると」では曲の最後のコーラスの部分を客席の人たちが勝手に歌いはじめました。これは予測していなかったのでとてもうれしかった。全国的にこうなってくれるとうれしいのだけど。
6日はオフ。テレビで原爆死没者の慰霊祭を見てからゆっくりと広島へ。広島の日差しはとても強く、焼け付くようでした。だから夕方までホテルで昼寝して、涼しくなってから平和記念公園に灯篭流しを見に行きました。6時から9時までの3時間に1万以上の灯篭が流されたそうです。600円で誰もがメッセージをつけて流せます。灯篭の色は赤、白、黄色、青、緑。中には自分の家で作ってきた、蓮の形をした特別製の灯篭を流している親子もいて、子供は自分の灯篭をどこまでも追いかけて行きました。7時半ごろになって日が暮れると、灯篭の紙の色はなくなって、中に点っていた蝋燭の灯りだけになります。流れていく蝋燭の灯りはなくなった人の魂のようでした。
その後、オーティス恒例の爆心地ライブを聞きに行きました。主役は遠藤ミチロウです。6組の出演者がいたのですが、ぼくは後半だけ聞きました。ミチロウは病気をしてだいぶやせてしまい、体重が元にもどらないとなげいていました。下品でおかしい語りの曲が現代的に思えました。オーティスの主人、佐伯さんたちのバンドもよかった。その前にやったネイティブ・アメリカンの人の歌と、佐伯さんたちの演奏するアイヌの音楽には共通点がありそうでした。終了後、8歳のときに爆心地のすぐ近くで被爆したという有重さんという67歳の「おじさん」から、「昨日NHKのBSに出てた人だね」と話しかけられました。ぼくの歌のことは知らなかったそうです。知らなくても興味があるといろんなコンサートに足を運ぶというおもしろい「おじさん」でした。
そして7日はぼくがオーティスでライブをしました。ひさしぶりに「遠来」や「夕暮れ」を歌いました。というのは、8月の広島の夕暮れはもやっとしていてとても美しかったから。たぶん昼と夜の温度差が大きいからだと思います。今まで9月のはじめにライブをしてきたけど、来年はまた8月にしようかなと思いました。
朝の飛行機で横浜に戻り、そのままガンボスタジオの川瀬さんの車でユミと3人で葉山へ。一色海岸の「UMIGOYA」でライブでした。日曜日の葉山は道路が混むに違いないと思って早めに出発したのに、横浜から45分で着いてしまい、暑い砂浜にある海の家「UMIGOYA」で時間をもてあましてしまいました。武川くんや横澤くんも早く着いてしまい、ただぼんやりと時間をつぶしました。(横澤龍太郎はちゃんと水着を持ってきて海に入っていました。)
演奏は7時になってから。それまでずっと中空でうるさかったヘリコプターが、暗くなって演奏が始まるころひきあげていきました。そのヘリコプターは一人の遭難したダイバーを探していたそうなので、暗くなって帰ったということはあきらめたということなのでしょうか。宣伝期間が短かったにもかかわらず、わりと大勢聞きに来てくれました。
1部7曲、2部6曲、アンコール1曲でした。チップを集めるプラスチックの大きなボウルからは
カランカランと小銭の音がしていました。こういう投げ銭ライブは初めてのことです。武川くん、龍太郎くんと演奏するのは2ヶ月ぶりなのに、時間のギャップはありませんでした。この人たちは誰の曲でも自分の曲として演奏できる人たちなのだと思います。どうもぼくはそういうミュージシャンが好きみたいです。はじめての海の家でのライブ、終った後の海風の心地よさは、今夜のぼくたちのライブを代弁しているようでした。
友部正人
8月12日(木) 寿町フリーコンサート
横浜の寿町のフリーコンサートに3年ぶりに出演しました。今年はマーガレットズロースと一緒でした。寿町でのフリーコンサートは今年で26回目だそうです。12日から15日までの夏祭りの一環として行われています。労働者がたくさん暮らす町寿町は普段から生き物がいる気配が濃厚な場所です。そこに町の外から若い音楽ファンが集まるのですから、寿町のコンサートはいつも異常な熱気に包まれます。演奏するぼくたちにとっては、それがたまらない魅力です。
まずマーガレットズロースが25分やって、それからぼくとマーガレットズロースでぼくの曲を25分やりました。もらった時間は50分だったのですが、最後の「遠来」の途中でその時間をオーバーしていたようです。もう一曲用意してあった「パンツの歌」は結局演奏できませんでした。ぼくはたった5曲でしたが、マーガレットズロースとの演奏のスタイルがだんだんはっきりしてきて、とても充実した5曲でした。
友部正人
8月14日(土) 後藤克芳展覧会
本当は今日あたり、涼しい山形県に行っているはずでした。山形県の米沢市上杉博物館で、ぼくとユミがニューヨークでお世話になった後藤克芳さんの初の回顧展が開かれているからです。後藤さんは4年前にニューヨークで亡くなっています。ブロンクスの墓地で行われたお葬式にはぼくとユミも参列しました。その後、奥さんの淑子さんが後藤さんの全作品を日本に持ち帰り、日本での回顧展の準備をしてきました。生前には実現できなかった後藤さんの初めての大規模な展覧会です。後藤さんはぼくの「雨の音が聞こえる街」という歌にも出てくる、身近なものを作品にしたポップアートの作家です。回顧展は10月3日まで開かれていまので、東北に旅行する計画の方は、寄り道してみてください。(上杉博物館:0238-26-8001)
ぼくとユミは昨日ぐらいから米沢に行く予定だったのですが、奥さんの淑子さんが病気で入院されていることがわかり、先に延ばすことにしました。というわけでぼくたちはこの暑かった土曜日をどこにも行かずに家の中ですごしました。
友部正人
8月23日(月) 飯田、名古屋、松阪ツアー
飯田、名古屋、松阪とツアーしてきました。
飯田は2年半ぶりのふぉので。日本のフォークをメインに流している、旭川のアーリータイムズとともに貴重でめずらしいお店です。終演後マスターの作ったたれでソーメンをごちそうになりました。マスターのつけたナスの漬物、マスターの一番好きだと言う種類のりんご、ライブハウスの打ち上げにしてはさっぱりとした夜でした。
名古屋は大泉讃さんの焼き物の個展のオープニングライブでした。星が丘にある芽楽というギャラリーには予想を上回るお客さんが来てくれて、ギャラリーの人たちも大喜び。PAの設備を使わないで、全くの生で歌いました。それがぼくにも気持ちよく、新鮮でした。生ギターの音はやはり生がいいし、マイクを使わないと声が自然に外に出て行くのが自分でわかります。会場ではぼくの絵の展示もしました。でもこれは一日だけで、大泉讃さんの個展は9月5日まで続きます。
松阪はマクサ。音響の仕事もしているライブハウスなので、音は抜群です。ぼくは普段はモニターをできるだけ小さくしてもらうのですが、マクサでは逆に大きくしてもらいました。修理の終ったギブソンB25はとてもいい音です。ライブの後、伊勢の体育館であるというアテネオリンピックの女子マラソンの中継を見に大急ぎで帰った人たちがいました。ぼくもホテルに戻ってからマラソンを見ました。野口もラドクリフも、どちらも同じように心に強く残りました。
友部正人
8月24日(火) タイへ
今夜ユミと、1985年のカラワン楽団のタイツアー(全行程7500km)に豊田勇造やビデオ録画担当の水谷俊之らと参加したときの記録ビデオ「マイペンランだいじょうぶ」を久しぶりに見直していました。ゴールデン・トランアングルの夜にみんなで歌ったドゥエンペンが今も胸にしみます。どうしてこのビデオを見たかというと、明日から9月3日までタイに行くことになったからです。1985年の足取りをたどりなおしてみたかったのです。
今回は音楽には関係のない観光旅行で、バンコクに着いた後のスケジュールもあまり決めていません。ぼくには約10年ぶりの、ユミにはなんと19年ぶりのタイです。戻ってきたらここにまたその報告を書きます。
友部正人
8月26日(木)タイ旅行(1)
25日の深夜、ぼくにとっては10年ぶりの、ユミにとっては19年ぶりのバンコクにやって来ました。ぼくは3回目のタイですが、いつも誰かに引率されていたのでバンコクの地理はまるでわかりません。何も知らないと、バンコクはただただ大きな街に思えます。空港バスはちゃんとホテルの前で停車してくれて助かりました。
朝の食堂で友人の内山くんと会いました。学校の先生なので、夏休みを利用して毎年タイに遊びに来ているのです。タイに着いたばかりだというのに、博物館見学にでかけ、夕方ボートでチャオプラヤー川の対岸に渡り、船着場のレストランで激しい夕立を見ながら遅めの昼飯を食べました。
19年前のカラワン楽団とのタイツアーのときにお世話になったタイ在住の小野崎さんと、そのとき一緒にタイをまわった豊田勇造や彼の友だちと、サイヤム市場の二階にあるシーフードレストランで夕食。勇造は八月上旬からタイに来ていて、バンコクでライブもやったらしい。おいしいものをたくさん食べたけど、たぶん自力では注文できないでしょう。ビールもたくさん飲んだけど、なぜかタイではあまり酔いません。予想以上のタイの湿度にユミはすっかり参っています。
8月27日(金)
28日から飛行機でスコタイとチェンマイに行く予定なので、その切符の手配などをしていたら遊びに行く時間もなくなって、今日は、ホテルのプールで泳いだり、ホテル内のジムで走ったり、内山くんとタイスキを食べにいったりしただけでした。
8月28日(土)
朝8時10分のバンコク航空でスコタイに。スコタイ空港に降りたことのある人は覚えているでしょう。あんな風変わりでのどかな空港は見たことがありません。お花畑のような飛行場に吹き抜けで壁のない平屋の木造ターミナルビル、送迎バスは遊園地の馬車のようで、池にはたくさんのはすの花。手荷物ももちろん手渡しで、すぐ目の前が水田です。
