友部正人より 
友部さんからのお便りのご紹介です。

 
2002年1月1日(火) 「お正月」
新年明けましておめでとうございます。昨夜は夜更かしをして、今日は12時ごろ起きました。
新聞を買いに外へ出たのですが、まだたいていのお店はしまっていて、開いているレストランは超満員です。洗濯をしてから、お雑煮と日本酒で「明けましておめでとう」をしました。
午後からは、友人に誘われてパーティーにでかけました。
そこのヒロくんという人は、料理の天才です。彼が三日かけて作ったと言う正月料理をごちそうになりました。
たぶん日本でも、あれだけの料理はお正月になかなか食べられないのではないでしょうか。
帰りに途中で地下鉄を降りて、イーストビレッジのセント・マークス教会でやっている詩の朗読会をのぞきにいきました。
ちょうどパティ・スミスの朗読が始まるところで、教会の中は超満員です。パティ・スミスはクラリネットがだいぶうまくなっていました。それから、フィリップ・グラスがピアノで一曲演奏しました。レニー・ケイやリチャード・ヘルも見られて、ちょうどいい時間に行ったみたいです。ただ、一番聞きたかったハル・シロウィッツの朗読が聞けなかったのがとても残念です。
ぼくはいつか、このハル・シロウィッツの詩を訳してみたいなと思っています。
友部正人
1月2日(水) フランク・クリスチャン
フランク・クリスチャンに会いに行きました。
少し太ったフランクは、ヒーターの止められた部屋で寒そうにしていました。アパートのオーナーが変わって、追い出されかかっているそうです。今住んでいる人たちを全部追い出して、家賃を上げたいのでしょう。
裁判所の決定次第ではすぐにアパートを出なくてはならないので、部屋の中は引越しの前のようでした。でも、25年近くも住んだ部屋を離れなくちゃならないのはきっとつらいことでしょう。
寒さを和らげるためにカーテンを締め切った薄暗い部屋には、天井の明り取りからの冬の光がさしていました。
そのあとディーン・アンド・デルーカでコーヒーを飲み、古本屋のストランド書店に寄って、アカデミーという中古CD屋に寄って帰りました。いつものコースです。
ストランドでは、ベン・シャーンの画集と、ストランドのマークの入ったマグカップを買いました。
友部正人
1月4日(金) 月の満ち欠け
去年の春に友達から借りていたマリアンヌ・フェイスフルの自伝をやっと読み終えました。前にこの欄で、この本はローリング・ストーンズのことについての本である、と書いたことがありますが、これはそうではなくて、彼女の薬物依存から立ち直るまでの話です。ミック・ジャガーと別れた後、2年ぐらいホームレスになったり、「ブロークン・イングリッシュ」でカムバックした後、どんどん麻薬にのめりこんでいったり、本当に壮絶な人生です。結局は依存症の人たちが参加するミーティングに通って薬物依存から完全に立ち直るのですが、薬物依存の人の気持ちは、薬物依存だった人にしかわからない、ということや、自分以外の人が薬物依存から抜け出す手助けをできるようにならなければ、本当には依存から立ち直ったことにはならないとか、なるほどな、と思うようなことがたくさんありました。ミーティングに通うようになってからできた恋人が、彼女よりも深刻な依存症だったということも、なんとなくわかります。それまで友だちだと思っていた人にいくら説明しても、依存症のことはわかってもらえないからです。
本はやっぱり最後まで読むものです。
もう一つ訂正があります。ボトムラインでダン・バーンは、一曲も新しいアルバムからはやらなかったそうです。それどころか、今までのアルバムに収録したことのある曲は一曲もなかったそうです。ファン・サービスかもね、と友だちは言っていました。ぼくはまだ聞いていなかったダン・バーンの新しいアルバムを聞いてみました。バンドがついていて、とてもかっこいいです。
前にこの欄で書いた「ライス」も入っています。
もう一つ訂正、お正月は満月ではありませんでした。たぶん30日ごろがそうだったのでしょう。今日見たら、もう半分ぐらいに欠けていました。今は月の出の時刻が遅いので、朝になっても見られるのです。たぶんこの月が、欠けてなくなっちゃうころに日本に帰るのかもしれません。
友部正人
1月8日(火) 橋で遊ぶ
「ケイトとレオポルト」という、メグ・ライアン主演の新しい映画を見たその次の日に、どうしてもブルックリン・ブリッジに行きたいとユミが言うので、ぼくたちははじめてブルックリン・ブリッジを歩いて渡りました。
ブルックリン・ブリッジは、マンハッタンとブルックリンを結ぶマンハッタンで一番古い橋なのですが、映画では、1876年ごろと現在のニューヨークを結ぶ役割を果たしています。つまり、これはタイムトラベルの話なのです。19世紀の貴族と現代のコマーシャル製作会社のエリートが出会うという、実際にはありえない話なのですが、これがおもしろいのです。
そこで橋まで行ってみたのですが、どこにもそんな魔法らしきものは見つかりません。ただ、石造りの釣り橋が、昔のまま今も存在しているだけです。ただ、その容姿は非常に美しく、何度も訪れる価値はあります。橋の真中から眺めるマンハッタンとブルックリンの景色は格別です。
ブルックリン・ブリッジを訪れた翌日雪が降っていたので、ぼくたちはもう一度橋をたずねてみることにしました。
雪は朝から休みなく降りつづけていたのですが、暖かいのでまだ積もってはいませんでした。前の日にはブルックリンまで渡ったので、二回目は真中まで行って戻ってきました。暖かいとはいっても、雪の中、長時間外にいると身体の芯まで冷たくなります。
写真を撮った後は、ずっとスターバックス・コーヒーで暖かくなるのを待ちました。すぐ前の葉巻屋の二階に、軍隊への入隊を受け付ける事務所があって、1990年の夏にぼくがイラクのバグダッドで見た、街の中の光景を思い出していました。そのころイラクでは戦争への緊張感が高まっていて、街頭では入隊志願者たちが長蛇の列をなしていました。
ニューヨークの街角の事務所には、入隊志願者の列はありません。
戦争に対する関心の薄さを表しているような気がしました。その夜ぼくたちは、また映画を見に行きました。約3時間の大作「指輪物語」です。英語はかなりわからなかったけど、画面はすごい迫力でした。ぼくはフランク・クリスチャンと飲みに行く約束をしていたのに、待ち合わせ場所のグリニッジ・ヴィレッジのバーで1時間ぐらい待っててもらって、最後まで見てしまいました。
外に出るとまだ雪は降っていて、ブロードウェイ沿いの古い建物は、なぜか魔法にかかったように違って見えました。
友部正人
1月10日(木) 帰る直前
今日が今回のニューヨーク滞在の最後の日でした。
ソーホーのUsed Book Cafeで、友だちのメグとお昼を食べました。ぼくたちが最近ニューヨークで見た映画の話をしました。ぼくたちがメグ・ライアンの「ケイトとレオポルド」がおもしろかったと言ったら、笑われてしまいました。
メグ・ライアンはあまりヒップではなかったようです。
彼女は「ビューティフル・マインド」がいいよ、と言っていました。
ぼくたちは、ケビン・スペイシーの「Shipping News」がよかったと言いました。
こうなれば、応酬の連続です。でも、すぐに種はつきてしまいました。
「Shipping News」はきれいな映画でした。せりふもなんとなく全体にシンメトリーになっていて、余裕の感じられる映画でした。もっとよく知りたいと思い、原作も買いました。この作家の他の作品も面白そうなので買いました。今、荷造りをしているのですが、買ったものがいろいろありすぎて、かばんのチャックがしまりません。
さて、何をおいていこうかと、今度は引き算をはじめています。
足していくとき、その限度がまだ見極められません。だから、いつもこういうことになります。特に今回は、来るときに荷物が少なかったので、安易に小さなかばんにしたぼくがいけないんだと思います。
あっという間の18日間でした。休暇になったのやら、ならなかったのやら、もうすでにニューヨークにいるということすらあまり新鮮ではなくなってきていて、一度ここからさらに南の方にでも行きたいな、なんて考えています。メキシコにオハカというすばらしい町があるそうです。そんなところに行ってみたいな、なんて考えます。
友部正人
1月13日(日) 2週間遅れの正月気分
夕べ日本に戻ってきました。
久し振りに横浜駅周辺を歩くと、福袋を下げた人たちが歩いていて、日本はまだお正月気分です。
ニューヨークではなかなかお正月という気分になれません。年が明けた瞬間だけです。町中の人々が「ハッピー・ニュー・イヤー!」と声かけあうのは。
その翌日からは、もう学校や仕事がはじまります。
成人の日の連休に横浜で、ぼくたちはやっとお正月の気分にひたっています。
夕方から、山下公園の近くの「草木土」というレストランの4周年と、そこでシェフをやっていた田島野歩くんのフランス留学を祝うパーティーがありました。立食形式のパーティーは、60人ぐらいの人でいっぱいで、ぼくもたくさんビールを飲みスパゲティを食べました。
そのうち次々といろんな人がライブをはじめたのですが、これがなかなか楽しかった。ぼくもおおたか静流さんと「ほしのこどもたち」「夕日は昇る」などをやりました。
最後に野歩くんの父親の田島征三さんが、ぶらりと現れた灰谷健次郎さんと二人で漫才のような挨拶をしました。このパーティーがあるから、ぼくたちは昨日の夜に日本に帰ってきたのでした。
友部正人
1月15日(火) ゴドーを待ちながら、立ちぐいそばを
ぼくらの古い友人の藤原弥生さんの最近のお気に入りは、渋谷駅の二階にある立ち食いのそば屋さん。
そこにそばを食べに来る人たちが、みんな一人ぼっちなのがいいそうです。グループの人たちはあまり見かけない。
それから、働いている人たちがもう若くはないおばちゃんたちであることも、弥生さんの感覚を刺激しているようです。
南青山の最も都会的な場所で暮らす独身の弥生さん、年令とともに目線が少し変わってきたみたいです。
シアター・コクーンで「ゴドーを待ちながら」を3人で見た後、そのそば屋に行きました。たしかにみんな一人でもくもくとそばやうどんを食べています。会話なんてどこからも聞こえてきません。おばちゃんたちが注文を調理場に伝える威勢の言い声が響くだけです。
「ゴドーを待ちながら」の緒方拳さん、すごくよかったです。
表情や仕草がとても自然で、人をうっとりとさせるかわいらしさがありました。ぼくの古い友人の朝比奈尚行さんは、けたたましいキャラクターをのびのびと演じていました。
あまりにものびのびとしていて、演技だとわかっていても、演技だということをいつのまにか忘れていました。
串田和美さんは演出家でもあるので、朝比奈さんとは対照的にどこまでも冷静です。本当に久し振りに芝居を見ました。
役者から見られているのも忘れるくらいぼくは夢中になりました。
友部正人
1月18日(金) 富士五湖ドライブ
御殿場から富士五湖をぬけて甲府まで、元バンバンバザールの安藤君の運転する車でハーパーズミルに歌いにいきました。
天気はよくなかったけれど、はじめてのコースは刺激的で、ドライブ気分を味わうことができました。
今年17回目になるハーパーズミルでのコンサート、年々お客さんの数は減っているような気がするけど、終わってみるといつも、来てよかったなあと思えるのです。
同じ場所にいて、少しずつ変化していく坂田くん一家の様子を眺めるのも楽しい。
10月にコンサートをした、都留のテコラッテの3人兄妹も来てくれました。
帰り道は中央道を一直線、2時間とちょっとで横浜まで戻ってきました。ぼくはずっと眠っていましたが。
それにしても、御殿場から富士吉田のあたりって、あんなに横浜から近かったのですね。
また誰か車を持っている人を誘って行ってみたい。
友部正人
1月22日(火) ジャック・エリオット
「バラッド・オブ・ランブリン・ジャック」をやっとDVDで見ました。
1時間50分くらいのドキュメンタリー映画なのですが,1回目は時差ぼけで寝てしまい、もう一度見ました。
日本語の字幕がないので、2回ぐらい見たほうがよかった。
それで、やっぱりぼくはジャックが好きだなあ,と思いました。
おそらく、ピーター・ポール・アンド・マリーやキングストントリオなどのフォークブームのころだと思うけど,ジャックはインタビューアーの質問に答えて,「フォークはあんな風に高らかに歌うものではない。語るように歌うのが好きだ。」と言っているからです。ぼくが当時そういったフォークに感じた違和感を、ジャックもまた持っていたわけです。
何回も結婚をしても、子供ができるとすぐにまた旅に出てしまったジャック。ジャニスという女性に出会ってやっとカリフォルニアのサウサリートに落ち着いていたのに、そのジャニスが去年,肝硬変で亡くなってしまいました。それからぼくはジャックに会っていないのですが,どうしているのでしょうか。
友部正人
1月23日(火) 魔法使い
今日は、近江八幡の酒遊館でライブがあります。
「休みの日」の発売記念と、主催のイシオカ書店のブックカバーが賞をもらったので、そのお祝いもかねています。ブックカバーにはぼくの描いた絵がちりばめられています。
今年に入って、甲府、吉祥寺、新潟,高岡とライブをしてきました。吉祥寺のスターパインズカフェでは、ムーンライダースの武川君や、『休みの日』の中の「働く人」という歌でクラリネットを吹いてくれた、元バンバンバザールの安藤君がゲストで来てくれました。
『休みの日』の中の曲ばかりでなく,今までのアルバムの中の曲も合わせて,10曲以上武川君や安藤君と演奏しました。
特に一番最後にやった「ガーディナーさん」は、安藤君のピアニカと武川君のトランペットが絶妙に重なって,とてもいい音になりました。「私の踊り子」で武川君がトランペットを吹くと、踊り子がメキシコ人っぽくなるのでした。「雨の音が聞こえる街」の武川君のバイオリンは、この歌を官能的にしてくれました。楽器が一つ入るだけで、歌は全く予想もしなかった表情を見せてくれます。「ロックンロール」の安藤君のピアニカは、ぼくのハーモニカと一緒になって、教会のパイプオルガンのような音色になりました。
楽器の音色は魔法です。それを鳴らすミュージシャンは魔法使いです。
友部正人
1月31日(木) 明日から2月
先日、詩人の工藤直子さんと対談しました。横浜のストーブスというお店で。そのときのことは、いずれ「雲遊天下」のぼくの連載「補聴器と老眼鏡」に書きます。
困ったことに、そのときの対談をぼくは録音しそこねたみたいです。
不思議でならないのですが。
途中何度もDATのテープが回っていることや、録音レベルも確認したのですが、実際には全然録音されていませんでした。
話の内容はすぐに思い出しながら書きとめたのですが、どうしても再現できないのが、工藤さんの語り口調です。
この感じをつかむには、原稿を書く前にもう一度お会いしなくてはならないかもしれません。
それにしてもこんな大失敗今までしたことがありません。
実はまだこのこと、工藤さんには話してません。
今日は寺岡呼人くんのプロジェクトで製作している合作の曲の歌入れをしました。歌入れといってもほんの8小節です。その部分の歌詞はぼくが書きました。
語り調にという希望だったので、語りです。
おもしろい曲になりました。CDにはまだまだなりそうもないので、早く聞きたい人は、2月16日のライブにどうぞ。
おそらくこの日記がホームページにアップされるころは、「ライブ・ノー・メディア2002」の初日が終わっているはずです。そしてぼくはちょうど九州で歌っているでしょう。
「ライブ・ノー・メディア」と平行して、「I NEED A VACATION TOUR」も続きます。でも、そろそろ終わりは見えてきましたね。
途中かぜをひいて声が出ない日も2日ほどあったけど、こんなに長いツアーは初めてで、歌うのならやっぱりほとんど毎日、というのがぼくは楽しい。
友部正人
2月3日(日) Live no media 2002
Live no media 2002 の第一日目が今夜ラ・カーニャでありました。その報告です。
約1年2ヶ月ぶりのLive no media、今回は会場を小劇場のザムザ阿佐ヶ谷から、下北沢の洋風居酒屋へと移しました。
「働く人」を、クラリネットの安藤くんとぼくとで演奏してライブははじまりました。ぼくが3篇ほど新しく書いた詩を朗読して、水谷紹くんに交代。水谷紹くんの詩はだんだん変になってきておもしろいです。歌も2曲歌ってくれました。
青柳拓次さんはハワイ帰り,タミーさんというパーカッションの女性と、波の音の聞こえるような朗読を聞かせてくれました。
伊藤ヨタロウさんは日本調、自分では講談と言っていましたが、確かに言葉と音だけで世界を作り、聞き手を包んでしまいました。合いの手のようなギターとピアノでした。
遠藤ミチロウはゆっくりとした「カノン」ではじめ、おれの言葉はセックスだ、というような詩を早口で朗読しました。
谷川俊太郎さんと同じように、何でも詩になってしまう人かもしれません。
最後にもう一度ぼくが出て、ぼくが訳したボブ・ディランの「ブラインド・ウィリー・マクテル」を朗読し、安藤君のピアニカと一緒に「ロックン・ロール」を演奏して終わりました。