川のそばのホテルにチェックイン。ホテルの前で待機していたトゥクトゥクの運転手に、スコタイ遺跡公園めぐりを頼みました。今日は曇りがちの天気で日差しは弱かったのに、ユミは途中から胃痛を訴え出し、それでもスコタイ遺跡公園はユミが来たかった所だったので、予定していた遺跡は全部ちゃんと見てホテルに戻ったら、そのまま熱中症を起こしてダウン。熱が出て、氷で冷やしたりして大変でした。それでもスコタイの遺跡はがんばって見てよかった。タイの仏像はみんなとても楽しそうな表情で、今にも動き出しそうでした。押し黙ったような日本の仏像とは違い、誘ったら一緒について来そうでした。
友部正人
8月29日(日)タイ旅行(2)
朝の飛行機でスコタイからチェンマイへ。お堀に囲まれた旧市街にある古い大きなホテルにチェックイン。タイのホテルはプールがついているところが多く、このホテルにもバンコクのホテルより大きなプールがありました。暑くて外を歩く気がしないので、タイでのホテル選びの基準はまずプールがついていること。バンコクでもチェンマイでも毎日泳いでいたので、ぼくもユミも日に焼けてすっかり黒くなってしまいました。
メインストリートではフリーマーケットが開かれていました。チェンマイは白人の旅行者が多く、英語本の古本屋がいくつもありました。後に行くバンコクのカオサンにある英語本の古本屋に比べると、ずっと質が高かったように思えます。日本人の在住者も多いということで、日本語の古本もたくさんありました。
ホテルのすぐ近くにガーデンスタイルの感じのいいタイフードレストランがあって、ユミもぼくもそこが気に入ってしまい、結局チェンマイでの晩御飯はずっとここでした。そこの料理には針のように細くきざんだしょうがが何にでも使われていて、しょうがは大好きだけど、今まで料理にどう使えばいいのかわからなかったぼくには衝撃的な出会いでした。しょうがをたくさん使うのはタイ料理の特徴なのでしょうか。
お堀の外の新市街は交通量が多く、歩いていても気が休まらないのですが、豆をひいておいしいコーヒーを入れてくれるかわいらしいカフェには毎日通いました。
8月30日(月)
旧市街を抜け出し、3キロぐらい離れているチェンマイ駅に歩いて行きました。途中にあった市場でバナナや何かよくわからない揚げ物を買って、裏道をそのまま歩いていたら、バナナのスライスを天ぷらにしているお店があって、人だかりがしていてすごく人気があるので二人で見ていたら、ご主人が椅子を用意してくれて、家の中から冷たく冷えた水をぼくたちに運んできてくれたのです。市場で買った揚げ物を食べながら、冷たい水を飲みました。本当にうれしかった。愛想のいい奥さんが揚げるバナナの天ぷらを一袋買って食べてみました。熱いうちもおいしいけど、冷めてからもバナナの味がしておいしいのです。もう一度たべたくなって、翌日もまたバンコクに戻る前に買いに行きました。奥さんはぼくたちの顔を見るとうれしそうに笑って、ぼくたちをちゃんとおぼえていてくれてとてもうれしかったのでした。
チェンマイ駅にはホームにたくさんの野犬がいて、汗でぬれたシャツをホームのベンチで乾かして帰って来ただけでした。
8月31日(火)
夕方の便でバンコクに戻りました。ホテルの近くの屋台でシーフードヌードルを食べて、セブンイレブンでビールを買ってホテルの部屋で飲みました。セブンイレブンはスコタイやチェンマイにもあって、旅行中はいろいろと助かりました。
9月1日(水)
小野崎さんが連絡をとってくれて、カラワン楽団のスラチャイとモンコンに会いました。スラチャイは9歳の息子と一緒でした。みんなで会った飲み屋で、モンコンの絵の個展が開かれています。モンコンは今は絵描きでもあり、静けさの漂う南タイの海や、幻想的なチェンマイの夜、ハジャイのテロのことなんかを絵にしていました。スラチャイはサッカーチームを作っていて、飲み屋のご主人はそのチームのゴールキーパーで、写真家でもあります。ぼくがマラソンをしていることをスラチャイは自分のことのように喜んでいました。その日も夕方からサッカーの試合があったそうです。それでお腹がすいていたのか、ぼくたちのためなのか、テーブルにはたくさん食べ物が並んでいました。スラチャイやモンコンはぼくたちの古い友だちです。いつのまにかそう思える人たちになっていました。それは彼らの人柄によるところが大きいと思います。今の日本には彼らのように人懐っこい人たちはいなくなってしまったようです。帰り際にモンコンが大きな絵を一枚プレゼントしてくれました。小野崎さんは大使館の広報文化部で仕事をしています。タイには30年近く住んでいて、タイのことならなんでもよく教えてくれます。小野崎さんにも、タイの人たちのような人懐っこさがしみついています。その夜に降り始めた雨は、タイではめずらしく朝まで降り続きました。
9月2日(木)
チャオプラヤー川の水上バスでカオサン通りとチャイナタウンに行きました。船の苦手なユミも、交通渋滞のない水上バスが気に入ったようです。カオサンは無銭旅行しているような白人ばかりが多く、わざわざ行くような町ではありませんでした。一回りしただけで、スラチャイたちに教えてもらった楽器屋を探しに、また水上バスでチャイナタウンに行きました。ニューヨークのチャイナタウンもごちゃごちゃしているけど、バンコクはその比ではなく、排気ガスと人ごみで、住所も電話番号もわからない楽器屋を探す気力はすぐに失せました。ところがこういうときのユミはあきらめないのです。通りの人に尋ねたりしてなんとか楽器屋街を見つけて、目指していた店を探し当てたのでした。スラチャイが書いてくれた手紙を見せると、ホーナーのハーモニカを25パーセントオフにしてくれました。今年結成30周年のカラワンは、10月にバンコクで、11月上旬に日本の各地で記念コンサートをするそうです。
9月3日(金)
こうしてぼくたちの短いタイ旅行は終りました。帰ってきてぼくは腹痛と下痢で苦しみました。タイにいるときはなんともなかったのに。それも一日で収まり、今は突然目に映る旅の残影を横浜で楽しんでいます。
友部正人
9月12日(日)野狐禅とのライブ
名古屋と豊橋の二箇所だけですが、野狐禅とのツアーをしてきました。野狐禅の札幌の親ともいえる木下さんが、奥さんと二人で札幌から名古屋の得三まで聞きに来てくれました。ぼくは木下さんの紹介で、旭川でまだデビュー前の野狐禅の歌を聞いたことがあります。
今27歳の二人組、野狐禅の詞には、ノートに鉛筆で書かれたときの筆跡まで伝わってくるような生々しさがあります。歌というよりも喋り言葉に近く、あんまり激しく弾くのでギターがピックでどんどん削られてなくなりそうなので、そのうちすっかりなくなったら、新しいギターは買わずに、素手で(ピアノの伴奏で)朗読をはじめるかもしれません。
豊橋ではスマートボールを一緒にしました。ぼくが子供の頃に縁日やデパートの屋上でした
スマートボールより複雑で、パチンコに近いようなゲームでしたが、換金はできません。それに100円で十分楽しめます。必ず山場は来るし、興奮もするし、うまくいかなかったりして首もかしげる。やがて玉がなくなって、あと100円だけやろうかな、と思ったり。
毎年豊橋に歌いに行っているのに、ハウスオブクレージーのすぐ横にあるスマートボール屋さんには気づきませんでした。野狐禅の二人は3年も前から通っていたそうです。
スマートボール屋は全国に3軒しか残っていないそうです。換金をしないのはうちだけ、とスマートボール屋のおばちゃんは胸をはっていました。野狐禅の二人とぼくは景品のチョコレートをたくさんもらって帰りました。
友部正人
9月14日(火)スティービー
今日、「山形ドキュメンタリー映画祭イン東京」でスティービーに出会ってきました。アメリカのスティーブ・ジェイムズ監督のドキュメンタリー映画「スティービー」を見に行くことは、スティービーに出会いに行くことだと思います。今から10年以上前に見たスティーブ・ジェイムズ監督の「フープ・ドリームズ」は、心のどこかにずっとしまっておきたくなるようなドキュメンタリー映画でした。それを自分の心のどこにしまったのかは忘れてしまったのですが。しまったというよりは食べたというのに似ています。NBAのプロバスケットボール選手をめざす黒人の男の子が、白人の学校に入ったときの居心地の悪さが今でもごろりと胃袋に残っています。
スティーブ・ジェイムズ監督はこの「スティービー」で、イリノイ州南部に住む白人の下層階級の人たちに焦点をあてています。スティービーは小さいときに母親から虐待を受け、育児を放棄されて義理の祖母に育てられました。スティービーは問題児として成長し、大人になってからも母親を憎み続けます。でもスティービーには3人の愛する人たちがいます。育ててくれた義理の祖母と、父親が違う義理の妹、それから婚約者のトーニャです。捨てられても、スティービーは母親のすぐ近くで暮らしています。母親もスティービーの愛情を取り戻そうとしているようです。憎んでいても、みんなばらばらにならずにすぐ近くで暮らしている様子は、後から思えばドラマのセットのようでもあります。
スティービーは8歳のいとこへの性的な虐待で裁判にかけられ、有罪になります。今もまだ服役中だそうです。周りの人たちは、なぜスティービーが暴力や窃盗などの犯罪を繰り返すのか理解できません。確かに何もしていないときのスティービーはかわいらしく、とても人懐っこい。ところがお酒を飲むと何か強い衝動にかられるらしいのです。ディスコで婚約者のトーニャと踊りながら、「エッチなことはいやなの」とトーニャに拒絶されるシーンがあります。スティービーは衝動的に何かある一線を越えたくなるようです。彼は無意識に自分をつきとめようとしているのではないかとぼくは思います。自分に出会おうとしているのです。映画でぼくはそんなスティービーと出会いました。服役中にスティービーはシェイクスピアを読み、詩を書き始めたそうです。詩を書くことも自分に出会うことです。スティービーの書いたという詩を読んでみたくなりました。
友部正人
9月22日(水) 三宅伸治とのツアー