今夜のお客さんは割と少なくて、はじめてゆったりと聞ける「ライブ・ノー・メディア」でした。
ぼくは次回は、自作の他に、ハル・シロウィッツの詩を訳して読んでみます。
明日から、ぼくは九州です。
友部正人
2月4日(月) 鹿児島
鹿児島のT-BONEは小さな店ですが,気持ちのいい店です。
店主の本山さんの笑顔がいいです。
約2時間のライブでしたが,終わってから,三代目魚武濱田成夫さんが駆け込んで来ました。今,鹿児島で一軒家を借りて住んでいるそうです。家で原稿を書いていて,時計を見て大急ぎで、鹿児島で買ったママチャリに乗り飛んできたのですが,間に合わなかったのでした。
魚武さんは自分の企画で、1ヶ月半ずつ日本各地で暮らす,ということを今やっているそうです。福岡では一泊50万円のホテルに泊まってみたり(毎日ではない)、群馬県では電気も水道もない廃屋に暮らしてみたそうです。ぼくも昔から、歌いに行くとその町に住んでいる自分をいつも想像していました。ぼくの場合は想像だけでしたが。
魚武さんのこの暮らしは週刊ぴあで読むことができます。
いつか単行本になるということでした。魚武さんの出現はいつも刺激的です。
友部正人
2月5日(火) 軍艦島
鹿児島から長崎までは串木野からフェリーで行きました。
自動車が何十台も積める大型のジェットホイール(水中翼船)です。鹿児島から長崎まで,JRだと6時間くらいかかるのに、これだと4時間くらいで行けます。ただ、出航時間が毎日変わるので要注意。
 
船内は広々としていて,乗客はまばら。無料で借りられるノート型パソコンでこのホームページを見たりしました。
長崎に着く前に軍艦島という島の脇を通りました。
海底から石炭を掘っていた頃に作られた人口の島で、狭い島の上には今も、びっしりとビルが建っています。
小さな小さなマンハッタン島のようです。荒れ果てたビルの中には生き物の住む気配はありません。完全に死んだ島です。島が見えている間中、ぼくは目を離すことができませんでした。この世のものではないものを見たような気がしました。
友部正人
2月9日(土) 空から墜ちた
黒田征太郎さんの本「空から墜ちた」を、本のデザインをした塩澤文男さんが送ってくれました。
この本は、昨年のワールド・トレード・センターの事件の直後に、黒田さんが友人達に送った無数のイラストや手紙をまとめたものです。無念さがにじみ出ています。
黒田さんはこの中で、アメリカのとげ、ということをしきりに書いています。日本人の骨にささったアメリカのとげ、それは知らず知らずのうちにぼくにもささっていたものかもしれません。ぼくが人生を決めたのは、ボブ・ディランなどのアメリカの歌によるからです。
日本にいると、アメリカ以上にアメリカを感じます。それが嫌でニューヨークへ行きたくなる、という変な事態が生じています。今のブッシュの異様な言動と、今の日本の異様な対応は、地球にささったアメリカのとげのせいかもしれません。この「空から墜ちた」を読むことをすすめます。
新風社から出ています。本屋でなかなか見つからない場合は、03-5414-3491(新風社) にお問い合わせください。
友部正人
2月10日(日) 充実した夜
今夜はライブ・ノー・メディアの2回目でした。
開場一時間前から、ラ・カーニャの入口には長い列ができ、谷川俊太郎さんの人気の高さを示しました。
まずぼくが最初に、ぼくが訳したハル・シロウィッツの詩と,自作の詩を何篇か朗読しました。今夜は初めから朗読のみです。二人目は一番若い東雄一朗さん。
名前の中にも朗読の朗の字があるように、何年も前から朗読一筋の人。「オメガスパイシー」のコール・アンド・
レスポンスは谷川さんの胸にも焼きついたようでした。
田口犬男さんは、詩集「モー将軍」の中の「トマスの人生」と、新作を朗読しました。はだしになって、前後に身体を揺すり,リズムをつけながらの熱演でした。田口さんの詩の中に、言葉がトランプのカードのように並べられていきます。
別の詩を読む時,またカードを切りなおして並べ替えるのです。
同じカードでたくさんの物語ができあがります。
以前、ラジオ番組に出た時会った御徒町カイトくんが客席で聞いていたので,1篇だけ飛び入りで朗読をしてもらいました。
尾上文さんは、朗読を歌の世界に持ち込みました。
もう15年以上も前に、そのスタイルで「ボーイ・ミーツ・ガール」という二人組のバンドをはじめたのです。この人の空をかけるような詩と朗読はすばらしく、いつもCDを聞いていましたが,ライブで朗読を聞くのははじめて。自分で録音してきた音楽も使っていました。
そして最後は谷川俊太郎さんです。谷川さんは「日本語のカタログ」の中から2編と未発表の詩をいくつか朗読しました。「日本語のカタログ」を読むのはめずらしいことだそうです。谷川さんの詩はどの詩も実験的ですが、どの詩も楽しいのが特徴だと思います。
からっとしていてあとくされがない。それは田口さんの詩にもいえることです。ぼくはこういう詩が好きなのかもしれません。詩の中にはまだ人間の言葉を知らない生き物がして、きっとそれが楽しいのでしょう。
今夜は最後にぼくが「反復」と「言葉の森」を歌って終わりました。
友部正人
2月17日(日) ライブ・ノー・メディアの3週目
今日の朗読会に出演してくれた人たちは、みんな手に楽器を持ってました。
宍戸浩司さんはエレキギター、サヨコさんは小さな太鼓とカリンバ、知久寿焼さんは口琴とウクレレ、そしてオグラくんは偽物の手回しオルガンです。
宍戸浩司さんは詩の朗読と演奏を交互に、一つの時間の流れを作っていました。相変わらずいい声でした。
サヨコさんは声だけを自由に使い、ぼくの想像をかきたてました。とてもいい声でした。
知久くんはウクレレで、おもしろいリズムの歌を歌ってました。「アンテナ」の朗読、とてもよかった。
いい声でした。
オグラくんは首からにせ手回しオルガンを下げて、大道芸人のようでした。もともとそういう素質のある人です。自分に近づいたともいえます。
オグラくんの朗読はとても受けてました。
べらんめえ口調のとてもいい声でした。
このように、今夜はみんなとてもいい声で朗読をしてくれました。おかげで聞いていた人たちの気分もとてもよくなったようです。
終演後、なかなかみんな立上がって帰ろうとしませんでした。
ぼくは新しく書いた「アメリカの匂いのしないところへ」という詩と、ぼくが訳したパティ・スミスの詩などを朗読しました。
開演前と終演後は、先日亡くなったデイブ・ヴァン・ロンクの演奏を流しました。
先日、寺岡呼人くんのプロジェクトに参加して、「アイ・ラブ・ユー」という曲のほんの一部を作詞してそれを朗読したのですが、今夜はまるでその歌詞のような夜でした。
それは、こんな歌詞です。
「駅の雑踏の人たちも、みんな手に楽器を持っている
朝の通勤の人たちも、みんな手に楽器を持っている
雨の中の人たちも、みんな手に楽器を持っている
笑っている人も泣いてる人も、みんな手に楽器を持っている」
とってもいい歌なので、このシングル盤が出たら、聞いてみてください。
友部正人
2月18日(月) デイブ・ヴァン・ロンクの死
ぼくがはじめてデイブと会ったのは1989年の京都でした。
磔磔でぼくはデイブの前座をつとめました。それから、東京のR’s アートコートでも共演しました。デイブと奥さんのアンドレアに、「遠来」がよかったといわれました。
1994年に、ニューヨークでデイブとアンドレアに再会しました。
そのとき、デイブのブルースとラグタイムのギター教則本ビデオをもらいました。いまだに全曲は弾けないでいます。
1996年の「夢がかなう10月」のニューヨーク録音で、フランク・クリスチャンやエンジニアのアーサーやスタジオを紹介してもらいました。フランクやアーサーとは今もつきあいが続いています。この中でデイブには2曲参加してもらいました。
「キャンディマン」と「灯台」です。「灯台」では日本語でコーラスをつけてくれています。
アルバムのプロモーション用ビデオの撮影でも大変お世話になりました。デイブのアパートでみんなで晩御飯を食べているところを撮らせてもらったのです。デイブはそのために、お昼から料理を作ってくれました。
フィラデルフィア郊外でフォークコンサートがあったとき、ぼくはユミとはるばる聞きに行きました。デイブはぼくらのために、会場までの送り迎えやモーテルの手配をしてくれました。
このときのデイブはとてもしあわせそうでした。あんまりにこにこしているものだから、奥さんのアンドレアも首をかしげていました。
ぼくははじめて、生で「朝日のあたる家」を聞きました。
デイブのほかには、ザ・バンドやトム・ラッシュが出ていました。
それから、デイブのアパートでギターを習うことになりました。
だいたい1回1曲のペースでしたが、むずかしい曲のときは2日にわたることもありました。デイブが現代風にアレンジした古いブルースの弾き方を習ったのです。中には、デイブがまだレコーディングしていない曲もありました。
どの曲も細かく弾き方が決められていて、中には最後まで習得できないものもありました。でも、行き当たりばったりで演奏するような曲は1曲もなかったのです。それがぼくには新鮮でおもしろかった。
デイブのアパートはシェリダン・スクエアにあって、ぼくが行く時刻にはドアがいつも半開きになっていました。
台所の前を通ると、いつも大きなカップにコーヒーを入れているところでした。デイブは本当によくコーヒーを飲みます。
通路にも居間にも本がぎっしりとありました。コーヒーテーブルの上には、読みかけの本や新聞やニューヨーカーなどがふせてありました。話をするとき、いつもていねいでした。
よく、日本に行ったときの思い出話をしました。食べ物が忘れられなかったようです。だからぼくがもう一度日本に呼びたかったのです。そのときは直行便はきついので、サンフランシスコ経由にしたいな、と言っていました。
大きな体に14時間の旅はきついよね。
一緒にバルドゥッチに買い物に行ったこともあります。
6番街にある有名なイタリアンの食料品店です。
冬だったので、通りの街路樹にはツララが下がっていました。それは洋ナシの木でした。
ボブ・ディランがはじめてニューヨークで借りて住んでいたというアパートも教えてもらいました。「淋しき4番街」のウエスト4ストリートです。そのアパートのすぐ前あたりで、「フリーホイーリン」のジャケット写真が撮られたのでした。
一緒に写っているスーズ・ロトロは今もそのあたりに住んでいるそうです。
デイブのところに居候していたとき、ボブ・ディランはいろんなものをデイブから吸収し、みるみるうちにスターになっていきました。
デイブはその後もずっとグリニッヂ・ビレッジにとどまり、ギターの先生をしたり週末には地方に歌いに行ったりして暮らしていました。
そんなデイブの歌をぼくが日本で聞いたのはぼくが21ぐらいのときです。
白人なのに限りなく黒人に近い魂をデイブの歌に感じました。
それから忘れられない人になったのです。ですからぼくは、30年ぐらいデイブの歌とギターを聞きつづけてきていることになります。
まさか本人からギターを習うようになるとは思いませんでした。
今もまだちゃんとは弾けないのですが、いつかデイブの「ヒー・ワズ・ア・フレンド・オブ・マイン」をデイブのために歌いたいと思います。日本人の手は小さいことを知っているくせに、自分と同じように弾かせようとしたデイブは、ずるを許さないきびしい先生でした。
人間の一生なんて短いものです。でも、だからこそ克明にいろんなことを思い出せます。ぼくがデイブから聞いた話は、「雲遊天下」28号に載っていますから、ぜひ読んでください。
デイブ・ヴァン・ロンクは2002年2月10日に、65歳で亡くなりました。結腸癌でした。
どうもありがとう、デイブ。
友部正人
2月20日(水) 映画「息子の部屋」
やっと「息子の部屋」を見ることができました。
実は、ユミがずっと見たいといっていたのですが。
女性が1000円の日だったので、ボックス・オフィスは長蛇の列。上映に間に合わないかもしれないとちょっとはらはらしました。
何気ない日常の風景なのに、息つぐまもなく画面に見入ってしまうのです。本当のドラマとはこういうものなのかもしれません。
ストーリーとは関係ないのですが、主人公の精神分析医が患者に、「怠けなさい」と言ったのがぼくにはずしりとこたえました。ぼくはずっと、怠けてはいけないと思っていたのです。
その精神分析医の長男が水難事故で死んでから、家族は悲しみの底に沈んでいきます。そのとき、ブライアン・イーノの「バイ・ジス・リバー」が流れてきます。この詩がすごくよくて、ぼくはその日の夕方、渋谷までその曲の入っているCDを探しに行きました。
今、それを聞きながらこれを書いています。
静かな静かな曲です。
空が高くて、そこから永遠に落ちつづける空。二人がいて、遠くからの質問に答えるように、未来からの声が聞こえる。こんなことを歌にした時代があったんだなあ、と思います。
日常のことは、人間にはどうしようもないこともあるのです。
そんな気持ちがする主題歌でした。
映画の中で父親はこのCDを死んだ息子にプレゼントするのですが、ぼくはこの映画に誘ってくれたユミにプレゼントしました。
友部正人
2月22日(金) 「ライク・ア・ローリング・ストーン」
このところまた、「ライク・ア・ローリング・ストーン」をやる機会がふえています。
今から10年くらい前、グルーヴァーズから頼まれて日本語にしてみた「ライク・ア・ローリング・ストーン」、つい先日は、寺岡呼人くんのイベントでやり、ゆうべは三宅伸冶くんの横浜でのライブで飛び入りでやりました。なんだか、高校生のころに戻ったみたいです。
高校生のころぼくは、毎日このシングル盤を持ち歩いていました。歌のバイブルにしようとしたのです。
九州でこの詞を日本語で朗読したら、「泣いてしまいました。」
という女性がいました。やはりボブ・ディランはすごいなあ。
彼の頭の中からいくつものベールをくぐりぬけて、日本語になって届いた詞に感動する人がいるのだから。
どんなに距離があっても、直接的なのです。
すごいスピードと勢いのある詞です。
言葉は英語だとか日本語だとかの殻を借りて存在していますが、中身は同じなのだと思います。
現物が届いているわけです。すばらしいと思いませんか。
友部正人
2月25日(月) ライブ・ノー・メディア2002終了
ライブ・ノー・メディア2002が終わりました。
昨日もたくさんの人たちが聞きに来てくれました。
また、出演してくれたたくさんの人たち、どうもありがとうございました。
まずぼくがいつもどおりに最初に朗読をしました。「ディブ・ヴァン・ロンク」という詩やダン・バーンの歌詞を日本語に訳したもの,「ちんちくりん」の本のなかから、アメリカ放浪のエッセイなどを読みました。
次に山川ノリオくんを紹介しました。相変わらずすごいエネルギーで、芯のある人だと感じました。新しい「ロック」という詩がよかったです。
寺岡呼人くんは、最初に子供のころの記憶から書いたと思われるとてもきれいな詩をまず読んでくれました。それから現実なのか虚構なのかはっきりしない、死刑囚の詩を読みました。まっすぐで、言葉や詩を大切にしている姿勢がすてきでした。
田辺マモルくんは聞く人をしあわせにするような詩をたくさん読んでくれました。あの人柄、とても好きです。人生の結び目をちゃんと言葉にできる人だと思います。
三宅伸治くんは声の人です。はっきりした大きな声。
その声が伝えるはっきりとした人間性。ぼくはギターの詩が心に残りました。ギターと一体になって生きている人。
昨日は飛びいりの人が二人もいました。
バンジー・ジャンプ・フェスティバルの町田くんは、「スカートめくり」という歌詞を朗読してくれました。
いらいらした感じがよく出ている、10代の心を歌った詞でした。
歌も歌ってくれました。とてもいい声でした。
こなかりゆさんは、ちょっとトーキング調の歌をカラオケで歌ってくれました。場違いなところでうまく生きられないとまどいを、言葉でうまくくるみとっていました。
こんな風に、実に多くの人が自分を丸出しにしてくれた4回のノー・メディアでした。今回確信したのは、言葉に向き合うとき、誰もが素にもどる、ということです。
知らず知らずのうちに言葉を使って表現してきたミュージシャンたち。
言葉は音楽の一部だという逃げ道を捨てて、言葉だけを自分のものとして舞台に立ってくれた勇気ある出演者たちに感謝します。はっきりとした人間の声を聞き取ることができました。この成果を生かすために、また来年もできればいいと思います。そのときはライブ・ノー・メディア2003です。今回出演してくれた人たちに加えて、新しい出演者も期待しています。
ライブ・ノー・メディアは今回も大成功でした。
友部正人
2月27日(水) またまた映画の話。
近所のビデオ屋からブラジルの映画「セントラル・ステーション」を借りてきて見ました。
2、3年前にニューヨークで英語の字幕で見たのですが、最後の手紙のところがよくわからなかったのです。
日本人ばかり4人で見に行ったのに、誰もそこがわからなかった。
今回日本語の字幕で見て、やっと理解することができました。
それにしてもすごく重い映画。感動の重量がアメリカ映画とは全くちがいます。土の重さ、人間の重さ、暮らしの重さです。
二人の主人公たちと一緒に、無一文で旅行した気分です。
もう、見ましたか?
友部正人
3月2日(土) 旅人のための普通電車を
山形県酒田市から弘前にやってきました。
酒田から秋田までの特急が車輌故障で遅れて、秋田からの乗り継ぎの特急に間に合いませんでした。
ほんの15分ぐらいのことなのに、待っててくれなかったのです。
次の特急を待っていると弘前でのライブに間に合わないので、普通でいくことにしました。普通は学校帰りの高校生たちで
いっぱいでした。座るどころか、立つ場所もないくらい。
普通列車は旅行者の乗るものではありません。通学列車です。
旅行者は大きな荷物を抱え、肩身の狭い思いをしてつり革につかまっています。やがて1時間ぐらいすると、秋田からの
高校生はほとんど降りてしまい、代わりに東能代からの高校生たちが乗りこんできました。でも、もうそんなに多くはありません。それまで気がつかなかったけど、車内のあちこちに秋田からの特急に乗れなかった旅行者たちの顔があります。
駅で駅員にかみついていた人も、払い戻しの列に並んでいた人たちも、みんなすっかりあきらめて文庫本を読んでいました。
昨日まで暖かかったという弘前には雪が積もり、雪が見たかったユミは大満足でした。ライブのあと、まっさらな雪の降り積もった道を1時間かけて、明日ライブがある青森まで、迎えに来た主催者の車で行きました。
友部正人
3月4日(月) 絵本のような和風料理
ぼくたちは秋田の本荘にやって来ました。
本荘にはもう雪はありません。
主催の小松さんや工藤さんと、恵比寿亭というお店でお酒を飲みました。JR羽後本荘駅からすぐそばです。和風コース料理という感じのお店です。
でも出てくる料理は全部創作絵本のよう。中には和菓子と刺身の組み合わせのようなものもあります。
口に入れてみると、これは何なのかと誰かに聞いてみたくなります。日本酒も、酒屋にはおいてないような特別なものばかりを出しているそうです。
おまけに工藤さんが、どぶろくを持ってきたものだから、それを飲んでぼくは満ち足りています。
明日のライブは酒蔵です。ライブに来ると、秘蔵の生酒が飲めるそうです。明日にそなえて、今夜はいつもより早く寝ることにします。
友部正人
3月5日(火) 雪の降る町で
雪の降る町の人たちが雪が嫌いなのは、朝晩雪かきをしなくてはならないからです。
雪のない町から来たぼくたちが雪が好きなのは、雪かきをしなくてもいいから。
もし雪かきをしなくてもいいなら、毎日降り続く雪を、雪の降る町の人たちもきれいだと思えるようになるそうです。
青森では、3日間雪が降り続いていました。
その雪の降る町でかぜをもらったようです。
今日の朝からおかしくて、夕方にはもうろうとしていました。一日がもう夢の中のようです。
今日は由利正宗という酒蔵でライブでした。
オーガニックの日本酒を造っている伝統のある酒蔵です。そこで主催の方からいただいた大吟醸生酒というめったに飲めないようなものを一杯だけ飲んで寝れば、明日は元気になっているでしょう。
なぜかユミにはかぜがうつらなかったようです。
ライブの前に、主催の小松さんの田んぼを見に行きました。ぼくたちはもう10年近くも、小松さんの作る合鴨農法の無農薬のお米を年間契約で買っています。
一区画分約3万円、平均60キロの玄米が毎年送られてきます。そのお米をぼくたちはニューヨークにも持って行きます。だから、いつでも小松さんのお米を食べていることになります。そのお米がどんなところでできているのかを見に行ったのです。遠くに鳥海山がそびえ、周りを田んぼや林に囲まれた静かなところでした。
田んぼにはまだ何も植わっていなくて、道路から落とされた雪がかたまりになっていました。今度は、ふさふさと稲のなっているときに来たいな、と思いました。
友部正人
3月8日(金)雪が舞う仙台でのオフ
今回の東北ツアー2回目のオフです。
本荘、仙台、山形と、かぜのせいでかなりきついライブが続いています。これだけかぜが流行っていると、どちらにしてもかぜはひいたでしょう。なぜかユミは依然かぜをひいていません。
去年は文学や漫画の記念館でのライブがありましたが、教会や酒蔵でのライブもふえてきています。
青森では教会でライブをしました。土足厳禁なので、スリッパをはいて歌いました。スリッパはかっこわるいよね、と主催者にいわれましたが、床を踏み鳴らすとペタンペタンという音がして、けっこう気に入ってしまいました後半ははだしになりました。
ライブ・ノー・メディアのときの田口犬男さんを思い出しました。
はだしは下から直接エネルギーをもらえるのでいいのだ、と谷川俊太郎さんもいっていました。
古い教室のような教会で、とてもよかったです。
本荘では、由利正宗という酒蔵でライブをしました。
酒蔵は1月の福岡以来です。5月にも九州島原の酒蔵でコンサートをする企画があります。
酒蔵はとてもひんやりしていて寒いのですが、雰囲気は抜群。それにどこからともなく麹の匂いがただよってきます。
この夜は、四合ビンで3800円もするような無農薬の大吟醸酒をふるまわれたので、お客さんもさぞかし満足だったでしょう。
仙台は、個人の住居の一階が会場でした。だらっとすわって約30人ぐらいが見られる広さです。マイクも使わず、生音でやりました。生音はやっているぼくも気持ちがいいのですが、聞く人にもいいようです。ぼくの歌は、生音で聞けるぐらいのスペースがあうのかもしれません。
今日は半日、仙台市にある「火星の庭」というブック・カフェでガラスペンとインクで絵を描いていました。外は雪が舞っていたので、暖かいカフェから1歩も出ることなく過ごせてしあわせでした。
それから夜になって、仙台一おいしいと「火星の庭」の夫婦が自慢するピザを食べにでかけました。なぜか食欲だけはあるかぜの重病人です。
友部正人
3月10日(日) 梅林
今日で今回の「I NEED A VACATION TOUR」はいったん終了です。最後の東北ツアーは風邪でだいぶ苦しみましたが、もう峠は越えました。
きょうぼくたちは水戸にやってきました。
早めに着いたので、偕楽園に梅を見に行きました。
偕楽園に入るのはぼくもユミもはじめてです。
バスを降りた瞬間から梅の匂いがするというのですが、ぼくには何も匂いません。梅は鼻で楽しむものだそうで、ぼくはどうも失格のようです。本荘の酒蔵でも,麹の匂いがしなかったので変だなと思っていたのです。風邪のせいでした。
人出も相当でしたが、梅の木の数もかなりのものです。
いろんな種類の梅があることも知りました。
梅林は線路の向こうの方まで広がっていて、遠くの池や芝生の様子が夢の中の世界のようでした。
友部正人
3月13日(水) 心配ないよ
「休みの日」の長期ツアーが終わってほっとしているところです。
3月は熱と咳で苦しみましたが、なんとか声は出ました。
声が出なかったのは、1月の大阪と京都でした。あれは風邪という自覚もなかったので、ただ首をかしげるのみでした。
京都が終わってひどい下痢になり、これは風邪なんだ、と知ったのでした。でも、その翌々日の名古屋ではもうけろっとなおっていたのです。不思議です。
今日は「アコースティック・ギター・ブック」という雑誌の取材で、持っている5本のギターの自慢をさせてもらいました。
「休みの日」で録音に使ったギルドや、最近ずっと使っているテイラーなどです。いろいろ振り返って考えてみると、ぼくのギターの半分ぐらいは、誰かから勧められて買ったり、ずっと使ってていいよともらったも同然のものでした。
自分で楽器屋で「これ欲しいな」と感じて買ったものはほとんどありません。(あることはあるのですよ、何本かは。)いきあたりばったりで生きてきたんだな、と思います。
「休みの日」に使ったギルドは、先日なくなったデイブ・ヴァン・ロンク愛用のギルドと同じ型のものです。デイブが持つと小さな感じでしたが、ぼくが持つと、まるで大きなデイブを抱えてるようになってしまいます。もうすぐニューヨークのワシントン・スクエアのそばの教会で、デイブの告別式があります。ぼくとユミはそれに間に合うように行くつもりです。
寺岡呼人プロジェクトのシングル「アイ・ラブ・ユー」のジャケット用のイラストを、今日デザイナーの方に手渡しました。イラストを描くのは得意じゃないのに、呼人くんから頼まれて引き受けてしまったのです。
でも、熱があって遊べないオフの日なんか、こういうことにぴったりでした。ぐっと線を引く快感を楽しむことができました。
不慣れなことだけに、デザイナーの方にも気に入ってもらえたみたいでほっとしました。
さて、明日からはいよいよ、録音を失敗した工藤直子さんとの対談原稿にとりかかります。もうそのときの対談を再現することはできませんが、あの日の工藤さんのはつらつとした声は、読む人にもも届けたい気分です。工藤さんから、「心配ないわよ」とファックスをいただいてほっとしています。「雲遊天下」をお楽しみに。
「心配ない」で思い出しました。ツアーから戻った日に、横浜のサムズアップで三宅伸治さんと共演しました。ぼくは三宅くんと一緒にたっぷり10曲もやりました。安藤健二郎くんもサックスとクラリネットで参加しました。
最後はぼくもエレキを持ち、ちょっとロックバンドの気分でした。(単純。)
三宅伸治プロジェクトの新しい「ギターズ・トーク」というアルバム、すごくいいです。ぼくたち二人で作った「渡り鳥」もきれいですが、なによりも全員が参加した「イッツ・オール・ライト」が、何度も歌ったせいか頭からはなれません。カーティス・メイフィールドの曲だそうです。
「だいじょうぶ、心配ないよ」っていう感じ。
友部正人
3月18日(月) ビデオ撮影
青山のモダンな家具屋さんで、寺岡呼人&ゴールデン・サークル・オブ・フレンズのシングル「アイラブユー」のプロモーション用ビデオの撮影がありました。光がさんさんと射すガラス張りの家具屋さんです。
前日、ユミに髪を短くしてもらい、こざっぱりとしたぼくは、メイクもしてもらい、8人の若者たちの中にこっそりとまぎれたのでした。
ぼくがイラストを描いたジャケットも、とてもよくなりそうです。
呼人くんのおかげで、いろいろおもしろいことをさせてもらいました。
どうもありがとう。
夜は、横浜西口名画座で、たまの石川くんが出ている「害虫」を見ました。小学校のときの先生と当たり屋の少年がよく似ていて混乱したり、ストーリーがあまりおもしろくなかったけど、石川くんはとてもよかった。もっといろいろ出てほしいな。
友部正人
3月25日(月) デイブの告別式
3月22日からニューヨークに来ています。
この1週間の間にあったことをざっと書いてみます。
3月19、20日と旅行の準備をしていました。
あまりスーツケースに入れるものがないので、小さ目の旅行用バッグを中に入れました。
ニューヨークからまたどこかへ行くときに使うつもりで。
そうやって順番に中からかばんが出てきたら、かばんはだんだん小さくなっていき、旅行は渦巻きの渦のようになるかもしれません。小さなかばんでは近くまでしか行けないからです。
20日はユミと二人で、近所の公園で花見をしました。
桜の木の根元では、おばあさんたちが輪になってすわっていました。木の根元にすわる人たちは、どこか桜の木の一部分のようです。
3月21日はコマーシャルのナレーションをやりました。
NTT東日本のコマーシャルで、ナレーションはほんの二言でした。でも、それを録音するのに1時間くらいかかってしまった。こういうのはやはりむずかしいです。
3月22日の午後にニューヨークに着きました。
ひどく寒くて、夜中には-5℃まで下がりました。
翌日からまた少し暖かくなったので、この日だけ異常だったようです。
3月23日の夜は、タダツくんとオオクラさんのブルックリンのアパートで、二人のさよならパーティがありました。
この3月で、日本に帰ることにしたからです。
ニューヨークには10年ぐらいいたそうです。
二人はこのニューヨークで、こちらの雑誌や新聞にイラストを描いて生活してきました。ニューヨークにはたくさんの日本人アーティストがいますが、彼らのようにアルバイトもせずにやりたいことだけをやって、生活できた人は少ないと思います。
タダツくんがニューヨークタイムズやニューヨークプレスに描いたイラストは、ぼくも切り抜いてちゃんととってあります。
ぼくが初めてニューヨークでやったライブのチラシをタダツ君が描いてくれたのですが,その原画はニューヨークのぼくのアパートの暖炉の上にちゃんと飾ってあります。
3月24日は6時から、デイブ・ヴァン・ロンクの告別式がワシントンスクエアの南の教会でありました。
参列者のほとんどは、奥さんのアンドレアからの招待状を持った人たちばかりでした。メディアには知らせなかったのです。
ぼくたちは、エンジニアのアーサーと、彼のガールフレンドのクリスティーナと並んですわりました。大勢の人たちが来ていました。200人以上はいたでしょう。司会はフランク・クリスチャンがやっていました。
ニューオーリンズ・ジャズのバンドの演奏をはさみながら、オデッタやトム・パクストンやオスカー・ブランドなどの友人達がデイブの思い出を語りました。
それから、いろんな人たちからよせられた手紙も読み上げられました。
たくさんのスライドも上映されました。はじめて見る子供のころのデイブ、10代のころのデイブ、人生のほとんどを音楽とともに生きた人でした。
フランクが音頭をとって、全員でゲイリー・デイビスの「Soon My Work Will Be Done」を合唱しました。
参列した人たちも、自由にマイクでデイブとの思い出を語りました。ぼくも、日本語で書いた「デイブ・ヴァン・ロンク」という詩を持ってくればよかったと思いました。
式の後、すいぶん待ってアンドレアに挨拶をして帰りました。
デイブとアンドレアは20年暮らしたそうです。これからも、二人で暮らしたシェリダンスクエアのアパートで、一人でそのまま暮らすのだと言っていました。
大勢の人からお悔やみを言われ、ハグされて、今までよりももっと細くて小さくなったアンドレア、疲れた疲れたという彼女の小さくて赤い靴がまだぼくの目に焼き付いています。
デイブは5th Avenue と 12th street のかどにあるthe First Presbyterian Church に眠っているそうです。
ぼくたちも、明日かあさって、そこに行ってみようと思っています。
友部正人
3月29日(金)ワールド・トレード・センター
今回のニューヨークは、あまり行きたいコンサートがなくて、それでもハービー・ハンコックは行きたかったのに売りきれで、それではと、ゆうべボトムラインにドック・ワトソンを聞きに行ってきました。
息子の高校のときの国語の先生に誘われたのです。夫婦で毎年この時期にニューヨークに来ているそうです。息子が高校生のころは、ぼくの「一本道」の歌詞を教材で使っていました。
今は「no media」のCDを使っているそうです。生徒に人気があるのは、宮沢くんと知久くんだそうです。今回は自作の詩を英訳してもらい、ニューヨークのカフェで朗読するつもりだと言っていましたが、さて、どうだったのでしょうか。
ドック・ワトソンは変わらぬ歌声とギターでとても楽しめました。
伴奏をする若者の方がうまいし早く弾くのですが、ドック・ワトソンにはギターを弾く喜びがあって、若者にはそれがないのです。ぼくがドック・ワトソンのギターに深い感動を味わったのはそのためです。
今日は、ニューヨーク歴史協会に「ミッシング、悲しみの街」という展覧会を見に行きました。去年の9月11日のテロの後の、ニューヨークの街の中の様子を再現したものです。
公園や道端が祭壇に変わり、数多くの人がそこにメッセージを残していきました。ハロウィン・パレードの仮装に使われた、手をつなぐワールド・トレード・センターのハリボテの背中には、白い天使の羽根が生えていました。何よりもぼくが心を打たれたのは、ボブ・ホーマンという詩人が中心となって、世界中の詩人から寄せられた短い言葉で、110階建ての言葉のツイン・タワーが作られたことです。
「Topfloor,Hold eyes,Hold hands,Take wing.Better to fly than do nothing.」
なんとかしなくちゃと思ったときに、詩人にできることは詩を書くことだと思ったそうです。あまりにもたくさんの言葉が寄せられて混乱してしまい、誰がどれの作者かわからなくなったとき、「いいじゃないか、ぼくたちはみんな詩人なのだから。」とある人から言われたそうです。
二つの塔にはめこまれた無数の言葉は、二つのビルで死んだ無数の人たちの、今も輝いている無数の目のようです。
その後ぼくたちは、ホールで上映されていた「September 11」と「最初の24時間」という2本のビデオを見ました。現場の人たちが手持ちのカメラで撮ったものです。ぼくははじめて現場を見たような気がしました。燃え上がるビルをのんびりとすぐ真下から見上げている人たちに、もうすぐビルが崩れることを知っているぼくたちは、心の中で「早く避難しなくちゃ!」とスクリーンに向かって話しかけているのでした。
ワールド・トレイド・センターがなくなって、マンハッタンの最南端は50年前のニューヨークに戻ったようです。
1971年と1973年に完成した二つのビルは、30歳と28歳でこの世を去ったことになります。今までそんなこと感じたことはなかったのに、今日はワールド・トレード・センターがとても人間的に思えるのでした。
友部正人
4月2日(火) アーミッシュ・ツアー
昨日からユミと二人で、ちょっとした短い旅行にでかけました。
行き先はペンシルベニア州のランカスターです。
昼間のAMTRAK(鉄道)に乗ったら、着いたのがもう夕方でした。
以前プリンストンに行ったときのように、今回の旅のガイドブックも「ヘブンリイ・ウイークエンド」です。マンハッタンからバスか鉄道で3時間半以内で行ける場所を紹介しています。ランカスターはその中でも一番遠い町。
駅前の公衆電話からタクシーを呼びました。ニューヨークと同じ電話会社なのに、市内電話が50セント(ニューヨークは25セント)。でも無制限にしゃべれます。
黒人のちょっと軽い感じのドライバーがやってきて、タクシーを待っていた全員(4人)を一台に乗せてしまいました。相乗りです。
ぐるぐるとあっちこっちをめぐりながら、ホテルに到着しました。
地図を見ると、ホテルは駅から一本道で、そんなに離れてはいませんでした。でも、そのドライバー、いいやつでした。
まるでギターのソロを弾くように、見せたいところがあると、勝手にそっちの方へ遠回りするのです。お喋りもまるで歌を聞いてるみたい。つい、明日も頼もうかなあ、と思ってしまいました。(インドを思い出しました。)
ランカスターはきれいな小さな町です。30分もあれば、徒歩で町の中心を1周できます。そんな小さな町にも、パンク専門のレコード屋や中古レコード屋がありました。店の人たちはみんなとてもフレンドリーです。セルフサービスのピザ屋でピザやスパゲティを食べました。グラス一杯のビールが1ドル25セント。
6時をすぎると、レストラン以外はほとんど閉店してしまいます。
まだ空はうっすらと明るいのに、町の通りの方が先に暗くなる感じ。
今朝はバスの時間まで、セントラル・マーケットで買い食いをしました。
パンや牛乳やセロリを、マーケットの中のベンチで食べました。
11時10分のバスでインターコースへ。ランカスター郊外に広がるアーミッシュたちの一番大きな村です。そこからぶらぶらと国道沿いに、バード・イン・ハンドという隣の村まで歩きました。歩いているのはぼくらだけです。みんな自家用車で観光旅行をしているからです。
アーミッシュの運転するバギー(馬車)が何台も通ります。彼らは自動車を運転するのを拒否しています。(バスには乗っていました。)
洗濯物が風にゆれているのが目に入ってきます。アーミッシュの人たちの洗濯物は、絵葉書にもなっていて郷愁を誘います。
午後2時からのアーミッシュの村めぐりバス・ツアーに参加しました。
広大なアーミッシュのテリトリーは、とても徒歩ではまわれません。それに警戒されそうな気がします。
アーミッシュの人たちの暮らしは、好奇の目にさらされています。
今でも1700年代のままの生活をしているからです。彼らはそのころはまだなかった自動車や電気や電話を受け付けません。
畑をたがやすのも、馬を使っています。それにしても広大な農地です。
アーミッシュの人たちは農業やハンドクラフトで生活していますが、とても豊かなのだそうです。子供も最低7人は生むので、人口もどんどん増え続けているそうです。
ランカスター郊外には約20000人のアーミッシュが暮らしています。
アメリカで2番目に多いそうです。独自の言葉を使い、独自の学校を持ち、独自の習慣に従って暮らしています。アーミッシュのことは、ハリソン・フォードが主演した「刑事ジョン・ブック」で有名になりました。
ガイドのおじさんはアーミッシュではありませんが、遊んでいる子供の名前や、その子の家族の動向をとてもよく知っていました。
子供のころからアーミッシュの人たちの中で暮らしているからだそうです。
アーミッシュの人たちは、同じ目的と信念を持ち、同じ服装で、同じ習慣に従って生きて、同じような形のお墓に眠ります。
そんなアーミッシュの人たちの着る同じようにくたびれた服は、ぼくにはとてもロマンチックに見えました。
アーミッシュの人たちの暮らしは、毎日の新鮮なパンのようなものかもしれません。どんな技術の進化よりも、おいしいパンの方がうんとしあわせかもしれないからです。毎年何千人もの観光客を受け入れ、自分たちの暮らしをアッピールしながら、アーミッシュの人たちはこの現代をしたたかに生きています。
アーミッシュの人たちを見た後では、ニューヨークの人たちの個性がとてもささやかなものに思えるのです。
友部正人
4月5日(金) 展覧会の話
2年前のぼくの誕生日に、ユミがくれたトランジスタ・ラジオをこのごろ気に入って持ち歩いています。
今日は朝からそれ一個を持ってリンカーン・センターまででかけ、2時間並んでプリンスのコンサートの一番安いチケットを手に入れてきました。75ドルでした。
チケットが手に入ったことはうれしかったのだけれど、ブロードウェイは木枯らしが吹いていました。4月に吹く風を木枯らしとはいわないかもしれないけど、春はほんの少しまた冬に逆戻りです。
昨日はホイットニー美術館へ、ビエンナーレを見に行ってきました。