昨日からずっと雨が降り通しの岡山です。今日は朝からユミと、11月27日にライブをする会場の下見に行きました。生徒数の減少で3年前に廃校になった出石小学校は、現在地域のカルチャーセンター的な場所になっていて、いろんな人たちに利用されているようです。その理科室で、岡山にあるライブハウス「ペパーランド」の30周年記念企画の一つとして、ぼくもソロでライブをすることになりました。歩くと床がみしみしと小気味よい音をたてる古い教室は、きっとぼくの歌にもやわらかい響きをもたらしてくれるでしょう。
ぼくと三宅伸治との二人のツアーは9月17日の神戸バックストリートから始まりました。一日目のこの日の演奏は二人ともまだとても慎重でした。そういうきちんとしたところがよかったと思います。終演後はバックストリートの近所で焼き鳥をごちそうになりました。ぼくは焼き鳥がとても食べたい気持ちだったので、大満足でした。
18日は高松のモンクス。カウンターの中にもお客さんが立つほどの盛況でした。二日目なので二人ともリラックスしていて、楽しみながら演奏できました。終演後はうどん屋さんで打ち上げ。ツアー中三宅くんはお酒を飲まないので、ぼくもビール1杯だけです。
19日、高知への出発前に、高松のライブの主催の楽器屋さんHit’sでギターを弾かせてもらいました。30分も弾いていると手放したくなくなってきます。まずいまずい。
高知までは三宅君の車で高速道路を走ってたった1時間。東京から朝の飛行機で高知に来たユミと合流しました。この日高知では第三回ラララ音楽祭が開かれていて、ぼくと三宅くんもゲストで参加しました。街のあちこちに用意された野外ステージでは、いろんな人たちが夜まで演奏していました。昼間にぼくと三宅君は別々のステージでソロで演奏し、夜メインステージで二人で1時間近くやるという感じでした。ぼくがソロで歌ったステージでは、鳩ズというバンドがぼくの「空が落ちてくる」をやり、ぼくもそれにハーモニカで参加しました。
20日は高知市のリングというライブハウスでライブでした。あまり飲まないようにはしていても、4日目ともなればぼくの声はだいぶ疲れてきます。その点三宅君はまったく元気だったので、ぼくも無理をしないで歌うことができました。任せちゃうわけじゃないけど、二人でステージに立っていると気分的に楽です。終演後はそのままリングで打ち上げ。壁のスクリーンではジェイムズ・ブラウンが腰をふって歌っていました。あんな風に毎日全開で歌ってみたいもの。
21日。出発前に高知でトラブルが発生して出発が遅れ、岡山に着いたのは5時ごろでした。ペパーランドは三宅君ははじめてで、ぼくは久しぶりでした。ペパーランドはステージが広く、客席が狭く思えます。ツアー最終日なので、ぼくたちは一番いい演奏ができるよう心がけました。ぼくの声も回復して、ハーモニーの高い部分もまっすぐ出ました。当たり前だけど、声が思うように出ていることが楽しい演奏の基本です。終演後ペパーランドの近所でビールを飲んで打ち上げ。その後三宅くんとスタッフの沼君は車で東京に戻りました。5日間のツアーの成果をぼくの録音したMDに残して。
友部正人
9月23日(木) おおはた雄一のライブ
おおはた雄一くんのライブを、今夜やっと聞くことができました。春に発売になったファーストアルバム『すこしの間』にぼくはコメントを寄せながら、ライブはまだ聞いたことがありませんでした。アルバムに参加しているクラリネットの安藤健二郎くんにも久しぶりに会ったし、フリューゲルホーンの道下くんにもはじめて会いました。
ライブの場所は密造酒でも売っていそうな古い木造のバーで、怪しげな人たちが集まっているのかと思えば、こぎれいな身なりの女性が多く、怪しいのはぼくとユミだけでした。おおはたくんの歌もなかなか怪しげでよかったです。ブルースが基調になっているようだけど、ものまねではなく、つまびくギターの音も言葉も、おおはたくんが生まれたときに、母親の胎内から持ってきたままのようでした。おおはたくんの歌に関することは、11月号の現代詩手帖「新ジュークボックスに住む詩人」に書きましたから、来月読んでみてください。
友部正人
9月26日(日) 吉祥寺ののろ
吉祥寺ののろに何年ぶりかで行き、青木とも子さんとガンさん(佐藤博)のライブを聞きました。ガンさんは1曲だけ佐久間順平とやりましたが、青木とも子さんはギターが伊藤銀次、ベースが永田純(どんべえ)という3人編成のバンド。ずっといろんなミュージシャンのマネージャーをしていたどんべえがベースを弾くのは、ぼくの『カンテグランデ』の録音以来だそうです。伊藤銀次とどんべえの出会いは、やはりぼくの『ポカラ』だったようです。ガンさんの「赤ん坊殺しのマリーファラー」やサン・テグジュベリの朗読、ありのままの青木さんの歌とすがすがしい表情が印象的なライブでした。一番驚いたのは、何年も会っていなかったぼくとユミの吉祥寺時代の友だちに大勢会えたことです。
友部正人
9月28日(火) 後藤克芳の世界展
山形県米沢市の上杉博物館で、「アートするこころ、後藤克芳の世界」を見てきました。後藤克芳さんのニューヨークのお宅には、ぼくとユミはたびたび呼んでいただいて、後藤さんの料理した和食をご馳走になりました。そのたびに居間にかかっていたいくつもの作品を見てはいたのですが、今回の展覧会ではじめて後藤さんの全体像を知ることができました。若い頃の後藤さんの作品はアメリカのポップアートの影響をもろに受けながらもおしゃれで、その部分は晩年の猫の作品まで一貫していました。アートは後藤さんのメッセージでもあり、エイズ撲滅を願ったペニスの作品もたくさんあるのですが、それらはひとつの小部屋にまとめられていて、特別扱いされているのが奇妙でした。
後藤さんは2000年1月にニューヨークで64歳で亡くなったのですが、ブロンクスの墓地で行われたお葬式にはぼくとユミも出席しました。晩年の後藤さんは若い人たちとグループ展をよくやっていて、その中のひとつにユミの名前もあって、なんだか懐かしくなりました。展覧会を見た後、米沢の病院に入院している奥さんのよし子さんに会いました。ニューヨークでは一度も大々的には発表されることのなかった後藤さんの全作品を日本に持ち帰り、発表の場を作る努力をしてきたのはよし子さんでした。よし子さんのお姉さんのあやさんには米沢を車で案内してもらい、お話もできてとても楽しかった。七十五歳とは思えない、笑顔のすてきな方でした。
友部正人
10月4日(月) 松江MGのコンサート
島根県松江市にあるMGという喫茶店が35周年を迎え、松江市の県民会館で記念のコンサートが10月2日にありました。呼ばれたのは、高田渡、中川イサト、いとうたかお、佐久間順平、佐野史郎、遠藤賢司、鈴木茂、山本恭司、キセル、大塚まさじ、永井洋、それからぼくでした。午後1時開演で夜の7時近くまでという長いコンサートで、出番が三番目だったぼくは、終演まで客席でみんなの演奏を聞いていました。楽しかった。懐かしさからなのかもしれないけど、ぼくにとっては鈴木茂の「花いちもんめ」が最高でした。若い二人組のキセルの歌う高田渡の「鮪に鰯」にも感心しました。
MGの名物は浅野淳子さんことあっちゃんと、カツ丼です。あっちゃんのお母さんが始めたと言うカツ丼はとてもおいしいです。宍道湖まで行ったら、ぜひMGのカツ丼を食べてください。なぜMGがこんな大規模なコンサートを開いたかというと、MGではずっとフォークやロックのレコードをかけていたからです。そのうちライブもするようになって、ぼくも1977年に一度だけ歌いに行っています。MGの持つすべての愛が爆発したような出来事でした。
翌3日は倉吉のラ・キューでソロのライブをしました。ライブなんてできるの、と思うほど小さなお店です。ラ・キューは去年まで、「おかまいなしカーニバル」という野外コンサートを東郷湖のほとりで開いてきました。のんびりとしたいいお祭りでした。そののんびりだけが残って、小さなコンサートをひらいてくれました。のんびりは野外でも室内でも楽しめます。マイクもない小さなコンサート、お客さんも30人ぐらい。小さなぼくのギブソンB25というギターにちょうどいい規模です。
翌日はラ・キューの杉原さんと児童書の本屋さんをしている磯江さんに、温泉に連れて行ってもらいました。そうそう、磯江さんのお店で、ユミが探していた本が見つかったのです。東京では手に入らなかったのでユミは大喜び。もう絶版になっていたのですが、あまり整理好きではない磯江さんのお店には残っていたのです。ぼくも「ニューヨーク145番通り」という短編集を買いました。なんとなく手にとって買ったのですが、これはとてもよかった。大切にしたい本です。
友部正人
10月9日(土)ラ・カーニャ10周年
ラ・カーニャって誰かのお腹の中のようです。中に入っちゃうと外の様子がまるでわからない。でも、びしょぬれになって入ってくるお客さんたちを見ていると、外はすごい様子なんだろうなとよくわかりました。関東地方直撃の台風の中、ライブに来てくださった方々、本当にありがとうございました。
前日の夜、ラ・カーニャのマスターから、「キャンセルの電話がすごいよ」と電話がありました。当日になってからも、「途中まで来たけど、やはり無理です。」という電話がいくつもあったそうです。5時頃からはJRも私鉄も止まり始めました。リハーサルをしていたら、ステージのすぐ横の物置でものすごい勢いで水漏れが始まって、ああ、今日はいったいどうなるのか、とぼくは思ったのですが、店の主人の岩下くんは不思議なくらい落ち着いていて、感心させられました。この人だからこそ今まで10年も続いたラ・カーニャだったのです。
ライブは90年代以降の曲を中心にやりました。普段はあまりやらない「夢がかなう10月」の中からも2曲やりました。みんなあまり気がついていないかもしれないけど、このアルバムの演奏、とてもいいのですよ。またフランク・クリスチャンと一緒に録音したくなってきます。出会った頃はロック小僧だったロケット・マツも、いつのまにか音で考え事をする音楽家になっていました。ジャンルにとらわれない彼と演奏していると、また何かおもしろいことができそうだなと思えてきます。