2年前ほど過激ではないけど、よりあたたかい作品が多かったような気がしています。時代のせいでしょうか。
はだかの母子が、箱の中でくるくるとまわる、映像の作品がありました。
母も子もはだかで、とてもリラックスしていて、見ていてとてもほほえましくなるのです。箱は子供がちょうど立てるぐらいの大きさで、母親は身をかがめたままでした。
美術だけじゃないのが特徴の展覧会でした。トレイシー・モリスという女性の朗読は、どこか小鳥がさえずっているような、言葉がのどから飛び出るのを楽しんでいるような感じがしました。来週の木曜日にニッティング・ファクトリーで朗読会をするそうです。行かれないのがざんねんです。
ちょっと高かったけど図録を買いました。図録にはCDがついていて、音を使った作品が多かったことを物語っていました。
メトロポリタンではシュールレアリズム展をやっています。関心がセックスに集中していておもしろいのですが、そういえばあのころは、音を使ったものがまだなかったのかもしれません。
その隣の部屋では、中世ヨーロッパのタペストリーの展覧会をやっています。
メトロポリタンの壁一面を覆うぐらいの巨大なタペストリーが何十枚も展示されています。ぼくはそこはあっさりと通りすぎてしまったのですが、今日ラジオを聞いていたら、一生に一度しか見られないような貴重な展覧会だそうです。
友部正人
4月7日(日) O Brother
「O Brother」という映画はもう見ましたか。
ぼくはゆうべレンタルビデオでやっと見ました。ニューヨークの友だちからは1年前から勧められていたのに。
なんだかすごくいい映画みたいでした。というのは、せりふがあまりわからなかったのです。英語がよく聞き取れないのです。でも、雰囲気と音楽は最高。今夜、近くのタワー・レコードへユミとCDを買いに行きました。ユミがクラシック以外のCDを欲しがるのはめずらしい。
今日のぼくの行動。
まず、ブリーカー・ストリートのポート・リコというコーヒー豆屋さんに豆を買いに行きました。3種類の豆を約2キロ買いました。日本に持って帰るのです。最近おいしかったのは、フレンチ・ニカラグアというちょっと深めに炒った豆。他に、コロムビア・スプレモとモカ・シャバを買いました。
ブリーカー・ストリートの路上で、ヘンデルなどのラルゴばかり集めたCDとペルイマンの「第七の封印」という映画のビデオを買いました。ビデオは新品で、両方で10ドルでした。
ユニオン・スクエアのバーンズ・アンド・ノーブルに注文してあった、アーノルド・ロベールとアニタ・ロベールの「The rose in my garden」という絵本を取りに行きました。二日前に電話が入っていたのです。とってもいい絵本ですよ。
18丁目のアカデミーというCD屋で、リッキー・リー・ジョーンズの新譜を買いました。ぼくたちの友だちのポールがベースを弾いています。
25丁目のフリー・マーケットで、ホーギー・カーマイケルのまだ新品のLPとミルドレッド・ベイリーのLPを買いました。両方で10ドルでした。とてもうれしかった。
ニューヨークで買い物をしていておもしろいのは、探していたものが目につくところにあることです。誰かがぼくのために用意しておいてくれたみたいな気がします。
今回もニューヨークにあったらいいな、と思っていたものが、ほとんど見つかりました。不思議なところです、ニューヨークって。
友部正人
4月9日(火) プリンス
急に暑くなりました。今日は朝から12℃あって、セントラルパークの桜は満開でした。ワシントンDCでは公園いっぱいの桜の木の下で花見をするそうですが、セントラルパークでは日本人のように桜を楽しむアメリカ人は見かけません。それにしても重たいくらいの花のつきかたでした。
夜はぼくだけ、リンカーンセンターにプリンスのコンサートを聞きに行きました。最上階のボックス席で、ステージを上から見下ろす感じです。はじめて見るプリンスはとても華奢で青年のようでした。プリンスの演奏を聞いて感じたことは、あいまいなことがまったくなくて、すべてがはっきりしてるということでした。スライドでリンカーンの奴隷解放宣言や、古い新聞の奴隷の競売の記事を写しながらも、コンサートはあくまでもショウとして進んでいきます。前半はちょっと実験的な試みも感じられる曲が続いたのに、途中からはみんなが一緒に歌えるヒット曲のオンパレードでした。となりにいた黒人の若者は、うれしくて今にも後ろにひっくり返りそうになっていました。
リンカーンセンターのエイバリー・フィッシャー・ホールはちょうど渋谷公会堂ぐらいの大きさのところです。
満員の観客の7割以上の人たちが若い黒人たちでした。
その全員が、プリンスの演奏にとても興奮していました。
ぼくは今まであんなに熱のこもったアンコールを聞いたことがありません。みんなが声をそろえて「ビー・オー・ケー」と連呼していたのですが、プリンスファンじゃないぼくには何のことかわかりませんでした。ぼくが知っている曲といえば、「パープル・レイン」と「ナッシング・コンペア・ウィズ・ユー」の2曲だけだったのです。この2曲は1回目のアンコールの最後に続けてやってくれました。
高度な演奏技術と大衆性を持ち合わせたプリンスのライブは、久し振りに刺激的でした。ぼくは6月9日のリクエスト大会のライブのことを考えたりしていました。
友部正人
4月17日(水) 花男
ミルドレッド・ベイリーはカサベテスの映画で好きになったのではなく、もう30年も前,毎日のように行っていた、吉祥寺にあった「ぐわらん堂」という飲み屋でたまにかかっていたのです。
ぐわらん堂ではロックやジャズばかりではなく、シャンソンやフラメンコや古い日本の歌謡曲やブルース、ロカビリーやカントリー・アンド・ウエスタン、なんでもかんでもかかっていました。
それが良かった。ぼくはここで、ジョルジュ・ムスタキやジャンゴ・ラインハルト、マニタス・デ・プラタ、といった人たちも好きになりました。
ぼくの若いころは、ラジオではかからないような音楽に出会えるお店がけっこうありました。いい音楽に出会うと,レコード屋に行きたくて、朝になるのが待ち遠しかったものです。
そういえばプリンスも、先日のリンカーン・センターでのコンサートで、ラジオで聞ける音楽だけで本当に満足しているのか、と観客に聞いていました。それは、自分の音楽があまりラジオから流れなくなったことにも関係あるようです。
松本大洋の「花男」をやっと読みました。まだ、1巻だけですけど。
おもしろくて、ときどきは声を出して笑いました。
はやく第2巻をみつけなくては。
もうすぐ出る「雲遊天下」の新しい号で、工藤直子さんと対談しています。松本大洋は工藤直子さんの息子だそうです。
工藤さんから教えてもらったのですが、花男のモデルが工藤さんなのだそうです。そういえば似ている、とユミが言っていました。
すごく豪快な男です。だけどすごくナイーブで、涙を一杯どこかに隠し持っている。花男を見ていると、自分はこれでいいんだ、という気持ちになれるに違いありません。
ありのままの君、ありのままのぼく。ちょっとブリジッド・ジョーンズみたい。
というわけで、工藤直子さんについてのぼくのエッセイ、ぜひ読んでください。
友部正人
4月24日(水) 図書館
以前「雲遊天下」に連載していたエッセイを、本にできるように書きなおしています。
ぼくは文を書くのが遅いので,一日連載1回分です。この調子だと、1ヶ月ぐらいかかりそうです。
近所の県立図書館には四席だけワープロやパソコンの使える席があります。今まで満席になったことはまだありません。適当な時間に行って適当な長さだけいます。はかどる日もあれば全然はかどらない日もあります。はかどらない日は気分転換に本を読んだりできるのも、図書館のいいところ。今日はあまりはかどらない日でした。それでも図書館を出るとき、ちょっとした満足感があるのが不思議です。
友部正人
4月25日(木)
「ハート型の水たまり」を録音しました。
長野市にあるライブハウス、ネオンホールで毎年出しているオムニバスCDの中の1曲として。
録音もネオンホールでしました。
弾き語りで、「ハート型の水たまり・・・」という繰り返しのところだけ、ユミがコーラスをつけてくれました。
1箇所ぼくの声がひっくり返ったけど、いい感じです。
録音が終わった後、吉岡くんという人がネオンホールでそばを打ってくれました。
吉岡くんは信州大学の学生だった8年前、学園祭でぼくを呼んでくれたことがあります。
今は熊本の天草にいますが、要望があればそば打ちの道具一式を持って、車で日本中どこまででもそばを打ちに行くそうです。
いつかぼくのライブでもやってもらいたい気がします。
そばは15分ほどでできあがり、すぐにゆでて食べました。
おいしかった。長野の人は乾麺なんて食べないみたいです。
友部正人
4月26日(金)
4人乗りの軽自動車に5人乗って、戸隠までそばを食べに行きました。
戸隠神社の前のうずら屋という店でざるそばと山菜のてんぷらを食べました。戸隠のざるそばには海苔がかかっていません。
水きりもしないそうです。
昨日から、長野のそばはお腹がふくれるな、と思っていたのですが、おいしいからたくさん食べているからだとわかりました。
その後、ランプという喫茶店に行きました。
ここでは毎年、谷川俊太郎さんと河合隼雄さんの朗読会とコンサートを開いているそうです。
谷川さんの選んだ100冊の本、というコーナーもありました。
ぼくたちは4種類ぐらいの手作りのケーキとコーヒーを飲みました。静かで、森の中にいるような雰囲気の店でした。
ライブの前に長野市内の中古レコード屋へ行ったら、そこでばったりと三宅伸治くんに会いました。(同じ日に長野の別のライブハウスでライブがあったのです。)
ぼくがカーティス・メイフィールドのレコードを抱えているところを見られてしまいました。三宅伸治プロジェクト2「ギターズ・トーク」で、ぼくも一緒にカーティス・メイフィールドの「イッツ・オール・ライト」を歌っています。耳からはなれなくなる曲です。
夜はネオンホールでライブです。ぼくの前に演奏してくれたT&TもThe Endもぼくは大好きです。
友部正人
4月27日(土)
The Endこと桜井くんの運転する車で松本に。
主催の中川かっぺいさんが、浅間温泉にあるそば屋に連れていってくれました。毎日二人前は食べているぼくです。
松本市立美術館に草間弥生展を見に行きました。
一つの例外もなく、この世を草間弥生の世界に変えてしまうおもしろさとおそろしさがあります。美術館の一階のショップで、若いお母さんが小さな娘に、「病気よ、病気」と言っているのがはっきり聞こえてきました。
ライブの後は、ふあ先生の家に泊めてもらいました。
ふあ先生はぼくの歌にも出てくる精神科のお医者さんです。
ビールを飲みながら遅くまで話しました。ぼくは先に寝てしまいましたが。
4月28日(金)
今日はぼくとユミの結婚記念日でした。26回目です。
いつもいつも旅の途中でした。
ぼくたちはバスで松本から飯田に来ました。
主催の吉川くんと、山の中にある、のんび荘という民宿にそばを食べに行きました。またまた2人前食べました。
これで長野県に来てから四日連続で、八人前以上のそばを食べています。なんだかすごくうれしい。
のんび荘のそばにはちょっと色がついていました。
何の色なのかわかりません。すぐそばを清流が流れていて、その音を聞きながら食べると、よりさわやかな感じがしました。
夜には「ふぉの」というライブハウスでライブをしました。
2年振りです。オーナーの小島さんが、自分で作った山葡萄の赤ワインを飲ませてくれました。完全に熟した葡萄をしぼっただけというこのワインは、夜の太陽のようでした。
地下室の台所から少しずつちぎって味わう太陽の味。
友部正人
4月30日(火)店は年をとらない
中目黒の歯医者に行きました。20年前につめた所がバナナを食べていたらボロっととれたのです。
年をとって、歯と歯の間ににすきまができてきているそうです。なんだかすごくリアル。
夜は渋谷のB.Y.Gにバンバンバザールのライブを聞きに行きました。久し振りのバンバンはアコースティックでした。4人になって、ロックっぽくなったのは、ベースの黒川くんのせいでしょうか。2部でやったグレイトフル・デッドのカヴァー曲「ブラウン・アイド・ウーマン」や、ぼくの「夜よ、明けるな」などが新鮮に聞こえました。
B.Y.Gには、「大阪へやって来た」でデビューする前にぼくも出ていました。そのころはまだ歯のすきまの心配なんてしなくてよかった。歯なんてみがていなかったかもしれない。
はじめて店のオーナーとお会いしたのですが、ぼくの名前もある当時のスケジュール表を見せてくれました。
30年以上も同じスタイルで営業していても、店は年をとらないし虫歯にもならない。バンバンとビギンは、毎月B.Y.Gで演奏しているそうです。料理もおいしかったし、また行ってみるつもりです。
友部正人
5月6日(月)いつかは美しい春一番
ゆうべ、最終ののぞみで大阪から帰って来ました。
今年の春一番は、ぼくは初日の5月4日の夕方に出ました。
この日は朝から誰もが雨の心配ばかりしていました。
楽屋では雨男が誰なのか、という話題でずいぶん盛り上がっていました。
一番要注意人物と見られていた大塚まさじのときにはもう雨が止んでいたのはどういうわけでしょう。ぼくのときにはまだしっかりと降っていたのに。
前日の神戸で初共演した大阪のボサノヴァ・バンドのVOCEと二曲一緒に演奏しました。「働く人」と「すばらしいさよなら」です。
二曲とも、前日よりずっとよくできたみたいです。(その前に一人で二曲演奏しました。「休みの日には」では、2度もピックを落っことしてしまいました。)
藤原カオリーニョのクラシック・ギターと中島トオルさんのトロンボーン、高田靖子さんのスースーとした
美声が、暑苦しいぼくの声にからみます。島田和夫くんの鉛筆デッサンのようなドラムが、ぼくの歌の世界をなぞります。
こういう町工場の職人のようなバンドがぼくは好きです。
春一番で一番美しいのは、開演のときです。
春一番では、開演時間が会場時間です。演奏が始まると同時に入場を開始するのです。今年その役割を担ったのは小谷美紗子さんでした。まだ誰も座っていない客席に、小谷さんの英語の歌がスーパーボールのようにはねてました。
徐々に埋まっていく客席は、満たされていく人の心に似ています。
小谷さんの勢いのある声を聞きながら、「今年もまた春一番がやってきた」という喜びにひたっていました。
小谷さんの歌を聞いていたら、ふと「歌うということは与えることかもしれない」と思いました。
出演者が多い春一番、毎日最後は一時間ぐらい押してしまいます。
開演時のようなすがすがしさのまま、終了できたら美しいのにね。
友部正人
5月9日(木) 友人が椅子のコンテストで優秀賞
今日から、新宿のパークタワーの中にあるオゾンプラザで、「暮らしの中の木の椅子展」というのをやっています。
ぼくらの友人が優秀賞をもらったというので、午後からユミと見に行ってきました。
彼の作品のタイトルは「マスクリーノ イ フェメニーノ」、つまり男と女です。
ネジにオスとメスがあるように、この5脚の椅子にもオスとメスがあって、ベンチになったりコーヒーテーブルになったりします。
2脚を組み合わせればコーヒーテーブルになるので、ぼくも欲しかったのですが、今のアパートはモノが多すぎてとても無理です。
100脚以上の椅子が展示されています。新宿に行ったときにはぜひ寄ってみてください。
彼の名前は岡崎功さんというのですが、7月13日に北海道の東川町の彼の自宅の庭で、ぼくとジャズ・ピアニストの板橋文夫さんのジョイント・コンサートを企画しています。100人は集めるぞ、とはりきっています。
友部正人
5月17日(金) ツアー終了
九州3か所と、福山でライブをしました。
長崎の島原は古い町です。その町並みが今もとてもきれいです。
月光堂という古本屋の小川さんが主催でした。月光堂には、ぼくが前から探していた本がありました。
たぶんそのうち買うと思います。
北九州はアンディというブルースとジャズのライブハウスでした。
なかなかいいお店です。ほぼ満席になりました。ギターの音がよくて、気がついたらのっていました。あんな気分は久し振りでした。
しばらくはこの夜の演奏を目標とするでしょう。
佐賀県基山町は田んぼの中にある「テラコヤ・キッド」という私設学童保育所です。去年に引き続き2回目でした。
遠くから電車で来たお客さんが、「いいところだな、住みたいな」と言っているのが印象的でした。
会場は大きな倉庫のような所です。半分野外のような雰囲気でした。間に休憩をはさんで3時間ぐらいやりました。
いつか野外で、そんな風にギター一本で長時間のライブをしたい。
福山はポレポレというライブハウス。大好きな店なのに、人は集まりませんでした。ぼくはこの店の動員最高記録を持っているのに、今回最低も作ったかもしれません。
これで「I NEED A VACATION」TOURは終了です。
半年間ありがとうございました。いろんなことを思いますが、やっぱり新しい曲を作るのが一番いいようです。
そのための「休みの日」だったと思います。
友部正人
5月20日(月)「ぴぐれっと」
京橋の古いビルで「ぴぐれっと」の試写会がありました。
伊勢真一さんのドキュメンタリー映画を見るのはこれで4本目です。
「ぴぐれっと」は「奈緒ちゃん」の続編のような映画です。
ただ、前作は奈緒ちゃんの成長に焦点が当てられていたのに比べて、今回は奈緒ちゃんのお母さんの西村信子さんに当てられています。「奈緒ちゃん」が公開されたのはいまから7年前です。
その10年も前から、西村信子さんを中心に、障害を持った子のお母さんたちが共同で横浜市泉区に作った作業所の名前がぴぐれっとです。
ぴぐれっとは20年間でどんどん大きくなって、今ではぴぐれっと3まであります。ぴぐれっと3はパン工房のある喫茶店です。
おそらく「奈緒ちゃん」もぼくは夢中になって見たと思うのですが、もうだいぶ前のことなのでその実感は薄らいでしまっています。
だから「ぴぐれっと」は「奈緒ちゃん」以上に夢中になって見たような気がしてます。あっというまの1時間35分でした。
次に必要とされていることにどんどんアプローチしていくお母さんたちの姿が、1時間35分を短く感じさせるのかもしれません。
また、もしかしたら、西村さんたちの20年間をたった1時間35分で見てしまったという、そんな駆け足の短さだったのかもしれません。
でも、やっぱり西村さんたちの表情が短くさせたのだと思います。見とれてしまったのです。
試写会の後、会場の近くのそば屋で打ち上げをして、そのあと伊勢監督たちと別れて、ぼくとユミと西村信子さんと3人で、東京駅からJRで横浜まで帰りました。途中の鶴見駅で人身事故があって横浜まで1時間もかかったにもかかわらず、短く感じたのは、西村信子さんと一緒だったからかもしれません。
映画の中のいろんな場面のことや、ぴぐれっとの映画では語られていないことをたくさん聞かせていただきました。
これを読んでいるみなさんも、5月30日に東京都写真美術館に西村さんに会いに来ませんか。
「ぴぐれっと」の上映の合間に、西村さん夫妻がおしゃべりをしてくれます。
その後に、ぼくもたっぷり歌うことになっています。
友部正人
5月23日(木) 中目黒の平安さん。
住んでた期間は3年だったのに、今でもぼくは中目黒が好きです。
だから、当時から通っていた歯医者にもまだ通っています。
人柄に引かれて。だから、たまに今でも中目黒に行きます。
熊の子書店という漫画の古本屋があって、中目黒に行くときは必ず寄るのだけど、そこへ行く途中にある楽屋というお店に、沖縄の平安さんが23日に出演するという張り紙を見ました。
それで、前からすごく聞きたいと思っていたので行きました。
25人ぐらいで満員の小さなお店です。満員でした。
顔がこわいよ、と前にライブを聞いたことのある人が言っていたのですが、ぼくはたまたまステージの横で、横顔はやさしくてきれいでした。目玉に青い海が映っていました。
特に民謡のときに。声が太くてきれいで、歌を聞かせる人の声はこうじゃなくちゃな、と思いました。
たまにはこんなふうに、自分から好きなライブに行くのもいいものです。
平安さんのギターはとてもよくて、いつかぼくの曲でも弾いてくれないかな、と思いました。
今夜ぼくがおやっと思ったのは、「プカプカ」を沖縄の言葉で
歌ったことです。今年中に録音したいと言っていました。
友部正人
5月26日(日) 板橋文夫さん、シバ
7月に北海道を一緒にツアーするピアニストの板橋文夫さんのオーケストラのコンサートを関内大ホールに聞きに行きました。おもしろかった。ジャズは目で見るものです。
バンドの中に知り合いが多いのも楽しめた理由の一つかもしれません。井野信義さん、太田恵資さん、片山広明さん、吉田隆一さんといったふうに。
でも何よりも板橋さんの曲にぐっときたからだと思います。
派手なわかりやすい元気な曲も、きれいな泣きたくなるようなメロディの曲も、どっちもよかった。とてもすてきでした。
時には映画を見ているような気持ちにさせられて、画面もないのに泣きそうになっているのです。
板橋さんとは以前、「19歳の地図」という映画で共演したことがあります。板橋さんは音楽で、ぼくはちょい役の役者で。
音楽に板橋さんを起用したのは、主演女優の沖山秀子さんが熱烈なファンだったからのようです。また映画を見たくなりました。
シバの「コスモスに捧ぐ」を買いました。1973年のオリジナルの方です。
ぼくはこの中の「星の降るよな夜」が好きで、山形の友人にLPからMDにコピーしてもらったことがあります。まさかCDが出るとは思っていなかったのでうれしかった。
なんだかんだと懐かしくなって,今日は朝からビートルズを聞きました。雨が降っていてどこにも行くあてもなかったので、ずいぶん暇つぶしになりました。雷も外で喜んでいた。
夜は、1974年の「ホーボーズ・コンサート」のライブ盤を引っぱり出してきて、カビの匂いにむせながら聞きました。全部で7枚セットなのですが、ほとんどカビだらけ。針が飛ぶので、一曲が半分の長さになってしまいます。それでも夜遅くまでいろいろと聞きました。自分のところだけは飛ばしましたが。
みんな勝手にやっていて、無理に見せようとしたり、聞かせようとしたりしていないのが感じよかった。
友部正人
5月30日 3度目の正直は?