友部正人
10月10日(日) 十日町ライブ
新潟の津南に本拠地のある我楽多倶楽部の人たちに呼ばれて十日町に歌いに行くようになってもう15年ぐらいになります。2年にいっぺん行っているから、7回以上ライブをしたことになります。いろんな職業の人たちの集まりである我楽多倶楽部の人たちの共通点は音楽です。自分たちでもときどき演奏会をしているそうです。新聞記者たちも何人かいて、ユミとは写真のことで盛り上がります。ユミは打ち上げで人気があります。今回は用事でユミは行けなかったので、みんなちょっとがっかりしていました。2年に一度のライブは、打ち上げも大事なのです。前回と同じ市立図書館のホールでライブをしました。お客さんが聞きたがっていた?ようなので、詩の朗読もたくさんしました。
次回は再来年の夏になりそうです。現代美術のトリエンナーレに合わせて呼んでくれるそうで、とても楽しみです。
友部正人
10月11日(月) 新潟ウッディ
新潟のウッディでライブをするのはたぶん10年ぶりのことでした。当時の経営者のかんぺいさんがやめて今の浅野さんになってからははじめてです。ビルの3階にあるウッディまで階段は10年前にもきつかったのに、さらにきつく思えました。エレベーターはないのです。ビルの老朽化で、ウッディは今年いっぱいで閉店だそうです。その前にライブができてよかった。
20年前のトレーシー・ソーンみたいな声で歌う女性がボーカルの3人グループの後、ステージに出て行くと、客席の後ろの方になつかしいかんぺいさんがいてうれしくなりました。ウッディの前のともしびの頃から、ずっと新潟のライブシーンを支えてきた人です。まったくお酒を飲まないかんぺいさんの早口おしゃべりを聞きながら、ライブの後ぼくはワインを飲んだりしてました。今は音楽とは全く別の仕事をしていて、ご両親の面倒をみているそうですが、ときどき家で一人で歌ったりもして、それがけっこう楽しいのだそうです。
友部正人
10月16日(土) マーガレット・ズロースのこと
マーガレット・ズロースは本当にロマンティックなバンドだと思います。どんな伝統にも技術にも頼らず、自分たちの感覚だけをあてにして歌を歌い続けている。ミュージシャンなら誰もがしたがるブルースやビートルズなどの話を、ぼくはまだ一度も彼らとしたことがありません。生きていくのにどうしても音楽が必要だということを知って、まずは楽器を手にした人たちなのでしょう。彼らにとってのかっこいい、かっこ悪いは、音楽の歴史とはまるで関係がありません。
彼らの頭の中にははじめから表現したかったことがあったのです。本当に根源的なところから出発したマーガレット・ズロースと、大阪と京都で二日間、7曲ぐらいずつ一緒に演奏しました。彼らと演奏していると、もっともっと何かいろんなことがぼくにもできそうだと思えてくるのはとてもうれしいことです。
友部正人
10月18日(日) 三宅伸治のこと
三宅伸治くんと二人ではじめてやったのはどこだったのか、ちょっと忘れてしまいました。ツアーをするようになってから、もう2年以上たちます。レパートリーは少しずつ変わってきているのですが、最近の特徴は、三宅くんがぼくの歌を一緒にやりたがることです。ボーカリストが二人いるのに、圧倒的にぼくが歌っています。そして三宅くんがギターを弾き、曲のアレンジもするのですが、ぼくがその逆をやれれば、もっと三宅くんの曲が多くなっていたことでしょう。いつのまにか、三宅伸治アレンジで一枚アルバムが作れるくらいレパートリーが増えました。
昨夜は堺のFUZZというライブハウスで二人のライブがありました。5年になるというライブハウスなのに、ぼくははじめてでした。昨夜はぼくたちの演奏の前にたくさんのバンドが出演して、そのせいかお客さんの数も多く、二人の演奏も今までで一番良かったかもしれません。個人的には、前回の岡山から、呼吸があってきたような気がします。今夜は今まで一度も取り上げなかった「あいてるドアから失礼しますよ」や「地球の一番はげた場所」などもやりました。
今日はユミと朝から堺市見物です。有名なかん袋という和菓子屋さんでくるみ餅もたべました。道が広くてまっすぐで、京都のような雰囲気はないけど、暮らしている人の中に古都の趣があるいい町でした。なんだかとても好きになりました。

友部正人
10月20日(水)Pascals in Yokohama
横浜のサムズアップでパスカルズのライブがありました。が、台風23号の関東直撃で半分で終了してしまいました。10月9日にも台風22号が関東を直撃しました。その日ぼくはパスカルズのロケット・マツと二人で、下北沢のラ・カーニャでライブをしたのです。そのときはリハーサルからライブの本番中に台風が通過したので、ぼくは台風を知りませんでした。今日はそれに近い大型台風をちゃんと体験しました。ぼくは横浜に住んでいるので、横浜駅のそばにあるサムズアップまでは歩いても15分かかりません。でもかなり雨が強かったので、タクシーに乗りました。タクシーは台風のときにもちゃんと走っているのですね。
ロケットマツから2曲一緒に、と誘われていたのですが、サムズアップに到着すると、そんなのんびりした雰囲気ではありませんでした。駅周辺は避難勧告が出ていて、本番が始まっても、すぐに中止しなくてはならないかもしれないという状態でした。パスカルズの曲も全部はやれない感じなので、ぼくのゲストは断ろうとしたのですが、すでに練習したからといわれて、「シャンソン」だけやることにしました。今夜の「シャンソン」は、台風のせいかとても落ち着いていて、ロケットマツの進化したアレンジも心地よく、心に残る演奏になりました。
通常より一時間早く開始したライブだったにも関わらず、結局二部の2曲目で、ライブハウス側から中止の要請があって、打ち切りとなりました。お客さんもバンドのメンバーも、同じように慌しく帰路についたのでした。台風はその後急激に弱まって、恐れていたようなことにはならなかったのですが、今から思えば、台風に乱入されたな、という感じです。今日、ぼくとパスカルズのレパートリーに、新しく「シャンソン」が加わりました。
友部正人
10月23日(土) アル・グリーン
21日からニューヨークに来ています。みんなもう冬の装いです。急に寒くなったようで、鼻をぐずぐずさせている人が多いです。ぼくは風邪ではなく、空気の乾燥のせいで鼻がぐずぐずしているのですが、マーケットのエレベーターの中で会ったおばさんに、「あなたも風邪?」と聞かれました。
まだ来たばかりだというのに、今夜アル・グリーンのコンサートに行ってきました。劇場がアパートのななめ前なので、気楽に行ってみたのです。2階席の真ん中あたり、1階席は満席のようでした。ぼくの隣の黒人の男性は、最後までアル・グリーンの曲を一緒に口ずさんでいました。アル・グリーンは明るくて本当に元気な人。抜けるような高音も健在です。客席に花を配りながら、70年代のヒット曲を次々と歌います。みんなが一緒に楽しまなくては気がすまない、大阪人的気質の強い人です。お客さんもみんなそれを望んでいます。
アル・グリーンを聞きながら、ぼくはつい先日亡くなった、元ソーバッドレビューの砂川正和くんのことを思い出していました。声がよく似ているのです。砂川くんもアメリカで生まれていたら、自殺なんかしなかったかもしれないな、と考えたりしました。大好きなソウルミュージックを思いっきり歌えたかもしれないからです。そう思うと、元気な砂川くんがニューヨークでお好み焼き屋さんでもやっていそうに思えてきました。彼の実家は大阪でお好み焼き屋さんをやっているそうです。砂川くんのことは残念でなりません。これからアル・グリーンを聞くたびに、砂川くんのことを思い出してしまうでしょう。ありがとう、アル・グリーン、これからも歌い続けていってください。
友部正人
10月24日(日) 新潟地震のニュース
昨夜ユミが持ち帰った日本語のフリーペーパーで新潟の地震のことを知りました。今月十日町に歌いに行ったばかりだったので、びっくりしています。コンサートの主催の我楽多倶楽部の人たちはみんな無事で元気だということです。メールで確認しました。ニューヨークに来る前に、横浜で震度3ぐらいの地震がありました。とても震度3とは思えないくらい揺れました。だから震度6なんてどんなに揺れるのかと、想像しただけでも恐ろしくなります。30年ぐらい前に、東京で毎日のように強い地震があったことがありました。だから余震の怖さはよくわかります。今日のニューヨークタイムズでも地震のことが詳しく記事になっていました。地球の上で起きた、マグニチュード6以上の地震の20パーセントは日本で発生しているそうです。ぼくたちは地球の上でもめずらしいくらい大きな地震の多いところで暮らしているのです。
ニューヨークは今紅葉の真っ盛りです。ニューヨークタイムズの天気欄には紅葉の分布図が色分けで載っています。今まで紅葉を楽しむのは日本人の習慣だと思っていました。分布図は5段階に色分けされています。ぼくが連載をしている10月18日付の北海道新聞の夕刊に、3段階の分布図と書いたのですが、間違いでした。セントラルパークは黄葉と紅葉が半々という感じでとてもきれいです。針葉樹がほとんどないことにも、最近はじめて気づきました。
友部正人
10月27日(水)shall we dance
アメリカでリメイクされた「shall we dance」を見ました。配役が日本のオリジナルの俳優にそっくりなのでびっくりしました。ジェニファー・ロペスだけが、草刈民代さんとは正反対でずいぶんマッチョっぽかったです。ぼくは好きなのですが、ユミにはなじめなかったようです。ある映画評では、リチャード・ギアがミスキャストと書いていたのですが、そんなことはありません。なかなか良かった。ストーリーも配役もオリジナルとそっくりだし、すっかり入り込んでしまったのですが、後半、奥さんがダンス用の靴をプレゼントするところで、ぼくの隣の女性が大笑いしているのです。と思ったのはまちがいで、よく見たら号泣していました。あんなに泣いたら、終演後すぐには席を立てないだろうな、と思って見ていたのですが、何のことはない、タイトルバックも見ないでさっさと帰っていきました。ぐしゃぐしゃの顔を隠しもしないで。
終演後、何人かの人たちが思わず拍手しましたが、以前のアメリカに比べたら、映画で拍手をする人は少なくなりました。
友部正人
10月29日(金)ラドクリフ
新聞によれば、今年のニューヨークシティマラソンにイギリスのラドクリフが出るそうです。夏のオリンピックの痛手から立ち直るために、市民のお祭りのニューヨークマラソンを走って、もう一度走る楽しみを思い出したいのだそうです。ニューヨークマラソンのコースは坂が多く、記録が期待できないという理由で、あまり有名な選手は出場しません。それよりもただ走るのが好きという人たちが、制限時間を気にしないで走れるめずらしいマラソンなのです。去年の最終ランナーは確か93歳で、9時間以上かかってゴールしたそうです。レースは、女性も男性も障害者も一緒に走ります。ぼくの足元を、スケボーのようなものにうつぶせになって、道路を手でこぎながら疾走して行く障害者もいます。また、かばのぬいぐるみを着たり、ブルースブラザーズの物まねで、サングラスをしてネクタイをして、二人並んで走った人たちもいます。そんなマラソンに、ラドクリフののような世界的なランナーが出るのは感動的なことです。
今年はぼくは抽選にはずれて出られませんが、ゴールのセントラルパークに見に行こうと思っています。
友部正人
11月1日(月) ケープ・コッドマラソン
10月30日にニューヨークから長距離バスで6時間かけて、ケープ・コッドのファルマウスという村に行き、翌31日の朝8時半から、ケープ・コッドマラソンを走ってきました。マラソンの後ファルマウスにもう一泊して、朝6時発のバスでニューヨークに戻って来ました。
ケープ・コッド・マラソンのコースは坂の連続でしたが、去年のニューヨークより1分だけ早いタイムで完走できました。3時間33分でした。どうしてケープ・コッドを選んだかというと、「ランナーズ」というアメリカのマラソン雑誌に、アメリカでベストテンに入る景色のいいコース、と紹介されていたから。確かに海沿いの道も山の中の雑木林もとてもきれいでした。でも走っていると、景色はあまり気にならない。それよりも一緒に走っている人たちや、まばらな応援の人たちの方が目に飛び込んできます。たった920人のマラソンレースはいろんな意味で35000人が走るニューヨークマラソンとは大違い。ランナーの横を、極端に速度を落としてだけど車が普通に走っているのです。途中のウッドホールという村にある灯台への海沿いの長い上り坂は本当にきれいでした。ぼくが山道を走っている間、ユミもカメラを持って、入り組んだ入り江のあたりを散歩したりしていたようです。
ケープコッドのようなのんびりしたところから戻ると、ニューヨークの地下鉄の中の人たちの顔がとても無表情に思えます。いらいらしていてみんなけんか腰です。なぜ朝一番のバスで帰ってきたかというと、ハドソン川の上空で午後1時から行われることになっていた、現代美術のジェニー・ホルツァーの言葉のパフォーマンスを見たかったから。小型飛行機を何機か飛ばして、飛行機雲で空にメッセージを書くと思っていたのです。ところが、アパートに荷物を置いて、ハドソン川の突堤に飛んで行ってみると、2機の飛行機の尾翼にメッセージを記した長い垂れ幕をひらひらさせて、川の上空を行ったり来たりしているだけでした。突堤にいる人たちもみんな別に関心がなさそうで、はりきったぼくとユミは気抜けしたのでした。
友部正人
11月4日(木) Lightning in a bottle
ケープコッドのマラソンが終ってぼくはのんびりしているところですが、ニューヨークシティマラソンは今週の日曜日なので、ゴールのセントラルパークが近いぼくらの付近は、外国から走りに来た人たちもたくさんいて、とてもざわざわした雰囲気です。昨日からエキスポも始まり、ぼくとユミはハドソン川沿いに走って、35丁目の会場まで行ってみました。そして、ケープコッドとの規模の違いに圧倒されました。
今日は大統領選挙の結果が発表になる日なのに、ニューヨークの街はいつも通りの感じです。もうケリーの負けが決定的だったからでしょうか。ぼくはブッシュが負けると思っていたのですが。おとつい見た「ライトニング・イン・ア・ボトル」というブルースのライブ映画で、チャックDというラッパーが、歌詞の中で「Fuckin' son of Bush」と言っていたけど、ロサンゼルスではまだ公開されていない新しい映画なので、この映画のように、ブッシュが大統領に決まっても、いろんな分野でブッシュ批判は続いていくのでしょう。(BBキング、ソロモン・バークなどそうそうたる出演者のこの映画で印象に残ったのは、ステージで「反戦、平和」を訴える人が多かったことです。)
友部正人
11月6日(土) WFMU中古レコード市
朝セントラルパークでユミとストレッチしていたら、すぐ横でストレッチしていた男性2人とユミが目が合って、話しかけてきました。といっても2人は英語がほとんど話せず、ぼくたちはスペイン語が全くわからないので、マラソンに関するごく限られた話だけ。2人はチリからニューヨークシティマラソンを走りに来ていて、1人は3時間、もう1人は3時間30分ぐらいのタイムだということでした。ぼくはニューヨークマラソンは走らないのに、走るとつい嘘をついてしまい、ゼッケンの色をたずねられて困ってしまいました。それで「人生よ、ありがとう」の出だしをスペイン語の歌詞で歌ったら、「おお、ビオレッタ・パラ」とすぐに反応してくれて、なんとなく気まずさを免れたのでした。一緒に記念写真を撮って、彼らは子犬のように公園の中を走って行きました。(ビオレッタ・パラはチリの代表的なフォークシンガーであり、軍事政権からの弾圧にもめげず、民衆とともに歌い続けた。)
午後からぼくは単身、今まで年に2回開かれていた、WFMUというラジオ局が主催の中古レコード市に出かけました。メトロポリタン・パビリオンという大きな催し物会場を借りて開かれるこの市には、各地から200近いレコード店が参加するので毎年とても楽しみにしています。というのは、探していたレコードのほとんどが、今までこのレコード市で見つかったからです。今年は特に探しているものもなかったのですが、今日はお昼からずっとこの会場でレコードを見て過ごしました。一番の収穫は、デイブ・ヴァン・ロンクが1963年ごろジャズバンドと一緒に吹き込んだ「In The Tradition」というアルバムです。今まで年に2回開かれていましたが、来年からは11月だけの1回になるそうです。

友部正人
11月7日(日)ニューヨークシティマラソン
今日はラドクリフの応援に行きました。アテネではかわいそうだったから。ああいうことがあると勝手に知り合いみたいな気になるのも変ですが。で、2時間23分で女子の一位になりました。ゴールから1.5マイル手前のあたりで、ケニアの選手と競り合いながら走っていくのを見ていました。ぼくとユミから50センチぐらいしかはなれていなかった。ラドクリフのあの走り方、不恰好だけど心に残ります。
そのままその場所で2時間以上マラソンを見ていました。応援も予想以上に楽しいし、何もしていないのに疲れます。ゴールまであと一歩というところなのに、足が動かなくなって歩いてしまう人のなんて多いこと。かと思うと、沿道で見物する人たちの手に順番にタッチしながら走る元気な人もいた。次から次と走りすぎる人の群れを見ていたら、遊園地の乗り物に乗ったみたいに目が回ってしまいました。自分が参加したときには見られない、3時間以内でゴールする大勢の人たちを見られたのも良かった。ユミは日本人らしき人を見つけると、大声で「がんばって」と応援していました。
友部正人
11月10日(水) モーターサイクル・ダイアリーズ
選挙の後遺症が深く残るニューヨーク、80パーセント以上の人がケリーに投票したそうです。先週のレコード市では、ブッシュに投票した人には接客をしない、という業者までいました。
今週からニューヨークは真冬のように寒くなり、今朝はこの秋最低の氷点下2度(摂氏)でした。セントラルパークは日曜日のマラソンの後片付けがまだ終っていません。今まではぼくのものだったセントラルパークを、今年の6月からユミも走りはじめています。一周6M(約10km)あるセントラルパークを、今日ユミははじめて1周走ることができました。ぼくよりうんと早いペースで走る距離をのばしていってます。
日が暮れてから近くの映画館に「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見に行きました。原作は何年も前に英訳されたものを読んだので、(わからない単語が多かったので読んだとはいえないかもしれないけど)、今回はずっと見たいと思っていました。革命家チェ・ゲバラになるずっと前のまだ22歳の医学生だったころの、友だちと二人の南米無銭旅行。その旅で出会ったチリやペルーの貧しい人たちの存在が、若いアーネスト・チェ・ゲバラの正義感に火をつけます。(各地で出会う若くて美しい女性たちにも火をつけられるけど。)その火をくすぶらせながら、ベネズエラで旅の友と別れ、貨物飛行機でアルゼンチンに戻って行くところでこの旅の日記は終っています。最後のテロップで、ゲバラはアメリカのCIAの手引で殺された、とありました。ゲバラの輝くような青春に引き込まれて、映画に夢中になっていたほぼ満席の客席の人たちも、そんなゲバラを殺したのがアメリカだと知って、かなり興ざめしたことでしょう。