写真美術館で映画「ぴぐれっと」とぼくのライブの後、恵比寿で打ち上げをして、西村夫妻と一緒に横浜まで帰りました。やっと横浜にも友だちができたみたい。
前回試写会の帰りに、東京駅から西村信子さんと一緒に帰ったときは、鶴見駅で人身事故があって電車が1時間遅れて、そのおかげでゆっくり喋ることができたのですが、
今回も代々木駅の火事のせいで、JR山手線が不通になっていて、東横線で横浜まで一緒に帰ることができました。
今回はご主人の大乗さんも一緒だったので、さらに充実していました。3度目がちょっとこわいですね。
事故に縁のあるぼくたちです。
上映会とライブに来てくれてありがとう。「ぴぐれっと」は誰でも上映できる自主映画だし、ぼくのライブは誰でも主催できる自主ライブです。
見に来てくれた人が今度は主催してもいいのだし、西村さん夫妻のように、この次は作業所「ぴぐれっと」で友部のライブを、と言ってくれてもいいのです。
ぼくもいい映画に出会えたと思います。
伊勢さんの映画の特徴は、こういう人たちとも一緒に生きていたんだな、と思わせるところです。
ぼくに今必要なのは、そういうことかもしれない。
あっ、この人とも一緒だったんだ、って。だから、3度目の正直を心配しあえる人たちと出会ってとてもうれしい。
友部正人
6月11日(火) 子豚とニューヨーク
ワープロの調子が悪いので、ヨドバシカメラに行ったら、「うちではそういったものはお取り扱いしていません。」だって。
つい最近までは売っていたくせに。しょうがないので、店内にあるパソコンを全部さわって帰ってきました。もちろん買う気なんてないのですが。
でも、あっというまに、ノート型パソコンはずいぶん軽くなりましたね。ぼくのうちのなんて、まるでスイカのようです。
それに比べて新しいパソコンはナスのように軽い。ユミと二人でパソコンの重さばかり手で計っていたら、まるで八百屋にいるようでした。
明日からニューヨークですが、横浜には大型旅客機のような台風が着陸しているようです。風の中を自転車で、借りていたビデオを返しにいきました。台風の風は気持ちがいい。自転車で走りまわっていたら、サッカー帰りの人達がびっこをひいて歩いていました。ぼくも風を蹴飛ばしながら、夜の競技場を走りまわったのでした。
北九州の丸山さんからいただいたフェンダーのエレキギター、とてもいい音で気に入っています。ブリッジの調子がおかしいので、近所の楽器屋に調整をたのみました。その楽器屋さん、「これはバディ・ガイモデルですね。メキシコ製でしょう。」というので、なんだかうれしかった。安心して預けられそうなので。
今夜荷造りをしているのですが、何も持っていくものがありません。
大きなスーツケースを何でうめようかと悩んでいます。
子豚が一匹入るぐらいのすきまです。
ニューヨークで大きな本を買う予定です。ちょうどそのすきまに入るぐらいの。子豚はニューヨークに放してきます。
ハイウェイを行くよ、空のスーツケース下げて・・・・
これはボブ・ディランの歌だけど、ぼくは子豚をつれて、ニューヨークです。
6月8日には田口犬男さんが我が家に来ました。
ユミの写真を見るのが目的でした。なんだかんだとたくさん話をしました。
田口さんは今、3冊目の詩集の準備をしています。
表紙にアルマジロの写真を使いたいようです。ユミはアルマジロの写真など撮ったことがないのですが、なんとか協力するつもりのようです。カメラを用意して、ニューヨークにアルマジロを探しに行きます。
6月9日に、吉祥寺のスターパインズカフェで、リクエスト大会がありました。ぼくは一人でしたが、ギターを3本用意したので、ゲストを3人呼んだようでした。ゲストをとっかえひっかえ腕に抱いて、できるだけたくさん歌いました。
リクエスト大会は普段聞けないような歌をみんながリクエストする日ですが、普段歌えないような歌をぼくが歌う日でもあります。
だから、両方が満足できる日なのです。
友部正人
6月13日(木)リクエスト大会
ニューヨークも日本の梅雨のような天気です。
飛行機で12時間飛んでも、同じ空の下なのですね。
しばらくこんな天気が続くそうです。
前にデイブ・ヴァン・ロンクのお墓のことを書きましたが,行ってみたらその教会には墓地はありませんでした。
デイブの灰は、教会の建物の中に安置されているそうです。4月にぼくたちが行ったときには、案内してくれる人が外出していて、そのまま帰ってきてしまいました。
先日のリクエスト大会のこと、普段よりもたくさん反応があってうれしいです。リクエストが分散して、かなりの曲数になったので、リクエストしたのに歌ってもらえなかったという人がいても仕方ありません。今までぼくたち主催する側も、このリクエスト大会を人気投票と混同していたので、リクエストの多い曲を中心に演奏してたのですが、それだと普段のライブとあまり変わらなくなってしまうので、今回はこういう機会だからこそ聞きたい、というリクエストに答えるようにしました。これがリクエスト大会の本来の姿だと思います。
アンケートの感想に、ぼくがリクエストされた全曲名を読み上げたとき、それが歌のように聞こえた、と書いた人がいておもしろいなと思いました。
この偶然の新曲の作者は、あのときリクエストしてくれた人たちです。
そういえば、友部正人オフィス発行のリクエスト・タイムズは、リクエスト大会での順位やみんなの感想を載せるために始めた新聞だったのでしたね。
他にもおもしろい感想が今回もありました。
友部正人
6月17日(月) でかけます。
ニューヨークに来て1週間目に必ずくる怒涛の睡魔。
寝ても寝ても眠りの中に引きずりこまれます。
そのたびに夢を見るのだけれど、それがどうやら続き物で、目が覚めたときには、面白かったな、ということしか覚えていない。
毎日突然の雷や夕立にみまわれています。
あまりにも激しい雨はときとしてとても美しい。
夕立が降ると得したような気がします。
友達に誘われて、「スター・ウォーズ」を見に行きました。
今までのストーリーを知らないので、基本的なことがわからなかったりした。
たとえば、JUDIとはナンなのか。
それでも、眠らずに見られる映画でした。
ぼくは映画を見ていると、たいていどこか一箇所眠ってしまう。
でも、コンピューターを使った戦闘シーン、どの映画も一緒で、全然何の映画なのか見分けがつかなかったりする。
また書きます。これからでかけます。
友部正人
6月22日(土)ジョアン・ジルベルト
今日はすごく暑かった。30℃ぐらいあった。
土曜日なので、フリーマーケットに行った。
レコード屋でレコードを見ていたら、店の主人が冷えたミネラル・ウォーターを一本くれた。一気に200mlぐらい飲んでしまった。ぼくの持っていたのはとっくにぬるくなっていた。
炎天下のレコードは、手で触ると熱いと感じるほどになっていた。
レコードがかわいそうになった。
口があるのなら、ミネラル・ウォーターを飲ませてあげたかった。
「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」というレコードを見つけた。ジョン・ハモンドがプロデュースしたやつだ。
前から聞いて見たかった。先日の横浜ジャズ・プロムナードというジャズのお祭りで、ジャズのレコード・ジャケットの展示会をやっていた。
そこではじめて、ぼくはこのレコードのジャケットを見た。
めずらしいので、記念に写真まで撮ってしまった。
それが今日みつかったのでとてもうれしい。
前からぼくはここのレコード屋が好きだった。安いし、ロックのレコードよりも、ジャズやサウンド・トラックのレコードが多いから。
今日はおまけに、ラングストン・ヒューズが自作の詩を朗読しているレコードも見つけた。他にもいろいろと買った。
フリーマーケットに出店するには、予想以上にお金を払わなくてはならないみたいだ。そこのレコード屋の主人はフリーマーケットの開催者に135ドルも払っていた。
一日分である。高額なのでちょっと驚いた。
その割には、彼はレコードを安く売っている。ジャンゴ・ラインハルトなんか、どれも一枚一ドルだった。
今日はこれから、ジョアン・ジルベルトのコンサートを聞きに行く。
すごく楽しみ。ぼくはジョアン・ジルベルトのレコードは一枚だけ持っている。やはりそのレコード屋で前に買ったのだ。
「メキシコ」というようなタイトルだった。
夜になったら、少し涼しくなるような気がする。涼しそうな音楽だしね。
友部正人
6月23日(日) ロブスターのように真っ赤な満月
蒸し暑い日曜日。クイーンズでメグにピックアップしてもらって、コネチカット州のミスティックまでユミと3人でドライブ。
メグが持ってた、アーリー・タイムズ・ストリングス・バンドのCDを聞きながら、95号線を海岸に沿って北へ北へ。距離は東京から浜松ぐらいなのに、約2時間で着いてしまった。
町外れの海岸にあるロブスターのお店。もくもくと湯気が上がり、大きなロブスターを海水でゆでている。
680gぐらいのが約20ドル、それにスティーマーやマッセルといった貝なんかやクラムチャウダーがついて全部で28ドルぐらい。
飲み物はアイス・ティーとかレモネード。レストランではないので、そこにはビールもワインもありません。海水浴場の海の家のようなところです。
日曜でなければ、近所の雑貨屋でビールを買って持ちこめたのですが。
でも、アイス・ティーでロブスターも悪くはなかった。
その後はぼくは海岸で昼寝。ユミはメグとおしゃべり。
老夫婦が何もしゃべらずに、並んで本を読んでいてとても印象的。
すぐ前の海辺をひっきりなしにヨットやボートが行き交います。
いつのまにか夕方になっていました。
帰りに町で一番有名なミスティック・ピザでピザとビールを。
このお店は映画にもなっているそうです。
帰りはのろのろと時間がかかりました。途中のサービス・エリアで見た
満月があんまり真っ赤なので、暑くて月も疲れているのかな、
と思いました。
友部正人
6月26日(水) ナイアガラ
ナイアガラに行ってきました。一泊の旅行でした。
泊まったのはカナダ側です。2日間とても暑かった。
でも、観光客は部屋にばかりいるわけにはいかないものです。
なんとか出かけていかねばならない。
一日目はツアーだったので、テキパキと観光しました。
霧の乙女号にも乗ったし、テーブル・ロックでびしょびしょになって下から滝を見上げました。でも、お昼を食べたら、どっとくたびれてしまった。
朝のラ・ガーディア空港集合時間が5時15分だったのです。
ぼくたちは4時に家(73丁目)を出て、地下鉄で110丁目まで行き、そこから4時21分発の市営バスでラ・ガーディアまで行きました。
バスは空港で働く人たちやぼくたちのような旅行者で満員でした。
外はまだ真っ暗なのに。
そういうわけで、午後になったらエネルギーが切れてしまいました。
夕方までホテルの部屋で一休みして、また滝を見に行きました。
何度見ても、いつまで見ててもあきません。おまけにきれいな
虹がかかって、対岸の空には白い気球まで上がって。
翌日はウエンディズで軽い朝食をすませ、一日乗り放題のバス、ピープル・ムーヴァーで隣町のナイアガラ・オン・ザ・レイクに散歩に行きました。軽井沢のモデルにになった町だそうです。
でも、もっとずっときれいだった。小さな民宿もいっぱいあって、海のように大きなオンタリオ湖に面していて。
空港へ行くバスの出発まで時間があったので、ベトナム料理で腹ごしらえ。晩御飯には早い時間でしたが、食べておいて本当によかったのです。なぜなら、悪天候のために飛行機の出発が2時間以上も遅れたからです。バッファロー空港を飛び立ったのはもう10時近くでした。
窓の外を光がよぎるので、何かと思えば雷でした。飛行機は雷の稲妻の中を飛んでいたのです。ものすごい音と激しい揺れに、隣の人が「こんなの、だいじょうぶなのですか」と聞いてきます。
「さあ、ぼくにもわかりません。」と答えるしかありませんでした。
でも、無事にラ・ガーディアに着陸。またバスと地下鉄を乗り継いで、たった1ドル50セントで空港から家に帰って着ました。
他の町から帰ったとき、本当にマンハッタンが我が家のような気がします。
友部正人
6月30日(日) ゲイ・パレード
横浜ではサッカーの決勝戦があったそうですね。
ニューヨークではゲイ・パレードがありました。
お昼からはじまったパレードは、夕方まで延々と続きました。
参加している人たちの数の多さに感動してしまいます。
次から次とやってくるおかしな人たちの行列に、目を奪われてしまいます。
激しいビートに踊り狂う女装した男性や裸の人達に混じって、いろんなお店や会社、大学、市長、エイズの撲滅を訴えるグループなど何万という人たちが歩きます。
すごくきれいな下着姿の女性がいて、ナタリー・マーチャントにそっくりでした。
人は他人と違っていることを隠しがちですが、ああやってお日様にさらすことで生きることを謳歌できたら、病気などという言葉はあまり使われなくなるかもしれません。多くの人がそうやって人には言いたくないことを隠して生きていると思いますが、パレードを見ていると、とても力づけられてくるのです。すばらしいなと思います。
友部正人
7月4日(水) 時差ぼけ
日本に戻ってきています。暑いような涼しいような
はっきりしない天気ですね。とにかく湿度が高くてうんざりです。
時差ぼけのせいで、昨日は夕方6時から真夜中まで寝てしまいました。
その後はずっと目がさめています。夜通し起きていることってあまり
ないので、けっこうよかった。
あさって一緒にやるので、谷川さんの詩集を読みました。
そしたら鳥が鳴いて、次第に夜が明けてくるのです。
窓を少しあけて、外の変化を見ながら起きていました。
そして思ったのです。こういう時間の使い方もいいなと。
しばらくこんな感じでやってみたいなと。でも、そうするとライブができなくなってきますね。夕方の6時に寝るのでは。
ライブをお昼ごろからはじめなくてはならない。そうすると平日には絶対にできないし、休日なのにみんな早起きをしなくてはならない。誰もライブに来なくなりますね。
まあ、時差ぼけなりの時間の使い方もあるな、と思ったわけです。
友部正人
7月6日(土) 夏
久し振りに今日からまたツアーです。今日は谷川俊太郎さんと共演。
明日は大阪のロクソドンタでソロです。
久し振りなので昨日、スタジオにエレキギターを持っていって歌ってみました。このギター、すごく調子がいいのです。
いままであまりエレキギターに手を出そうと思わなかったのは、いい楽器に会えなかったからかもしれません。いろいろと想像がふくらむのは、まだ新鮮だからでしょうか。
空気の少ないビンの中のような毎日ですが、これもまた悪くないです。
この湿度、今はそんなに嫌ではない。
このごろ、公園で野宿している人達をよく見かけます。
ニューヨークのセントラル・パークでも、横浜の山下公園でも。
夏なんだなあ、と思います。
友部正人
7月8日(月) 星も見ないで
敦賀で会館の方からいただいた梅ワインを飲んでいます。
甘いのかと思ったらそうでもなくて、今日みたいに暑い日には最高かも。
今ごろ谷川俊太郎さんは中国。また違ったものを見て、いろんな人に出会って。
谷川さんのように日本語で詩を書く人が、世界中あっちこっちで朗読をするということにちょっとした刺激を感じます。
ぼくは敦賀の翌日、大阪でライブをして、今日は板橋文夫さんと次の北海道ツアーのためのリハーサルをしました。
板橋さんは去年とおととし、アフリカとブラジルをツアーしたんだそうです。特にブラジルという国の、文化を大切にする態度に感心していました。
「友部くんもブラジルへ行くといいよ。」
敦賀での谷川さんとの朗読と歌のコンサート、ぼくはまだまだやりたらない気分です。またどこかでできればと思います。
行きの新幹線の中では「ぼくはゲストでしょう。」と言っていた谷川さんですが、ステージではぼくをリードしてくれて、しかもぼくの本の宣伝までしてくれました。谷川さんは、詩集を売る情熱も詩を書く情熱も区別してなくて、そういうところがとてもすてきです。北陸にも何度も来ているようで、JRの「雷鳥号」より、同じ意味なのに「サンダーバード号」の方がかっこいい、ということも言っていました。谷川さんはあまりかっこよくない「加越」で東京に戻り,ぼくとユミはかっこいい「サンダーバード」で大阪に向かいました。
その前に、今回の企画者である時計屋さんの田代さん夫妻と、町のはずれの中池見湿地にとんぼを見に行きました。
そこには現在70種類のとんぼがいて、それは日本でも2番目に多い数だそうです。田代さん夫妻は仲間の人達とこの湿地を保存しようとしています。
なつかしい色をした水の中には、たくさんのメダカが泳いでいるのが見えました。飛んでいるとんぼを指差して、「ほら、あれがコシアキですよ。」
という風に、奥さんにいろいろと教えてもらいました。
銀やんまなんて見たのは実に小学校1年のとき以来。
ロクソドンタは大阪の天王寺にあります。近鉄の駅の裏のあたりです。
天王寺にもスター・バックス・コーヒーができていてびっくりしました。
若者の集まる場所になっているようです。
細い路地に、劇団キオの人たちの呼びこみの声が響きます。
ロクソドンタは劇団キオの芝居小屋なのです。
「友部正人コンサート、まもなく開演です。」
その声で、年配のカップルが足を止め、入ろうとしたそうです。
「あんた、この人知ってるの?」と女性に聞かれて、男性は「いや、知らん。」と答えていたそうです。
この日の音響はとてもすばらしく、何か賞でも差し上げたいくらいでした。背の高い灰皿のようなスピーカーも4本、客席の後ろの方に立てて、そこからも音が出ていたのです。
照明も、歌に集中できるように工夫してくれたそうです。後でビデオを送ってもらって見るのが楽しみです。この日は、「1976」「奇跡の果実」「休みの日」から歌いました。毎日こんな風に、3つぐらいのアルバムから選んで歌うといいかもしれません。
打ち上げは、韓国式の豚の焼肉でした。七夕なのに、星も見ないで焼肉に夢中になりました。
友部正人
7月17日(水)ジャズ
この日記を書きはじめて1年がたちます。
管理人のはなおさん、お世話になりました。これからもどうぞよろしく。
今日は横浜の子安で、バンジー・ジャンプ・フェスティバルとリハーサルをしてきました。
ちゃきちゃきの若いバンドで、ぼくはもう声ががらがらです。
本番は7月20日、吉祥寺スター・パインズ・カフェです。
ぼくの出番は6時ごろ。
北海道から戻って3日目になるというのに、まだあの板橋文夫色の世界から抜けだせません。