今回のぼくたちのニューヨークもあとわずかになってきました。気がつくとつい自分の曲を口ずさんでいるのは、11月21日のスターパインズカフェでのリクエスト大会が近いからです。
こちらに置きっぱなしにしてあるあまり鳴らないChakiのギターで、ぼつぼつと練習をしているところです。200曲以上ある分厚い歌詞カードを全部持ってきていますが、覚えていない曲もあるので、できるだけそういうのにリクエストが来ませんように。
友部正人
11月12日(金)  雨のメトロポリタン美術館
ニューヨークは今日は一日中雨でした。ユミとセントラルパークを横切って雨の中、メトロポリタン美術館まで行きました。雨だからきっとすいているだろうという予想は完全に外れて、雨だからこそいつもより混んでいるのでした。雨の日は観光客も美術館ぐらいしか行くところがないのですね。
美術館で見たかったのは、ウォーカー・エバンスが1938年から41年ぐらいにかけて撮ったというニューヨークの地下鉄の乗客の写真。自然な乗客の様子を撮るために、首からかけたコンタックスのカメラをコートで隠すようにして撮ったそうです。それにしてはとてもきれいに撮られています。1966年にはじめて発表されたというこのシリーズが、今月写真集として発売されました。展覧会場にはその見本があって、ほぼ正方形のその写真集が欲しかったのですが、売店にはありませんでした。
もう一つ見たのは、Romare Beardenの展覧会です。作品数はすごく少なかったです。ニューヨークは今この人の作品が花盛りです。来年の春まで、いろんな会場で展覧会をやっていて、ぼくはホイットニー美術館にも先週見に行きました。1911年にノース・カロライナで生まれ、ニューヨークのハーレムで育ったBeardenは、南部の田舎やハーレムのアフリカン・アメリカンの日常をコラージュで作品にしています。その多くが、ジャズやブルースなどの音楽、地域の占い師などをテーマにしています。コラージュという方法は、人に魔法をかけます。いろんな次元のものが混合されて一枚の作品になっているので、とても奥深く、その向こうには宇宙が果てしなく広がっている気がします。今までいろんな人の美術作品を見ましたが、こんなに音楽と関連が深い人を知りませんでした。とにかく感動です。
夜になっても雨はやまず、ぼくたちはまた公園を歩いて横切って帰ったのでした。雨の夜のセントラルパークは人がほとんど歩いていません。昼間とはまったく違って見える景色に、一瞬道に迷ったのかと錯覚することもあります。でもどんなときにも、2、3人は走っている人に出会うのがニューヨークです。
友部正人
11月14日(日) 「RAY」
明日日本に帰るので、どこにも行かないで帰る準備なんかをしていたら夜になってしまい、そのまま眠ってしまうのももったいないので、一人で映画「RAY」を見に行きました。夜10時からの最終上映は観客の数も少なく、奇声を上げていたマナーの悪い客も、始まったら夢中になったようで静かになり、気分のいいあっという間の2時間半でした。
盲目のシンガー、レイ・チャールズの伝記映画です。天才という異名を持つレイ・チャールズの、女ったらしなところとか、お金に弱いところとか、麻薬におぼれていくところとか、名声とは別のそういう普通なところもちゃんと描かれています。数々の名曲、ヒット曲を軸に作られているので、ついつい夢中になって見てしまいます。カントリーはブルースのいとこだというレイは、まわりの心配をよそに「愛さずにはいられない」を録音して、その曲が収められているアルバムが全米でトップになります。黒人が人種差別との戦いにめざめる60年代初期のこと。ぼくにとってレイ・チャールズといえばこの「愛さずにはいられない」なのですが、アレン・ギンズバーグが何かに、「あんなに夢中になった曲なのに、よく聞くとそうでもなかった」と書いていて、この曲を聞くたびになぜかギンズバーグのその言葉を思い出します。
日曜日の真夜中の大通りは人が歩いていなくて、普段とは全然違うので、まるで映画の続きを見ているようでした。うきうきとする楽しい帰り道でした。
友部正人
11月21日(日) リクエスト大会
16日にニューヨークから戻ってきて最初のライブが今日ありました。
2年ぶりのリクエスト大会が終ったところです。場所は吉祥寺のスターパインズカフェ。130人ぐらいの人が聞きに来てくれて、130曲ぐらいリクエストしてくれました。当然全部は歌いきれません。リクエストの多かった曲の中から20曲歌いました。今までのリクエスト大会では、リクエストされた曲の中から、ぼくが勝手に選んで歌っていたのですが、今回は歌う曲ををお客さんに選んでもらいました。客席から大きな声で曲目を言ってもらうのです。その選曲に従ってぼくはライブを進めていきました。そのせいか今回は今までより聞き手と一体になれた気がしました。
今回は録音エンジニアの吉野金次さんから、吉野さんが取材されるテレビ番組のために、ぼくのリクエスト大会をライブ録音したいという要請があり、ライブを録音してもらうことになっていました。番組の取材チームもやってきて、吉野さんの録音作業と、ぼくのライブ全編をハイビジョン録画してくれました。今のところこの音源や映像をどうするか何の予定もないのですが、もしかしたら将来、CDやDVDにできるかもしれません。いずれにしてもその番組の中では少し流れるはずです。
今年はソロよりも、誰かとのジョイントライブの多い年でした。だから今夜は自分一人の演奏を思いっきり楽しむことに専念しました。聞き手が選んでくれた曲を演奏する作業もとても楽しかった。まだ時差ボケが残っていたのか、大事なところでの間違いが多かったのがとても残念だったのですが。またやりましょう。今夜はゲストもバンドもなかったので、終演後、いつもぼくのライブを手伝ってくれているガンボスタジオの川瀬さんと、ぼくのホームページの管理人をやってくれているはなおちゃんと、ユミとぼくの4人だけで、スターパインズの近くの屋台のラーメン屋さんで、ささやかな打ち上げをしたのでした。大きな木の下の小さな屋台はとても寒かったけど、ライブが終ったばかりのぼくたちにはものすごく気分がいい場所でした。ぼくは疲れていたのか日本酒の熱燗をグラスで3杯もお代わりをして、車に乗ったらあっというまに眠ってしまったということです。
友部正人
11月23日(火) てらこやきっどライブ
今年で4年目のてらこやきっどライブでした。4年も続けているとライブも定着してくるようで、楽しみに待っていてくれるお客さんも増えました。ぼくも次第に場になれてきて、コンサートの中で自分の時間を自由に使えるようになってきました。毎年手探りで進めていたライブはどうしても長くなりがちでした。今年はやっとなれてきて今までより集中したライブになったと感じています。いつもは忙しい、てらこやの代表の高田さんも最後までじっくりと聞いてくれてうれしかったです。てらこやきっどのある基山町では、同じ日の同じ時刻に豊田勇造のライブもありました。基山の勇造ライブはもう25年も続いているそうです。てらこやでのぼくのライブも、毎年の定番になるといいのですが。
友部正人
11月24日(水) 宮沢和史とのライブ
福岡で宮沢和史くんとの二人だけのライブ。主催は去年の11月にもぼくのライブを博多の能楽殿で開いてくれたグループ「ポカラ」です。去年はぼくの描いたイラストの入ったてぬぐいがおみやげでしたが、今年はぼくの描いたイラストをあしらったすごろくがおみやげでした。お正月も近いこともあって、これはなかなかのアイデアだと思います。
宮沢くんとのライブは、歌と詩の朗読の両方に重点をおいたものでした。まずぼくが1時間やり、その後宮沢くんも1時間近く一人でやりました。その後二人で3曲やり、アンコールは二人で朗読2編でした。この日東京では宮沢くんの「セイフティ・ブランケット」が角川文庫から発売されて、その記念にもなるはずだったのに、福岡では発売が1日遅れて、ちょっと残念でした。この文庫本ではぼくが解説を書いています。ぜひ読んでみてください。宮沢くんと二人だけで3時間のコンサートをするのははじめてでした。コンサートでもたくさん話をしたのに、打ち上げでまたいろんなことが話せてうれしい夜でした。
友部正人
11月25日(木) 知久寿焼とのライブ
今夜はやはり福岡で、知久寿焼くんとの二人だけのライブでした。今夜は昨夜とは違って、最初から二人ともステージに立って、ほぼ交代に歌ったり詩の朗読をしたりしたのでした。それから途中でアルバム「友部正人&たま」の中の数曲を再演したり、ライブ盤「あれからどのくらい」の中から演奏したりしました。知久くんは今年新しい曲を2曲作ったそうですが、どちらもぼくは大好きです。
こんな風に知久くんや宮沢くんと福岡でライブができるのも、グループ「ポカラ」の人たちの企画力のおかげです。本当はみんな他に仕事を持っている素人の集団です。大好きなぼくたちの音楽のためにこんなすてきなことを企画してくれました。本当にどうもありがとう。
友部正人
11月27日(土)出石小学校理科室
岡山市の、現在は廃校になっている出石小学校理科室でライブをしました。このライブは倉敷美術館と岡山のギャラリーなど何箇所かで開かれている、ライブハウス「ペパーランド」の主宰者、能勢伊勢雄さんの今までの35年間の活動を総括する「能勢伊勢雄スペクタル」と題された回顧展の一環で行われました。ライブの前にユミと倉敷美術館の展示を見てきました。労働運動、映画制作、ロックマガジンの編集、游学といろんなことに積極的にかかわった能勢さんですが、その中でも新鮮だったのは写真作品でした。詩や文章でよく言葉が立っている、という言い方をしますが、能勢さんが高校生のときに撮ったという写真も最近のポートレート写真も、写真が立っているのです。いつか時間のあるときに、フィルム作品も見たくなりました。