久し振りに面白いセッションをしました。上品なテイラーのギターが、板橋さんの音の荒波にもまれてたくましくなりました。
ルベシベ町、東川町、札幌と、3か所だけのツアーだったのですが、後半の二人のセッションの部分は毎回長くなり、札幌では8曲で80分を越えていました。つまり、1曲がとてつもなく長くなったのです。
激し目の3曲、「月の光」「38万キロ」「君はこんな言い方嫌かも・・」のせいです。どれも似たような感じだったという批判も身内からありましたが、やっているぼくとしては、そんなこと全くどうでもよかった。
板橋さんとのセッションのせいで、歌が普段の何倍も生き生きとしたのですから。
誰かが、ジャズは自由度の高い音楽だと言っていました。
ぼくの歌はそういう自由度の高いものとよく合うようです。
(たぶんコードがシンプルだから。)
板橋さんはジャズを自由度高く演奏できる人てす。
今回聞いてくれた人たち、ぜひ感想を聞かせてください。
板橋さんには「フォー・ユー」というとてつもなく美しい曲があります。ぼくはその曲の旋律をクロマチック・ハーモニカで吹きました。東川町ではうまくいったけど、札幌では失敗。
どこかでその雪辱を果たしたい。
「国境がなければきっと宗教もない。」板橋さんはジョン・レノンの「イマジン」のような人だと思います。
友部正人
7月19日(金)網走湖は美しい。 
今日は五反田で、奄美の朝崎郁恵さんのライブがあったのですが、満席だと知って家にいます。
成城石井で安売りしているバスというイギリスのビールを飲みながら。
安売りといえば、横浜駅のルミネの中のレコード屋で、ぼくの「ベスト・セレクション」を20パーセント引きで売っていました。
都会にいると、暇なときはどうしても買物に走ってしまいます。
でもツアー中は、暇なときはできるだけ観光をするようにしています。
前回の北海道ツアーのときも、ルベシベ町のライブの翌日、ユミと網走に行きました。
能取岬まで行きたかったのですが、観光バスに乗るしか方法がなくてあきらめ、網走刑務所の博物館に行くことにしました。
それから、北方民族資料館に寄り,その後網走湖に沿ってとことこと散歩しました。
呼人浦キャンプ場からバスに乗り、網走の次の駅の呼人まで。
文字から、あの寺岡呼人くんを連想しませんか。
そうなのです。この呼人が、寺岡呼人の名前の由来だそうです。
ずっと前に彼のお母さんの寿子さんから直接聞きました。
呼人くんが生まれる前、一人で北海道を旅していた寿子さんは、ふと窓の外に呼人という駅名を見たのだそうです。そのときのインパクトがそのまま呼人くんの名前になりました。そのことを知っていたので、ぼくたちはどうしても呼人駅に行きたかったのです。
さて、バスが呼人駅前についたら、ちょうど北見方面の列車が駅に入って来ました。駅はマッチ箱みたいに小さくて、駅員もいません。
ぼくたちがプラットフォームに着くと、列車は走りだしました。
反対側に止まってた列車にはとても乗れそうもなかったのに、あきらめていたぼくたちの前で止まってくれて、「乗りたいのか」と運転手が窓から首を出して聞きます。もちろん「乗りたい」と言い,ぼくたちは走って陸橋を渡り、反対側のフォームの途中に止まっていた列車に乗り込むことができました。
北見でのオフの日の、ちょっとした遠出の話でした。
その夜は北見のジャズ・フールというお店で、板橋文夫のソロを客席で聞きました。
友部正人
7月21日(日)吉祥寺暴動
そういえば先週、久し振りに西荻窪に行きました。
漫画家の永島慎二さんに会いに行ったのです。
永島さんと会うのも2年ぶりでした。ご病気だと聞いていたので会うまではとても心配でした。
体力はだいぶ落ちているようでしたが、話しているときはとても楽しそうでほっとしました。
その帰りに西荻窪を約10年振りぐらいでうろうろしました。
無農薬野菜のナモ商会ややっちゃんののみ亭にも行きました。
西荻窪はとても住みやすそうです。住んでみたいです。
その西荻窪に、バンジー・ジャンプ・フェスティバルの町田くんは住んでいます。南口の方だそうです。古い古いアパートだと言っていました。
その町田くんたちが主催するイベント「吉祥寺暴動」に昨日出演しました。
ぼくとバンジーの他に4バンド出ました。
一つのバンドの持ち時間は30分でした。ぼくはソロで3曲、バンジーと2曲、エレキギターでやりました。ソロの中の1曲は、行方知レズというバンドのヴォーカルの人にリクエストされた「一本道」でした。
バンジーとは,「夜は言葉」と「ぼくは君を探しにきたんだ」をやりました。
何回か練習しましたが、本番が一番良かった。町田くんのギターソロもきちんとしてて好感が持てました。
寺岡呼人くんが聞きに来ていたので、バンジーの3人と呼人くんとユミとで、終演後、無国籍料理店KuuKuuに行きました。10年振りぐらいに。
横浜にいると、普段中央線には全然行きません。ライブのある日は遅くなってしまうので、行きたいお店は終わってしまっています。
用事はほとんど東京なので、また東京にもどろうかという話もあります。
吉祥寺の空気はぼくによくあっています。長い間過ごしたことのある町だから。
ぼくが生まれたところだし、やっぱり公園といえば井の頭公園なのです。
はじめての遠足の場所。世界中でこの公園だけが、ぼくの真中にあります。
そんな吉祥寺でのバンジーのイベント、とても楽しめました。ありがとう。
友部正人
7月29日(月) 八重山日記
涼しい横浜だと思っていると、やはり夕方近くになるとぐっと暑くなってくるのですね。夏とはこんなにも屈折しているのか。
昨夜遅く石垣島から戻りました。石垣島はそれはそれは暑かった。
朝の6時から暑いのです。昼間はそれを重ね着して、太陽をシャワーみたいに背中にあてられているようでした。一番の被害は足の甲。
サンダルの跡がくっきりとつき、真っ赤になって靴もはきたくありません。
そうなったのは、27日の竹富島のサイクリングと、28日の黒島の豊年祭のためです。
27日は12時30分の船でユミと二人で竹富島へ。たった15分の航海です。
港に一番近い貸し自転車屋で一台ずつ自転車を借りました。
歩くと島の反対側の浜まで45分かかると聞いたので。
島の真中の道をまっすぐ浜辺へ向かいます。石垣の美しい集落、そのはずれにちろりん村という店があって、そこでかき氷とグァーバ・ジュースを飲みました。テレビの音が異常に大きかった。
浜で足だけ水につかり、遠くの空を眺めました。遠浅で波もありません。
毛並みのきれいな猫が、何匹も白い砂にもぐるようにして眠っていました。そこからまっすぐ資料館をめざして自転車をこいだのですが、とっくに行きすぎてしまっていました。気がつくともうそこが石垣島への乗船場です。これではいけないとまた引き返し、木の生い茂った集落の中に。
島の木陰は夢の中のよう。静かでとても心地よい。だけど集落の中の道はわかりにくく、探しているおそば屋も見つかりません。空腹と疲労のあげくに店は休み。あきらめて船着場に向かいました。
翌日は9時の船で黒島へ。10時からの豊年祭を見たいから。
港でまた自転車を借りました。一台1000円もしました。竹富島では一時間300円だったのに。
黒島の豊年祭はハーレーという船の競技と一緒になっているめずらしいものだそうです。この時期、八重山のどの島でも豊年祭が行われています。
じりじりと照りつける太陽は恐怖です。ぼくもユミも、田島征三さんの長女の、今石垣島に住んでいるふきちゃんも、テントのはしっこにできた影の中から動こうとはしません。沖縄本島から来た今回のツアーの主催者の野田さんだけ元気に写真を撮りまくっています。
やがて30分以上遅れてハーレーがはじまりました。
競い合うのは島の二つの部落の若者達です。
ぼくが水の中に入って観戦しようとしていると、岩から男が一人降りてきて、「絶対青い方が勝つよ」と言います。ビールを賭けようというので、ぼくは黄色を応援することにしました。彼はなんでもとてもよく知っていて、いかにも島の人なのに、東京の原宿から来たと言います。
昔は島の全部で4つの部落が競い合ったそうです。
ふんどしをつけた二人の若者が、浅瀬で待機する自分の部落の舟に向かって走ります。このとき、黄色は完全に青に負けていました。
男はまだ舟が沖に向かって走り出す前から、ビールはいただき、とはしゃいでいます。でも青は沖に浮かぶ目標を誤って、黄色に抜かされてしまいます。今度はぼくが「ビールはいただき」と叫びました。
舟が浜に着くと、そこからはまたふんどしの二人のかけっこです。
黄色の若者は何かに足をとられて転んでしまい,結局勝ったのは青でした。
男は「さあ、ビール、ビール」とはしゃぎながら、海水で何度もうがいをしてます。
「ああ、今日はこれじゃ歌えないな」なんて言いながら。それからビールのことなんかなかったみたいに、「さあ、歌って来よう」と走って行ってしまいました。その後ぼくは何度も男を探したのですが見つかりません。幻だったのでしょうか。
ぼくとユミと沖縄の野田さんは夕方の飛行機で帰る予定だったので、1時すぎの石垣島行きの船に乗りました。まだまだ続く祭と、焼けつくような日差しを黒島に残して。
みなさん、新聞の天気予報の気温だけ読んで、沖縄は東京よりも涼しいなんて勘違いしてはいけません。
気温と日差しの強さは別のものです。そしてその強烈な日差しこそが今はぼくの郷愁を誘います。
友部正人
8月1日(木) ビール?発泡酒?
今日は横浜のみなとみらいの臨港パークで花火大会がありました。
この時期、横浜では2回花火大会があるのですが、ぼくとユミはいつも山下公園ではなく、近所の臨港パークで見ています。本当にすごいよ。
日本の花火は。ニューヨークでも夏には事あるごとに花火が上げられるのですが、花火好きのユミにはニューヨークのは物足らないようです。
なんだろうな、これでもか、という心意気がニューヨークの花火にはないからかもしれません。それと、色彩などの繊細さかな。
それにしても、最近の花火見物客はまるでロックコンサートに来ているようなのりをしている。それは驚き。
今にもスタンディング・オベイションになりそうです。
そんな素敵な花火も見られないで、バンバンバザールはすぐ近くのドッグヤードガーデンで生演奏をしていました。あの歴史的にも意味のある美しい環境の中では、今夜のバンバンはずいぶん地味に見えました。でも、途中でぼくの「待ちあわせ」ををやってくれて、それがすごくよかった。それから後の曲が全部、ぼくには「待ちあわせ」のコーダのように思えてしまった。
ほんと、富永君は日本のジャンゴ・ラインハルトですね。
ドッグヤードガーデンは夏はビヤガーデンになっていて、心地よい風とビールが、予想以上にバンバンの音楽に合うのでした。
バンバンのいいところは、日本語でうたっていても、歌詞をあまり意識させないで人を躍らせてしまうとこかもしれません。
昨日は恵比寿ガーデンプレイスで、インターネット生中継というのを体験しました。山崎テツヤくんの「テツヤの部屋」という番組です。
ゲストはぼくの他に、田辺マモルくんとリクオでした。
本番の前からリクオは中ジョッキを三杯飲んでいておしゃべりです。
田辺君は飲まなくてもおしゃべりなので、ぼくはただ歌うだけですみました。すごい楽。
これほど何も決めないでオンエアーしてしまう番組も珍しいでしょう。
だって、歌いたかった曲も、話の流れでカット。
主に流れを作っていたのはリクオでしたが。
はじまってからも生搾りを飲みながらだったので、当然おしゃべりに流れがちですが、その流れを演奏にしむけたのはぼくでした。
歌ばかりだとまじめっぽいし、おしゃべりばかりだと聞く価値もないので、そこがむずかしいところです。もしこの様子を聞きたければ、namashibori.comで近い将来見られるということです。
ぜひウェブ・サイトをのぞいてみてください。
帰りはほとんど終電の時間だったので、タクシーで横浜まで送ってもらいました。去年、フジテレビのときは遠慮して途中から電車にしたのですが、はじめてタクシーで横浜に帰りました。
でも、首都高速は飛ばすので、ぼくは苦手です。
友部正人
8月3日(土) 楽しい葉山
朝6時に起きて、8時ごろの横須賀線で横浜駅から逗子に向かう。
葉山の関東学院セミナーハウスで開かれているポエトリー・セミナーに今日から参加する。
朝9時からのアーサー・ビナードさんの朗読に間に合うように、
こんな朝早くからユミとおおあわて。
着いたら朗読はもう始まっていた。ビナードさんは日本語で詩を書くアメリカ人。日本語で書いた詩を英語でも読みます。
2年間池袋の語学学校で日本語を習ったそうです。
詩は体験からくるもの。その体験を詩の朗読の前に聞くのも楽しい。
去年のアメリカのテロについて書いた「いくら広いアメリカ合衆国の空といえども」。ちょっと違った視点からものを見ていて、予想もしない方に話がすすんでいって、おもしろかった。
10時半からは3つの部屋で同時に3人の詩人の講義があったのですが、「荒川さんがおもしろいよ」と谷川さんがおっしゃるので荒川洋治さんの講義に。これが目からウロコの内容で,おまけにじーんとしたりしてぼくは大感激。ぼくとユミは夜の講義も荒川さんにしました。
お昼ごはんのときにビナードさんと喋りました。いつかまた喋れればと思います。
午後は小池昌代さんの朗読からはじまりました。名前の感じからもう少し年をとった人を想像していたら、全然ちがっていました。声が小さいのに話すことが大胆で記憶に残りました。
小池さんとも、夜の懇親会や翌日のお昼ごはんのときにたくさん話せてうれしかった。
その次はイギリスの詩人、ハリー・ゲストさんの講演。
日本にいたことがあり、日本語も話せるのに講演は英語でした。
エズラ・パウンドやT.Sエリオットのことなどを話してました。
ぼくは30分だけ聞いて、その後のぼくのライブの準備。
ちょっと昼寝をしました。
ぼくのライブは5時から6時まで。詩とちがって、歌だとそんなにたくさんはできません。マイクがなかったので、イアレスのピン・マイクだけで歌いました。
「6月の雨の夜,チルチルミチルは」「ふあ先生」「眠り姫」「こわれてしまった一日」などいつもの選曲です。最後の方で「一本道」を歌ったら、何人かの人たちに一番良かったと言われました。
セミナーに参加していた70歳の方が、「一本道」に大感激してくれて、夜の懇親会でもその方とたくさん話しました。みんなさびしい、悲しいような歌が好きなようです。
朗読は「ハシムシカ」と「アメリカの匂いのしないところへ」。
「アメリカの・・」ではコール・アンド・レスポンス、大きな声で
やってくれました。
8月4日(日)
谷川俊太郎さんと谷川賢作くんの朗読と演奏。賢作くんは明け方まで銀座のスタジオにいて、そのまま葉山にやって来たそうです。頭がくらくらすると言っていました。
俊太郎さんは「詩めくり」から、会場の人の誕生日を聞いて、その日の詩を読んでいました。やりとりが直接的で、読むというより言葉を投げ合ってる感じ。中国の田さんという若い詩人が,谷川さんの「ことばあそびうた」を中国語に訳して朗読しました。
これがとてもよかった。意味はわからないけど、音が波みたいにチャプチャプしていて。
田さんは谷川さんの詩に心酔していて、たくさん訳して中国の詩の雑誌に紹介したり、谷川さんを中国に招待したりしています。
「ぼくは日本のものは中国のものよりなんでも好き」という背の大きなかわいい人。
賢作くんの「モーニング・・・」というピアノだけのオリジナル、とてもきれいだった。ぼくは題名を聞かなくても、朝の音楽だということがわかった。窓はぴったりと閉じているのに、どこからか
朝の強い光が射しこんでくる感じ。詩よりも音楽の方が表現手段としてすぐれている、賢作くんがつっこんでも、ぼくもそう思う、と俊太郎さんも賛成してしまうのでけんかにならず。いつも仲のいい父子です。
閉会の挨拶(主催のエリオットさんが、箱根の川で思ったことを英語で話した。短い詩のようだった。)の後解散。
主催の大学の方たち、谷川父子、小池さん、田さん、王さん(大江健三郎の小説を中国語に翻訳している若い女性)、ゲスト夫妻とぼくとユミとで、大杉栄と伊藤野枝の事件で有名な日影茶屋でお昼ごはん。
上品な和風弁当とビール。酒好きの賢作くん、すごく飲みたそうだったけど、俊太郎さんに止められていた。
ちょっと親子みたいだった。その賢作くんに車で横浜まで送ってもらった。それから少し昼寝をして、夜再び葉山へ。
夜7時ごろ一色海岸のブルームーンという海の家についたら、ちょうど大島保克さんの演奏がはじまったところだった。すごい人の数。
300人ぐらいの人ですでに席は一杯。立ち見でした。途中からムーンライダーズの武川くんやギターの人も出てきて何曲か。
控えめな伴奏がとても美しい。美しいのは演奏だけじゃなく、すぐ前の海から聞こえてくる波の音。その砂浜に寝そべって無料で聞く人たち。よしずの天井のしたでじっと耳を傾ける大勢の人たち。おいしい泡盛の水割り。
大島さんの民謡に適したか細い声もまた美しかった。
海の家なので下は砂。ステージの横にはシャワー室。
演奏が終わってしばらくしたら、ぼくはもうだいぶ酔っ払っていた。
いったい何杯飲んだのやら。
大島さんや武川くんたちにさよならをして、バスで京急逗子駅まで。
その後の電車の中のことはもうあまりよく覚えていません。
覚えているのは、葉山というところがとても素敵だったこと。セミナーもブルームーンもとても楽しかったこと。
友部正人
8月8日(木) 海水浴
急に葉山が身近に感じるようになって、今日もまた葉山の森戸海岸に泳ぎにいきました。もう夕方だったので砂浜にも人は少なく、海の家もしまいかけていて、公衆便所で水着に着替えて、ぼくは30分ぐらい、ユミは1時間ぐらい泳いでいました。
水は生ぬるく、宮古島なんかより甘く感じました。
海岸から携帯電話で大塚まさじに電話すると、なんと彼はすぐ隣の海岸で一人でビールを飲んでいました。しばらくしてやってきた彼が、海の向こうを指差して、富士山が見えることを教えてくれました。
雄大な海の向こうの雄大な富士山。彼は毎日それを2時間も眺めているそうです。
海岸からすぐ近くにある魚料理の食堂で、ビールを飲みながら,
あじのたたき、かますの塩焼き、きんめだいの煮付け,小あじのから揚げをたべました。3人で1万円ぐらいだから、かなり安いです。
それからすぐそばのまさじの家に行き、大島保克の「島時間」を聞きながら、鹿児島の焼酎を飲みました。
まさじは15年葉山に住んでいるそうです。でも、海水浴に来た友達は
ぼくたちがはじめてだそうです。
友部正人
8月10日(土) 相模湖畔でウッドストック
スタッフの川瀬さんの運転する車で朝9時に横浜を出発。
多摩川に沿って北上し、中央高速で相模湖へ。着いたのは12時ごろでした。
湖畔でボートを待っていると、前日のキャンプ場利用者の山のような荷物を積んで、桟橋がやって来ました。動く桟橋です。
ボートでキャンプ場に着くと、バンバンがステージでぼくを待っていました。だから着くなりリハーサルです。
バンバンバザールとファンの人たちで作り上げた、キャンプ場でのコンサート。食料の飲み物も全部持ちこみです。大なべで煮こんだ300人分のカレーがおいしかった。やきそばなどもあったのですが、ぼくは3食カレーでした。
バンガローはまだ新しく、トイレもきれいでした。シャワー以外は不自由のないコンサートだったと思います。
あっ、でも、電力が足りなくて、ステージの照明が暗かった。
音はばっちりでしたが。
ぼくはソロで4曲、バンバンと5曲、約50分間演奏しました。
山の上に小さな観覧車が見えて、あそこには何があるのかなあ、なんて思いながら歌っていました。
6時半ごろ歌いはじめて、歌い終わったときにはもう真っ暗でした。
みんながカレーを食べながら聞いていたので、「夕暮れ」を歌いました。
「ぼくは一人カレーライスを食べている」というところでみんなが
拍手してくれました。そこが一番受けたみたい。
バンバンが終わって、出演者全員で「アイシャルビーリリースト」をやりました。それからキャンプファイアー。150人ぐらいの人たちが明け方3時ごろまで起きていたそうです。ぼくとユミはさっさとバンガローにもどりましたが、暑くてなかなか眠れませんでした。
8月11日(日)
朝6時。キャンプ場のオーナーが動力付きボートでどこかへでかけて行く。ステージのまわりには何十人かの人たちがもう起きて何かをしている。
徹夜をしたのかもしれない。ぼくとユミはキャンプ場の裏山に。
頂上まで行ったけど木立が深くて何も見えず。ぼくは転んですりむいた。
朝食はパンとカレー。カレーは3回目。みんなより一足先にボートで駐車場へ。
そこからサムズアップの小林さんが車で相模湖駅まで送ってくれた。
11時15分に高尾駅で田島きよえさんと千種くんと待ち合わせ。
身体障害者、千種くんの運転する車で今日の会場の青梅の繭蔵まで。
千種くんは名ドライバーです。
繭蔵のランチは特別でおいしい。満席なのに次から次へと新しいお客さんが来る。繭蔵の2階では、田島征三さんと田島さんの長男の燃くんの二人展が開催中。
田島さんは絵画、燃くんは椅子。
田島さんの30年近く前の作品、すごい力。燃くんの新しい椅子、愉快でどこか上品。
それにぼくの歌。ぼくの歌は絵でもあり椅子でもある。
まだメロディが存在しない闇の世界に重苦しく産声を上げるぼくの歌。
コンサートは3時30分からはじまった。田島征三さんとの語り、ぼくが田島さんのことを文章を「耳をすます旅人」から朗読すれば、田島さんもぼくとユミのことを書いた文章を「ともだちの絵本」から朗読する。田島さんのやわらかい声が、ドームのような繭蔵の中に響く。
ぼくは一曲新しい歌を歌う。「夜になると」というこの歌が入っているCDはないかとたずねた人がいた。
繭蔵のすぐ前のサクラ・ファクトリィというギャラリーで「青梅幻視画館」という個展を8月31日まで開いている中里和人さんも聞きに来てくれた。誘われて、後で個展を見に行った。わくわくするような小屋をテーマにした展覧会だった。朽ち果てようとする小屋、そこから先にある幻想の小屋。小屋は中里さんの頭脳の中にはびこっていく。見落としたところがいくつもありそうで、なんだか見た後もそわそわとしてしまう個展でした。
食事とお酒の後、また千種くんに横浜まで送ってもらいました。
約2時間、ぼくは後部座席でほとんど眠ってました。千種くんどうもありがとう。
友部正人
8月12日(月) 寿町
横浜寿町のフリーコンサートに行きました。
着いたら最初の渋さ知らずがもうはじまっていました。
ぼくもユミも渋さ知らずを見るのははじめてです。
楽器だけじゃなく、声も体もみんな使って音楽をやる集団です。
真中で片山広明さんが目立ってました。
今年の寿町はぼくが出た去年よりもお客さんが多いようです。
天気もよかったので、サイケデリックに盛り上がっていました。
渋さ知らずは音楽だけじゃなく、視覚的にもおもしろい。
ぼくもただ立って歌ってるだけなので、誰か踊りの人がつくといいかもしれない。
歌っている間そっちを見ててもらえば助かる。
後で片山さんにリーダーの不破さんを紹介してもらいました。
今日は指揮だけだったけど、普段はベースなのだそうです。
いつか一緒にできたらと思いました。
4番目にマーガレット・ズロースが出ました。最近「こんぺいとう」というセカンド・アルバムを出したばかりの3人組です。
ボブ・ディランの「見張塔からずっと」に自分たちの詞をつけた歌を最初にやりました。これはボブ・ディランから許可がでなくてアルバムには入れられなかったそうです。お父さんや自分や恋人のことを歌にするギターでヴォーカルの平井くんですが、聞いていると思いが伝わってきます。思いのある歌を聞くのは久し振りです。不思議な魅力に、それまで奇声を上げていた人たちも歌に聞き入っていました。
今出ている詩の雑誌ユリイカは島歌の特集ですが、詩人の田口犬男さんの詩が2篇載っていて、そのうちの一つがぼくにあてて書かれています。読むとぼくのことではないような気がしますが、一度読んでみてください。田口さんは今年の2月のライブ・ノー・メディアに出てくれました。
友部正人
8月17日(土)  おいしいタイ料理をいただきました。
おいしいタイ料理にありつけた。
今夜は鶴間のイーサン・カフェでライブをしました。
普段は夜7時から営業しているタイ人向けの酒場。
だから雰囲気は真夜中のムード。働いているのもタイの女性達です。
お店を経営しているのは中村さんで、ハイロウズが大好きなまだ若い男性です。彼の奥さんはタイの方で、鶴間の隣の駅、南林間で夫婦でイーサン食堂をやっています。
ライブの前にイーサン食堂で軽く食べました。とても辛くて元気の出るおいしさでした。だから今夜のライブ、なかなか良かったような気がする。7時からソウルブラザーズが演奏して、そのあとぼくがやりました。間に休憩を入れたのに、終演後だいぶゆっくりできたから、いつもより演奏時間は短かったのかもしれない。
でもそれでよかった。これからは短めがいいかもしれません。
ライブ終了後、タイすきをごちそうになりました。苦いシンハービールが良く合います。それからワインを何人かの人たちで一本空けてしまった。
ぼくが主に飲みました。
今回の主催はイーサン食堂とボナンザというロック・バーです。
ボナンザの戸川さんは63歳。まだまだ現役だそうで、ユミにベイビーと呼びかけていました。ライブの前にお店にも行ってみました。レコードとプレイヤーが現役の年季の入ったお店です。
小さいながらも、ときどきライブをしているそうです。
鶴間や南林間は外国人の多い町。行ったことはありませんが、ベトナムのサイゴンにいるような気がしました。横浜と比べるともっと外国です。人通りは少ないけど、いい雰囲気でした。
帰りは中村さんに車で送ってもらいました。帰ったらまだ12時半で、気分的には遠い場所なのに、実際はすぐ近くだったことを知りました。だからまたタイ料理を食べに行くと思います。
友部正人
8月21日(水)   出雲、鳥取、行ったり来たり
 
大阪オン・エアーでビギンのイベントに参加。
出演はビギンとぼくの他に、宮沢和史、沖縄のIN-HIというバンド。
ぼくはビギンと「ジョージア・ジョージア・オン・マイマインド」、どんとの作った「波」をやり、ぼくとビギンと宮沢くんで「涙そうそう」を。
宮沢くんとは二人で合作した「すばらしいさよなら」を演奏しました。
最後に出演者全員でぼくの訳した「アイ・シャル・ビー・リリースト」をやりました。ぼくはソロでも3曲やりました。
イベントの割にはたくさんやったでしょう?
このイベントでうれしかったのは「涙そうそう」と「波」を一緒に演奏できたこと。「涙」は「なだ」と読むのですよ。知っていましたか。
沖縄の方言だそうです。「そうそう」は子供がだーっと涙を流すような感じだそうです。
前日にリハーサルがあったので、ビギンと二日間過ごせたのもうれしかった。3人とも沖縄の石垣島の人たちです。石垣島へは行ったばかりだったので、ローカルな話で盛り上がることができました。
8月23日(金)
出雲の米山さん宅でライブ。豊田勇造やカラワンはやったことがあるそうですが、ぼくははじめて。
豊田くんがおきっぱなしにしているというP.A機材を使ってリビング・ルームでのライブ。お客さんは32人でした。
打ち上げは米山さんご夫妻お手製のタイ料理。ナンプラーなどで味付けしただけの玉子焼きがおいしかった。トムヤム・スープは何杯もおかわりしました。
8月24日(土)
倉吉の近くの羽合町夢広場での野外コンサート。仕事を休んだという米山さんに車で送ってもらいました。米山さんはこの夜倉吉に泊まり、翌日またぼくとユミを出雲まで送ってくれました。
2年ぶりの「おかまいなしカーニバル」でしたが、今回はお客さんの数がとても少なかった。一年休んだら、宣伝が大変だったと主催の磯江さんが言っていました。
思い出すのは1回目。まだどんとが生きていて、さちほさんと二人で演奏していました。そのときこのホームページをしてくれているはなおと出会ったのです。はなおはどんとの大ファンなので。
その翌年の2回目、ぼくはバンバンバザールと出演しました。
出演者がそれほど多くはないのになぜか押して押して、コンサートが終了したのは11時過ぎでした。
今年は3回目だったのですが、お客さんが3分の1ぐらいしか来なかった。
出演者の持ち時間がたっぷりとあるとてもいいコンサートなのにとても残念です。
でもアクアボムの永井くんの提案で、永井くんのボ・ガンボス時代に一緒にレコーディングした「朝は詩人」をアクアボム、山川ノリオくん、知久寿焼くんと演奏したり、知久くんと二人で「あいてるドアから失礼しますよ」をやったりと、楽しいこともたくさんありました。
朝からみんな雨の心配ばかりしていました。降水確率は50パーセントでした。ついに雨は降らなかったのですが、ライブが終わったら土砂降りになりました。まるで終わるのを待っていたみたいに。
あの黒い雲、みんな空のお客さんだったのですね。
8月25日(日)
出雲空港から飛行機に乗るために、米山さんに出雲まで車で送ってもらいました。倉吉から出雲までは車で3時間ぐらいかかります。でもこの日はなぜか早く着きそうだったので、途中の松江でなつかしいライブ喫茶MGに26年ぶりに寄り道しました。
お店の方、とても喜んでくれました。ぼくたちもうれしかった。
米山さんには3日間お世話になってしまい、おかげで楽しい旅行ができました。
8月31日(土)   田口犬男さんの新詩集
土曜日なのに、何もなく家にいるのはめずらしい。
ぼくの土曜日はほとんど仕事でうまっているから。
だけど家にいていいこともある。田口犬男さんの新しい詩集を真っ先に手にとれたから。
最近ぼくのことが出てくる詩をユリイカに発表した田口さんの新しい詩集「アルマジロジック」が思潮社から発売になりました。
とても愉快でどこかせっぱつまったような感じもある詩集の一部を紹介しますと、
最近の音楽ときたら聴くに耐えないね
まるで資本主義と伴走する犬のようじゃないか
そもそも魂がはいってないんだな
おれなんか魂だけになっちまったっていうのに
(「ジョンの魂」より)
ところでこの本の表紙にユミの写真が堂々と使われています。
ニューヨークのチルドレンズ・ミュージアムの前を老人が歩いている写真です。
チルドレンズ・ミュージアムの前を歩く老人というのが詩らしいのですが、その老人の後ろをアルマジロが歩いているのです。
もちろんアルマジロはコンピューターによる合成の処理によるのですが。
淡い光のきれいな透明感のある写真です。
田口さんの新詩集、ぜひ探してみてください。
友部正人
9月1日(日)弓削牧場ジョイント・ライブ
神戸の弓削牧場でVOCEとのジョイント・ライブがありました。
弓削牧場は六甲山の裏山にある牧場です。約50頭の乳牛がいて、牛乳、生チーズ、シフォン・ケーキ、ジャム、乳清で作った石鹸などを作っています。
今日のライブは軽食つきでした。チーズを作る過程でできる乳清ホエーを使ったシチュウや、牧場で焼いたベイグルのサンドイッチ、チーズ、牛乳、みかんジュース、シフォン・ケーキなどが出されたそうです。
ライブ終了後、出演者も同じメニューのものをいただきました。
ぼくは暑い真夏なんか、1日1リットル近くの牛乳を飲むので、そのうち結石になるよとユミにいわれていたのですが、牧場のご主人の弓削さんにお聞きしたら、牛乳はいくら飲んでもだいじょうぶだということでした。牛乳、チーズ、パンにワインがあれば、人間に必要な栄養素は全部そろうのだそうです。
弓削さんの自慢は、弓削牧場で発案されたチーズの冷奴です。
ナチュラル・チーズに鰹節や玉ねぎの薄切り、しょうゆをかけて本当に豆腐の冷奴のように食べるのです。ぼくたちはライブ終了後にこれもいただいたのですが、あっさりしていてチーズとは思えなかった。
ニューヨークでも広めてください、といわれました。
ライブはVOCEが1時間、ぼくが1時間という割合でした。でもぼくの3分の2の曲にVOCEがバンドとして参加してくれたので、VOCEはほとんど出ずっぱりのようなものでした。
VOCEはボサノバを基本にして、沖縄や日本の民謡のようなものまでこなすユニークなバンドなのです。リーダーはギターのカオリーニョ・藤原さんで、トロンボーンとピアノは中島徹さんです。ヴォーカルはカオリーニョ・藤原さんの奥さんでもある高田靖子さん。とてもきれいな声の人で、歌唱力も抜群です。曲のタイプによって声質ががらりと変わるのも靖子さんの特徴です。いろんな音楽に影響を受けたと言っていました。サンシンも3曲披露してくれて、その1曲はぼくの「働く人」でした。
VOCEとはほかに「月の船」「月の光」「言葉の森」「すばらしいさよなら」「雨の音が聞こえる街」をやり、アンコールでも「ラブ・ミー・テンダー」を全員でやりました。
今日は用意された75枚のチケットは完売になり、キャンセル待ちの人が20人以上いたそうです。主催の靖子さんは「2回公演にすればよかったなあ」と悔しがっていました。
友部正人
9月2日(月) おもしろかったリクエスト大会
京都の磔磔で、今年2度目のリクエスト大会がありました。
1回目は6月に吉祥寺のスターパインズカフェでありました。
それで、東京と京都のリクエスト曲の傾向を比べてみました。
京都のリクエストは古い曲に集中していました。それゆえに暗い曲が多かったみたいです。「また見つけたよ」「誰もぼくの絵を描けないだろう」あたりの曲をいったいどんな人たちが聞きたがっているのかと客席を見たら、若い人たちが多いので意外でした。
後でアンケート用紙を読んだら、お母さんがよく聞いていたので歌を知っていて、はじめて聞きに来たという人もいました。
70人の人が3曲ずつリクエストすると、最大210曲もリクエストがあるわけですが、京都の場合はそれに近いくらいリクエストされた曲がばらばらでした。それで普段はあまりやらない曲を選んで歌いました。その方がぼくにとってもおもしろかった。
はじめから、普段よくやっているのはどけてあったのです。
一番めずらしかったリクエストはたぶん「ひとり部屋にいて」でしょう。
「誰もぼくの絵を描けないだろう」の中でも最も暗く目立たない曲を3人もの人が選んでくれました。これは次のリクエストタイムズのトップを飾る記事になりそうです。
休憩の後はリクエストの多かった曲を演奏しました。自分で選曲するとどうしても偏ってしまうので、リクエスト大会はぼくにとってもおもしろいコンサートです。
友部正人
9月3日(火) 清水寺で扇子を買った。
今日は京都でオフでした。ホテルにあったランドリーで洗濯をしただけでもう夕方になってしまいました。
それだけではもったいないので清水寺に行ってみました。
五条通りには清水焼のお店がたくさんありました。
あまり歩いたことのない通りだったので物珍しかった。
途中で人力車に乗らないかと誘われました。二人で3000円から8000円ぐらいだそうです。でも歩きたいので断りました。道路標識の支柱で体操のまねなんかをして、若い車引きはみんなとても暇そうでした。
清水寺の三重塔はネパールのお寺のようにカラフルでした。
どんとが描く絵にもよく似ていた。本殿も含めて、色の塗っていない建物はみんなとても古い。ぼくはその古さにとても感心してしまった。清水の舞台は飛び降りる気にはなれないくらい高かった。
帰り道には扇子を売るお店がたくさんあって、歩いているうちにだんだん欲しくなってきて、ついに買ってしまいました。
ぼくとユミで一本ずつ買いました。なんとなく扇子はおもしろい。
冬でも持って歩くつもりです。
八坂神社の前のコンビニでビールを買って,鴨川のほとりに座って二人で飲みました。小さな鷺が一生懸命魚を捕ろうとしているのを見ながら。鷺はかなり我慢強く待っていたけど一向に魚が来ないのか30分ぐらいしてあきらめて飛んで行った。
夜は拾得でご飯を食べようと思っていたけど休みだったので、アンデパンダンに行ったら、今度はライブ中。しかたなくシェイキイズのピザを食べました。夜も食べ放題をやっていたのです。
隣で日本人の若い女の子が英語を話す外人といたのだけど、女の子は英語がわからないみたいで,「鼻が見つからないくらいぺちゃんこだね。」と言われてもきょとんとしていた。ヨーロッパの人はよく日本人の鼻の低いことを話題にします。ドイツで日本人の顔は鼻が低いので猿みたいだと言われたこともある。
英語がちんぷんかんぷんの女の子と外人は、やがてどこかに消えました。
ぼくたちはただ満腹になり、本屋で立ち読みをして、ホテルに帰って眠りました。
友部正人
9月5日(木) 鞆の浦
昨日は倉敷の音楽館でライブがありました。お客さんの数は少なかったけど、CDや本がたくさん売れました。
そういったこともライブに対する反応のひとつと思ってもいいかもしれません。
鳥取県の倉吉から、「おかまいなしフェスティバル」の主催者、杉原さんと礒江さんが来てくれました。「今年はお客さんが少なかったから、来年もう一度やる」と言っていました。
こういうとき、止めてしまう人と、今度こそと思う人と二通りありますね。ぼくも今度こそと思うタイプだと思います。