歩くとギシギシっと音がする元小学校の理科室は、ギターや歌も自然に気持ちよく響きました。床に腰かけてぼくを見上げるお客さんたちは、若い人も年配の人もみんな小学生のような目をしていました。今日はためしに「どうして旅に出なかったんだ」を朗読してみました。普段は大声で歌っている作品を朗読するって、ぼくにとっては理科的な実験のように感じました。学校っていろいろとおもしろいことをしてみたくなる場所ですね。
友部正人
11月28日(日) 直島 カフェまるやでコンサート
瀬戸内海の直島にある「カフェまるや」で、二階堂和美さんとコンサート。直島は今年オープンした地中美術館で話題の島です。運転手を務めてくれる藤井くんの車で朝8時に岡山を出発して、午後2時から始まるライブの前に地中美術館に行きました。ぼくとユミはここで、ジェームズ・タレルの作品との思いがけない再会をしました。ぼくたちがジェームズ・タレルの「into the light」という作品に出会ったのは、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で行われていたミニマリズム・アートの展覧会場ででした。光を使っただまし絵のような作品は、知覚を戸惑わせ、不安定にします。その不安定さに慣れようと、しばらく動きたくなくなるのです。そのときは作者がわからないまま、「kokochino」という季刊誌の2号に、ユミの撮った写真を載せ、その下にぼくは短い文章を書きました。だから地中美術館での再会にははっとさせられました。
直島に今年「カフェまるや」を開店した大塚さんは、現代アートが大好きな女性です。直島が気に入って、東京から今年の2月に直島に移り住んだそうです。「カフェまるや」は民家をそのまま使った喫茶店で、自家製のケーキやカレーがとてもおいしいです。観光客ばかりではなく、島の小学生も500円玉にぎりしめてお茶を飲みに来るそうです。
共演者の二階堂さんの歌を聞くのははじめてでしたが、様々な声を使い分けて独特の世界をたくみに表現します。二階堂さんの後に歌うと、自分の歌がぼくには妙に暑苦しく感じられるのでした。このコンサートを企画したのは、東京に住む吉田くんです。お客さんから予約を受ける際に、ひそかにリクエスト曲を聞いていたようで、とても持ち時間では歌いきれないくらいたくさんのリクエスト曲がありました。結局その中からほとんどの曲を歌ったのですが、「ゴールデン・トライアングルのラブソング」を朗読したりもしました。
夜はベネッセ・シーサイドパークのパオに泊まりました。モンゴルの円形テントです。中は意外に広く天井も高いので、予想以上に快適でした。ライブが午後2時からだったので、夕食はベネッセ・シーサイドパークでみんなでバーベキューを食べました。ぼくとユミと吉田夫妻は食べ放題のモンゴルバーベキューを注文して、羊肉を思いっきり食べました。広い敷地にはニキ・ド・サンファールの作品もいくつかあって、直島のシーサイドパークでの一夜は忘れられない思い出になりました。
友部正人
12月8日(水)  いわき、仙台、郡山の旅
3日間の東北ツアーから戻ってきました。12月4日から5日にかけての異常な強風の影響か、そんなに寒くはありませんでした。いわきへはぼく一人で、仙台からユミが加わって二人になり、郡山でマーガレットズロースと合流して五人になり、そのまま彼らの車で東京まで戻ってきました。
12月5日(日)
いわきのホテル・サンルートのレストランで、遠山くん、三方くんと3人でそれぞれソロのライブをしました。三方くんはあぶらすましというバンドもやっていて、一度いわきで一緒にライブをしたことがあります。遠山くんの歌を聞くのははじめてですが、いい声で歌う人でした。長身の三方くんに、今日は身長順に歌います、といわれて、ぼくが最後だったのが悔しかったけど、その通りでした。息子ぐらいの年齢の人たちでも、血のつながりがないと友だちみたいになります。
12月6日(月)
仙台の古本ブックカフェ、火星の庭でライブ。「夜の本屋」シリーズの第5回です。火星の庭は床をはりかえたり本棚を新しくしたりと、店内のイメージチェンジの最中です。壁にはアンティックの外国の絵本が飾られていました。火星の庭の女主人、久美子さんはとてもガッツのある人で、おっさんばかりの古書オークションで競り落としてきたものだそうです。だんなさんのけんちゃんはやさしい人で、買い付けに飛び回る久美子さんの留守を火星の庭で守っています。元々ビデオアーティストで、今回の火星のライブも記録してもらいました。
予約は40人を超えたそうです。それでもまだ少しすきまは残っていました。朗読だけマイクを使い、演奏は生でやりました。本が音を浄化するのか、ギターが気持ちよく鳴っていました。古本は録音スタジオの防音にいいかもしれません。帰り際に久美子さんに「来年も」と言われました。火星での「夜の本屋」シリーズは続きそうです。
12月7日(火)
仙台文学館で向田邦子展を見ました。人気があって、平日なのに大勢人が来ていました。「退屈しないで毎日を送りたい」という向田さんはとてもいきいきと生きた人でした。仙台文学館でぼくはライブをしたことがあり、帰る前に学芸員の渡部さんにお会いしました。「またやりましょうね」と言われました。
郡山のラストワルツには、ぼくたちよりも早く東京からマーガレットズロースが到着していて、すでにリハーサルの準備を終えていました。平井くんは風邪をひいて鼻をぐずぐずいわせています。それでもいつもの柔らかい高音で歌っていました。主催の伊藤さんも、変わった声の人だねと言っていました。マーガレットズロースがくることは宣伝していなかったので、お客さんの反応を彼らは気にしていましたが、そんな心配は無用でした。彼らのまっすぐな歌と演奏にすぐにひきつけられたようです。ぼくはマーガレットズロースをバックに、最近のレパートリー10曲を全部やりました。ラストワルツはモニターの音がとても良く、ぼくは気持ちよく演奏できたのですが、モニターの音がいいと、かえって外の音が気になるものです。だからぼくは気持ちよさというのをあまり信用しないのです。
翌朝、岡野くんが入手した情報を頼りに、郡山郊外のラーメン屋さんに行きました。開店まで一時間近くあったので、その近くの釣堀に行ったのですが、水槽の魚がたくさん死んでいたりして、みんなやる気をなくしていました。車やオートバイを集めているようでしたが、すべて雨ざらしのひどい状態で、すべてが崩壊している印象でした。
そうやって時間をつぶしたかいがあって、ラーメンはとてもおいしかったです。そのまま東北自動車道を走り、赤羽駅まで送ってもらいました。赤羽駅のそばのビルの1室が火事で、窓から火が噴出していました。空は煙に覆われ、子供たちが空を見上げていました。「また来年ね」とぼくたちはマーガレットズロースと別れて、湘南新宿ラインで横浜に戻りました。
12月9日(木) 友部正人文化祭近づく
明日から伊勢、和歌山、神戸、大阪とツアーをします。伊勢ではオーナーでもある外村くん、
神戸では青山さん、いちょうさんとジョイントです。大阪では、最近初CDを出した鎌倉研さんが、ぼくの作った「彼はドアマン」を歌ってくれる予定です。楽しみです。
このツアーから戻ると、いよいよ今年最後のイベント「友部正人文化祭」です。内容もより具体的になってきました。まず模擬店ですが、
ナスマサタカ「ヘンテコフィギュアアート展」
横浜サムズアップ「アジアンフード屋台」
麦マル2「小麦まんじゅう」
ひよこレコード「中古レコード」
グループ・ポカラ「てぬぐいとすごろく」
と5店に増えました。
友部正人のCDや本も販売します。普段持ち歩かないアイテムも並べる予定です。
出演者に変更はありません。オグラの呼び込みは5時開始です。ぼくの歌の合間には、小野由美子のスライドショーや、田口犬男さんの詩の朗読、詩の朗読のオープンマイクなどがあります。ぼくの絵の展覧会もささやかにやります。その後もう一度ぼくの歌があって、9時40分終了予定です。食べ物や飲み物はありますから、お腹の心配はいりません。
ぼくもお客さんと同じ気持ちになれる楽しみな企画です。来年からは芸術大学の一部になる旧富士銀行での最後で一回きりのイベントです。では18日にみなさんのお越しをお待ちしています。
友部正人
12月10日(金)  伊勢、和歌山
伊勢神宮のすぐそばのカップジュビーという喫茶店で3年ぶりのライブをしました。ここのオーナーはシンガーソングライターの外村伸二くんです。カップジュビーというお店の名前は、外村くんが大好きだというサンテグジュペリの本からとったそうです。「星の王子様」はユミが持っているので読んだことがあるけど、他はまだです。サンテグジュペリの本は、ぼくにはまだ見えているのになかなかたどり着かない島のようです。
まず外村くんが30分ぐらい歌いました。「恋、コーヒー」とか「二本のレール」とか、いい歌ばかりです。フィンガリング中心のギターだけでとてもしまった演奏を聞かせます。やせているのに男らしい太い声が、エプロンしたガンマンのようでなかなかかっこいいです。その後ぼくが1時間半ぐらい。朗読をしたり歌ったりと、迷路の散歩のようなライブです。
伊勢神宮のお膝元で生まれた外村くんは、生まれながらの氏子なのだそうです。氏子の外村くんからぼくは、コーヒーを入れるときのドリップの布の絞り方を教えてもらいました。カップジュビーの前の通りは、昼間は大勢の観光客でいつもにぎわっているのですが、夜8時を過ぎるとぴたっと人通りが途絶えます。そうすると神宮の森がより間近に感じられます。

12月11日(土)
和歌山市のホーボーズバーでライブがありました。ここは20人ぐらいしか座れない小さなバーです。最初にかずうさんが歌いました。彼のめずらしい声にはたちまち引き込まれました。でも中はお客さんで一杯でいるところがなく、ぼくは外のテーブルで出番を待ちました。夜はやはり寒かったです。ライブをやるには少し狭いのですが、店主のヒコさんがお客さんを大切にするちょうどいい大きさなのでしょう。歌いに行ったぼくもお客さんになったようでした。ブルースとお酒の好きな人は立ち寄るといいと思います。きっとどこか旅しているような気分になると思います。
友部正人
12月13日(月) 神戸、大阪
神戸VALITではじめてのライブでした。いちょうともなが、青山浩志、丸山茂樹といった若いシンガーソングライターたちに、20歳以上も年上のぼくが加わるという企画ものでした。この新しいライブハウスの特筆すべき点は音の良さです。PAの方は若いのにとてもいい音を作ってくれます。丸山くんは沖縄っぽい歌を歌っていましたが、出身は青森県弘前市だそうです。いちょうくんはプライドという格闘技の選手と一緒にステージに立ち、歌ったりしゃべったりしていました。青山くんはメリハリのある歌をドラマチックに歌う人です。その青山くんから、いちょうくんも入れて一緒に「地球の一番はげた場所」をやりたいといわれました。いちょうくんはこの歌を知らないようでしたが、となりの楽屋で一生懸命練習しているのが聞こえてきました。れていしあというバーで打ち上げをしました。年齢は離れていても、ぼくと同じように歌に生きている人たちに会えてうれしい夜でした。
12月14日(火)
毎年恒例になっている、大阪天王寺にある芝居小屋ロクソドンタでのソロライブです。今回ははじめてのCDを出したばかりの鎌倉研くんにも歌ってもらいました。鎌倉くんはそのCDの中で、ぼくの「彼はドアマン」を歌ってくれています。元々はカントリーっぽい曲だったのが、もっとおしゃれなアレンジで演奏していて、ぼくもとても気に入っています。
今回で4回目のロクソドンタ、劇団キオの人たちや場にもなれてきて、ぼくの新しいホームグラウンドになりつつあります。元々は何もない空間に、劇団員が朝からステージや客席をこつこつと作るのです。たった1回きりのことのためにも、労を惜しみません。ものを作ることが好きじゃないとできないことです。今回ははじめてバーカウンターも作り、ビールやワインを販売したのですが、若いお客さんが多かったせいか、お酒はあまり売れなかったようで残念です。劇団員がネクタイまでしめて、バーテンダーの役になりきっていたのですが。劇団の方たちの感想を聞くと、ぼくは今回が一番リラックスしていたそうです。いつもお客さんを緊張させるのは嫌だなと思っているので、ロクソドンタでもやっと自分の思うライブができるようになってきたかなとうれしくなりました。
友部正人
12月18日(土) 友部正人文化祭
そんなに長くはなかったのに、自分のツアーが終ったら街がお正月のように見えてしかたがなかった。でもまだ一つ、「友部正人文化祭」が残っていたのです。
朝11時前に、いつものようにガンボスタジオの川瀬さんが車で迎えに来てくれました。ギターが2本とCDや本などの入ったダンボール箱、演奏に必要なこまごまとしたものなどを積み、自宅から1キロぐらいしか離れていない馬車道の会場に。もうPAの小俣くんは準備を始めていて、小俣くんと一緒に車で来たロケット・マツは会場のあたりをお散歩です。
岡山から藤井くんが手伝いでかけつけてくれました。主に写真やイラストの展示をしてくれました。本当に感謝。そもそもこの藤井くんが今回の「文化祭」のきっかけを作ったのでした。
福岡からグループ・ポカラの4人も到着しました。彼らは模擬店ですごろくや日本てぬぐいを販売しました。福岡でのぼくのコンサートのお客さんへのおみやげ用に製作された、とてもめずらしいものです。すごろくにもてぬぐいにも、ぼくのイラストが使われています。
サムズアップの佐布さんと小林さんもやがて現れました。すぐに屋台の準備です。アジアンフードの予定が、一部分ハワイアンになりました。でも、スパムにぎりは瞬く間に売り切れたそうです。神楽坂に11月にオープンしたばかりの「麦マル2」も開場間際に到着です。麦マルの小麦まんじゅうも、たちまち売り切れになったそうです。
それから一月に下北沢でオープンする中古レコード店「ひよこレコード」の永友くんもレコードを80枚も引きずってやって来ました。それからナスマサタカくん。かわいらしい樹脂のフィギュアをたくさん持ってきてもらいました。淡い夢のような色使いのロボットや猫がぼくも大好きです。こうして模擬店がそろうころ、オグラくんが建物の外で歌いはじめました。今日は呼び込みで来てもらったのです。
今回のぼくのライブは、バイオリンの武川くんが別の仕事でお休みのため、ロケット・マツと横澤龍太郎の3人で演奏しました。前半は7曲。「働く人」で安藤健二郎くんがクラリネットを吹いてくれました。続いて小野由美子のスライドショー。ニューヨークとタイのカラースライドと、「左目散歩」の中からのモノクロ写真を、ソフィ・セルマーニの歌をバックにスライドショーしました。後で聞くと、このスライドショーは評判が良かったようです。そのせいか、この日の物販で一番売れたのが写真集「左目散歩」でした。
休憩の後はポエトリーリーディングの時間です。まず開演前に外で一時間近く演奏してくれたオグラくんが朗読してくれました。海風が冷たい日暮れの路上で、オグラくんは自作の手回しオルガンをバックに熱唱してくれました。詩の朗読も板についたもので、とても堂々としていました。その後はオープンマイクでした。観客の中から5人が自作の詩を読んでくれました。この日のために詩を書いてきた人もいれば、チューニングしていないギターをかき鳴らしながら詩を暗誦する人もいました。その後詩人の田口犬男さんが登場。動物や物についての詩をなぞなぞにして、聞き手参加型の朗読に挑戦しました。正解だと詩集がもらえるのです。でもみんな感がいいのかすぐに当ててしまいました。ぼくも心の中で正解をつぶやきました。田口さんはテキストに没頭せずに、ちゃんと観客を見て朗読します。田口さんとの朗読のツアーなんていうのもいいかもしれないなあと思いました。
二回目の休憩の後、ぼくの後半のライブです。「ジョン・レノンとピカソ」「Speak Japanese American」の新曲2曲を入れて9曲演奏した後、アンコールに「遠来」それから安藤くんと二人だけで、新曲の「おやすみ12月」を演奏しました。
いろんな要素を取り混ぜた「文化祭」、主催のBankART1929の方たちからもとてもよかったと言ってもらいました。横浜ならではの古い美しいビルで、こんなわがままな企画ができてぼくもとてもうれしかったです。来年も十二月に、こんなことができたらまた楽しいでしょうね。

友部正人
12月19日(日)矢野絢子
横浜駅の近くストーブスで、昨日の「友部正人文化祭」に福岡から参加してくれた、グループ・ポカラの田中カップルとお昼を食べて、彼らを東横線の改札口で見送った後、ぼくとユミはみなとみらいのランドマークタワーに、高知の矢野絢子さんのライブを聞きに行きました。矢野さんに会うのは、ぼくの9月の高知ライブの時以来です。
5階まで吹き抜けになっている場所に、巨大なクリスマスツリーが飾られていて、そのすぐ横で小柄な矢野さんがグランドピアノを自分の気持ちをなぞるように弾きながら歌っていました。階段にも各フロアのてすりにもたくさんの人がいて、矢野さんを見下ろしていました。矢野さんもときどきそんな人たちを見上げていました。30分の短いライブの後ステージ裏を訪ねると歓迎してくれて、そのままFM横浜の楽屋へ。10階の窓からみなとみらいの景色をながめながら、とりとめのないことを話して、ぼくたちはまたクリスマス前の雑踏の中に。矢野さんの歌を知らない人も多かったはずなのに、みんな歌に釘付けになっていたのが印象的でした。あのちょっとへんてこな立ち振る舞いと、魂から直接すべり出てくるような声が、聞く人の耳にも、プロの打つゴルフボールのように飛び込んでいくのでしょう。
友部正人
12月27日(月) 横浜、ディラン
「友部正人文化祭」の数日後、来年からBankART1929が使うことになっている日本郵船の倉庫を下見に行きました。先日の旧富士銀行の何倍も大きな倉庫でした。運河に面していて、対岸には赤レンガ館がすぐ近くにあります。ぼく一人のライブには大きすぎるのですが、模擬店などが出る文化祭ならだいじょうぶ。来年もぜひまたやろうと思いました。横浜に来てはや8年、そろそろどこかに移ろうかと考えていたのですが、BankARTとの出会いで、もう少し横浜にいそうな気配です。
ボブ・ディランの自伝「クロニクルズ」を読み終えました。ボブ・ディランの散文は読みやすく、知らない単語にでくわしても苦にならずに読めました。文章を読んでも、ディランとは気が合うところがあるからかなと思います。詩と音楽でディランが一番影響を受けたのはウッディ・ガスリーだということはよく知られていますが、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」、ブレヒトの「海賊ジョニー」、ロバート・ジョンソン、ランボーにも強い影響を受けたようです。ぼくと好きなものが共通しているのは、元々ぼくがディランの影響を受けているからかもしれません。でも好きなものに共通点が多いと、やっぱり気が合うのかなと思ってしまいます。パフォーマーとしては、ランブリン・ジャック・エリオットとデイブ・ヴァン・ロンクに強い影響を受けたようです。ファーストアルバムの中の半分の曲はデイブの演奏に習ったと書いています。ぼくもデイブの晩年の何年間か、ニューヨークに行くたびにデイブのアパートに通い、ブルースギターを教えてもらっていたので、ディランが書くデイブの特徴に深くうなずくばかりでした。
ウッディを本当の父のように感じたというディランですが、ロバート・ジョンソンにも血のつながりのようなものを感じたようです。ロバート・ジョンソンのすごさを力説しているところで、生前のロバート・ジョンソンの8秒間の映像が存在することがわかりました。ちょっとこれはびっくり、探してみようと思います。
友部正人