杉原さんたちも倉敷に泊まったので、今日はお昼から礒江さんの車で、4人で鞆の浦に遊びに行きました。
その前に倉敷の美観地区にある古本屋「蟲文庫」に寄り、ぼくはレコードを、ユミは文庫本を買いました。店主の田中さんはまだ若い女性で、いつもぼくのライブに来てくれる人です。
鞆の浦は福山市の古い港町です。町並みが古いまま保存されています。建物の壁が上に行くにしたがって外側にそっているのが特徴です。日差しがきつくて、影のないところにはあまり長くいられませんでした。散髪屋を改造したというカフェでオムライスやハヤシライスを食べました。それから福寿寺というお寺の見晴らしのいい窓から、風にあたりながら瀬戸内海を見ました。
入場料は一人200円。観光客が誰も来なければ、毎日そこでごろんと寝そべって本を読みたいです。
でも観光客はひっきりなしで、お寺の住職もその相手をするので200円をとるのも忘れている。
福山の駅まで送ってもらい、ぼくたちは新幹線で広島へ。
杉原さんと礒江さんは倉吉へ。たった3時間ぐらいだったけどおもしろく過ごしました。
友部正人
9月11日(水) パスカルズとエリック・カズ
吉祥寺のスターパインズカフェでロケット・マツ率いるパスカルズのライブがあり、ぼくも飛び入りして3曲一緒にやりました。
「こわれてしまった一日」、「何にもないうた」、「長井さん」です。
「何にもないうた」は作詞がぼくで、パスカルズの新しいCDに入っています。ぼくも頭のカウントだけ参加しています。
スターパインズの二階でライブを聞くのははじめてでした。二階までお客さんで一杯でしたが、二階は聞きやすかった。
マツはしきりに「今日は変だ」を連発していましたが、変なのはマツだけで、パスカルズの演奏は2年前よりずっとまとまっていてよかったです。ぼくがカポタストを忘れてステージの裏に取りに戻ったら、「今日は友部さんも変ですね」と言われてしまった。
パスカルズのアレンジした「長井さん」は最高で、あれからずっと耳を離れません。いつかまたマツに曲のアレンジを頼もうと思います。

9月12日(木)
横浜駅のすぐそばのサムズアップというライブハウスで、エリック・カズのライブを聞きました。エリック・カズは今年、「1000 years of sorrow」というアルバムを出しました。ソロ・アルバムとしては28年ぶり、3枚目だそうです。ぼくが覚えているのは、阿佐ヶ谷の友人のうちで、中川五郎がエリック・カズのレコードをかけて聞いていたことでした。
鼻にかかったヌガーのような声は、ランディ・ニューマンより湿っていて、より悲しげでした。
今日のエリック・カズはとても陽気で、満員の横浜のお客さんに一生懸命愛想を振りまいていました。でも忘れていた歌を思い出しながら演奏しようとしているときの表情はとても美しかった。あんな表情で歌を作るんだな、と思いました。横浜のお客さんが気に入ったらしく、しきりになぜもっと前に日本に来なかったのだろう、と言っていました。
28年もの長い空白の時期にも、ちゃんと人に曲を書いて仕事をしていたんだという説明をしながら。後でバンバンバザールの福島くんがぼくのそばに来て、「そうだよね、人に歌ってもらえたら、自分で同じ歌を何度も歌わなくてもいいんだよね」と言っていました。自立するとき、お母さんから料理の本を持たされたそうです。自分で料理をするようにと。そんなすてきなお母さんを持つ若者は、恋愛にはとても苦労したみたいです。幸せなラブソングが一つもないからです。今夜も歌いましたが、「Someday My Love May Grow」は少し希望があっていい曲だなと思います。

9月9日にサムズアップでバンバンバザールと共演したラリーパパ・アンド・カーネギーママという大阪のバンド、とてもよかった。新しいCDをいただいたので帰って聞いてみました。ライブだとよくわからなかったのですが、歌詞がとてもいいのです。情景がおだやかでちょっぴり悲しくて。
バンドの音にも間があって、5人の人のたたずまいから情景が立ち上ってきます。ぜひ共演してみたいバンドです。
9月15日(日)東中野のBOX東中野という映画館でライブをします。
「クレイジー」というドキュメンタリー映画の上映と合わせて。
「クレイジー」はオランダの記録映画で、海外の戦場から戻った兵士たちに体験や心の傷を聞いています。そしてその傷を癒すその人の一番好きな曲をかけます。戦場ではちょっと信じられないようなことが普通に起きているみたいで、知らない間にそれが普通のことになっていく怖さ。自分が許せなくて自殺しようとした人。
上映は午後7時45分から、その後に9時45分からぼくのライブです。
長くなりました。また書きます。
友部正人
9月16日(日) ゴールデンサークル
東中野のBOX東中野という映画館で、ドキュメンタリー映画フェスティバルの企画に参加して歌いました。今夜は、「クレイジー」というタイトルの映画とぼくのライブとの組み合わせでした。映画は、ぼくは事前にビデオで見ていたのでぼくは見ませんでした。上映が終わっても、席を立つ人が少なかったようなのは、映画のテーマの重さのせいかもしれません。こういうシリアスな内容の映画とのカップリングは、歌にはつらいものです。
それは前夜の「A2」と小室等さんを見ていても感じました。映画の方が圧倒的に重いのです。その重さに歌はつられてしまいます。
映画のリアリティはたいしたものです。
はたして今夜のぼくは、「クレイジー」のリアリティの重さにつられたでしょうか。もしかしたら、映画を見たばかりの人たちの目を少しは意識したかもしれません。なぜなら、「クレイジー」を見た直後の人たちの目は停止していたから。
いい体験でした。歌は常に目の前にあるもののもっと向こうを見せようとします。でも、映画は終わったことを体験しているのです。
ぼくはぼくの終わったことをたくさん歌いました。
そうすることでいつのまにか一緒の場所にいることができました。
そう思います。
9月18日(水 )
寺岡呼人くんのシリーズ化されているイベント、ゴールデン・サークルを聞きに行きました。会場は渋谷公会堂のすぐ近くのAXというところでした。
でもぼくとユミは、会場までの行き方の指示通りに原宿で下りました。
けっこう歩いた。
着いたらすぐにガガガ・SPでした。「自衛隊に入ろう」をやっていました。
呼人バンドの後、ゆずと斉藤和義くん、そして忌野清志郎くんでした。
今回のゴールデンサークルは盛り沢山でしたが、清志郎くんばかりが目立って、忌野清志郎サークルでした。どうして人のコンサートを自分のコンサートにしてしまうのでしょう。これからは清志郎くんが出るゴールデンサークルは聞きに行かないことにします。
ロビーで呼人くんの弟の黙くんに久しぶりに会いました。カナダの森の中で暮らしている人みたいでした。すっかり顔にも森の木の根っこが生えていました。その黒々としたひげを見たら、ぼくはとても森が見たくなりました。
友部正人
10月4日(金) 横尾忠則
木場の現代美術館に横尾忠則を見に行きました。
東京駅からバスで約30分。東京、神奈川共通のバス・カードがあるととても便利です。
着いたらもう5時半でしたが、金曜は9時までなのでだいじょうぶ。
予想したほど混んではいなくて、とても見やすい。最初に小さな部屋があって、そこからカーテンをくぐると大々的な横尾忠則の世界。
初期の作品はめちゃくちゃな中にも整ったものがあり、たぶん何回も見たことがあって、しみこんでしまっているのでしょう。
全体に深刻なものは一つもなくって、新しい作品ほどむちゃくちゃがむちゃくちゃになっていっておもしろい。
死や霊がテーマになっているものは、その数の多さと一直線な感じで深刻な感じもしたかな。
最後に最近夢中になっているというY字路の連作。ぼくは横尾のYからこの発想を得たのかと思ったけど、ユミは違うといいます。
横尾忠則が生まれた町で見つけたY字路がはじまりなのだそうです。
途中に靴を脱いで手に持って入る部屋があって、なんとその部屋の壁も天井も滝のポストカードで埋め尽くされていました。
ちょっと映画「ビューティフル・マインド」を思い出した。
その気迫には参りました。
絵の具のチューブや絵筆を貼り付けた「アーティストの河」では、つい先日刈谷美術館で見た、木の実や小枝を使った田島征三さんの新しい作品を思い出しました。絵の具の代わりに木の実や木の一部を使った田島さんの作品の方が迫力があった。魂が感じられて。
このごろいろんな美術館に行くのが趣味の、ぼくの横尾忠則鑑賞日記でした。
友部正人
10月4日(金) 横尾忠則
木場の現代美術館に横尾忠則を見に行きました。
東京駅からバスで約30分。東京、神奈川共通のバス・カードがあるととても便利です。
着いたらもう5時半でしたが、金曜は9時までなのでだいじょうぶ。
予想したほど混んではいなくて、とても見やすい。最初に小さな部屋があって、そこからカーテンをくぐると大々的な横尾忠則の世界。
初期の作品はめちゃくちゃな中にも整ったものがあり、たぶん何回も見たことがあって、しみこんでしまっているのでしょう。
全体に深刻なものは一つもなくって、新しい作品ほどむちゃくちゃがむちゃくちゃになっていっておもしろい。
死や霊がテーマになっているものは、その数の多さと一直線な感じで深刻な感じもしたかな。
最後に最近夢中になっているというY字路の連作。ぼくは横尾のYからこの発想を得たのかと思ったけど、ユミは違うといいます。
横尾忠則が生まれた町で見つけたY字路がはじまりなのだそうです。
途中に靴を脱いで手に持って入る部屋があって、なんとその部屋の壁も天井も滝のポストカードで埋め尽くされていました。
ちょっと映画「ビューティフル・マインド」を思い出した。
その気迫には参りました。
絵の具のチューブや絵筆を貼り付けた「アーティストの河」では、つい先日刈谷美術館で見た、木の実や小枝を使った田島征三さんの新しい作品を思い出しました。絵の具の代わりに木の実や木の一部を使った田島さんの作品の方が迫力があった。魂が感じられて。
このごろいろんな美術館に行くのが趣味の、ぼくの横尾忠則鑑賞日記でした。
友部正人
10月8日(火) アフリカ映画
恵比寿のガーデンプレイスにある写真美術館でアフリカの短編映画を見てきました。夜7時からの映画は3本とも女性がテーマでした。男に頼らざるをえない女たち。子供に関心のない男に失望してやっと自立を決意する。
父親の気持ちのままに生きる母親に失望して自立しようとするが、仕事がなくて麻薬の売買で生きる友達のところに転がり込み、トラブルに巻き込まれそうになり、母親の助けを借りて、まだ小学一年生の娘と町を出る女。
7月の嫁入りの夜に揺れ動く若い女の心。
貧しい男たちは犯罪に生き、貧しい女たちはその男たちに頼らざるをえない現実。
どれも短い話でしたが、テーマがはっきりしていておもしろかった。
まだ当分やっているので、他の作品も見てみるつもりです。
上映の前にガーデンプレイスのベンチでおにぎりを食べていたら、身なりのきれいなちょっとおかしいおばあさんが話しかけてきて、10分ほどその話を聞いていました。
政治の話だったのでつまらなくなって途中で立ってしまったけど。
このごろ変わった人が多くなってきて、都心はかえっておもしろいかも。
友部正人
10月18日(木)  旅の仲間へ
10月15日、いつもの飛行機でニューヨークへ。今回は座席が一番後ろの方でした。いつものようにワインを飲んで、いつものように映画を見て。映画はヒュー・グラント主演の「アバウト・ア・ボーイ」でこの映画を見たがってたユミはうれしそうでした。
おもしろい場面、たくさんありました。
だけどぼくも好きな「キリング・ミー・ソフトリー」が時代遅れの曲として笑われるのはうれしくなかった。いい曲なのに。
ニューヨークのアパートに着いたら4時ごろで、部屋を掃除したりシャワーを浴びたりしてたらもう夜。銀行に行ってそれから近所の小汚くて最高においしい食堂でハンバーガーを。
大皿山盛りのグリーク・サラダも食べました。
着いたそうそう天気が悪く、翌日もずっと雨でした。隣のニュージャージー州では、水につかった町もあったようです。
アーヴィング・プラザというライブハウスで、スリーター・キニーというバンドのライブがありましたが、チケットは売り切れでした。
ぼくは古本屋なんかで遊んでいて、帰りがちょっと遅くなりました。
今日は朝からいい天気。ちょっと寒かったけど、バスや地下鉄であっちこっちに遊びに行きました。ユミの好きなプレッツェルタイムで甘いプレッツェルを買って、駅のごみ入れをテーブル代わりにして食べました。
ICP(国際写真センター)に写真の展覧会を見に行き、日本食マーケットで買い物をして、タイムズ・スクエアのバージン・メガストアでCDやDVDを買いました。
さすがにタイムズ・スクエアのあたりはすごい人で、どこのレストランも満員だし、みんな楽しそうです。そんな人ごみの中を歩いていると、ついさっきICPで見たばかりのアフガニスタンの人々のことがフラッシュ・バックしてくるのでした。タイムズ・スクエアのような人ごみで平然と、銃殺刑や絞首刑、規則を守らない女性への殴打が、つい最近まで行われていたのです。
さて、ぼくたちと同様に、このホームページの管理人をやってくれているはなおさんもしばらく旅に出るそうです。三週間ぐらい家を留守にすると言っていました。ですから、その間のぼくの日記は更新されません。しばらくぼくの日記が載らなくても誰も困らないので何も気にしていません。掲示板の方は生きてるはずですから、
そちらを活用させてもらうかも知れません。
遠くニューヨークからですが、はなおさん楽しんできてくださいね。
友部正人
10月20日(日)  風に吹かれて
ソーホーの西のはずれのEARというバーで、ぼくとユミとメグとジョーの4人で晩御飯を食べました。
メグもジョーもぼくの書くエッセイの中ではおなじみの人たちです。
メグは20年以上もアメリカにいて働いている日本人、ジョーはぼくたちがランブリン・ジャックのライブで知り合った49歳のアメリカ人です。
今日はぴかっと晴れた日曜日で、どうしてもお酒で陽気になりたくなります。ぼくは鶏肉の入ったシーザーサラダ、ユミはよく焼いた牛のステーキ、メグとジョーはホタテの貝柱です。
ひどく空腹だったぼくには、サラダはちょっと間違った選択でしたが。
ジョーがいるとどうしても話はボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンのことに。独身の彼はニュージャージーの4部屋もあるアパートに住んでいて、どの部屋もボブ・ディランなどのライブやテレビ番組のコピーなどの映像や音の資料で一杯だそうです。別に音楽関係の仕事をしているのではありません。マニアなのです。今日もぼくたちにボブ・ディランが1963年に出演したテレビ番組のビデオのコピーをくれました。
「風に吹かれて」「ホリス・ブラウンのバラード」など3曲を、ブラザーズ・フォーの演奏をバックに歌っています。ぼくはこの映像は初めて見ました。
「ホリス・ブラウン」を歌っているときのディランの表情がとてもすばらしい。
メグは最近、映画「バラッド・オブ・ランブリン・ジャック」の中の全せりふを日本語に翻訳しました。これには大変時間がかかったと言っていました。
だから映画の中の会話は全部記憶してしまっていました。食事の後に、日本語のおかしなところをユミに訂正してもらっていました。長年英語で暮らすメグは、日本語表記の細かい決まりを忘れてしまっています。
この映画はランブリン・ジャックの娘のアイヤナが、父であるランブリン・ジャックの足跡をたどったドキュメンタリー映画です。ぼくたちは今、なんとかアイヤナに連絡をとろうとしています。メグの翻訳を字幕に使えば、日本でも上映できるからです。連絡がつけば、その後の上映権のことなどはやってあげるよ、と言ってくれている人がいます。
そのときにはジャックも日本に呼んで、歌ってもらえたらと考えています。
暖かい日曜日が終わって、ぼくはもうすぐ眠るところです。「風に吹かれて」は今この時代にヒットしてもちっともおかしくない歌です。
友部正人
11月3日 ニューヨークシティマラソン
今年もニューヨークシティマラソンに出場しました。去年に続いて二度目です。
マラソンも二度目です。今日はとても寒く、走ってる間だけでした、暖かかったのは。マラソンをはじめて見るユミは、ブルックリンのベッドフォードとマンハッタンのセントラルパークでカメラをかまえて応援してくれました。
ベッドフォードでは台湾人の友達にも応援してもらってうれしかった。
また別の写真家の友人はセントラルパークでカメラを構えていたにもかかわらず、ぼくが見つけられなかったようです。
かかった時間は明日のニューヨークタイムズに載りますが、去年より10分ぐらい早かったと思います。その早かった分、今はちょっと足が痛い。
ぼくを撮り損ねた写真家が、彼の友人の絵描きや絵本作家を呼んで、32丁目のコリアンタウンでお祝いをしてくれました。日本酒の熱燗でようやく寒さからすくわれたような気分です。
友部正人
11月4日(月) 続 ニューヨークシティマラソン
今日は昨日より暖かく、さっきまで小雨が降っていました。
ニューヨークタイムズに昨日のマラソンの結果が載っていました。
参加者32185人中、ぼくの順位は4040番、公式タイムは3時間37分27秒でした。
はじめて走った去年よりも15分以上速かった。
42丁目の図書館の前からチャーターバスに乗ったのが朝の6時ごろ。気温は2℃ぐらいでした。
スタート地点のスタテン・アイランドに7時前ぐらいに着いて、風の当たらないテントの中で本を読みながら4時間待って、11時15分にレース開始。
みんな自分の着ているものになんらかのメッセージを書いていて、それを読みながら走るのも楽しい。自分をはげます人、友達や死んだ人のために走る人、様々です。
ぼくは目立たない白いシャツと赤いパンツで走りました。
来年もしまた走るのなら、その白いシャツに何か絵を描こうかな、と走りながら思っていました。
友部正人
11月5日 黒田さんとのセッション
今夜のニューヨークは雨です。今までより暖かい。
黒田征太郎さんとセッションをして今帰ってきたところです。
黒田さんは絵で、ぼくは歌で。
場所はミッドタウンにあるフェリッシモというお店の5階。
約束の時間に行くと、床や壁にキャンバスがはりめぐらされていました。キャンバスには2週間前に黒田さんが、9/11 2001のテロで死んだ消防士の子供たちと描いたという絵が描かれていました。
その絵の続きを、黒田さんは絵の具で、ぼくは歌で描こうというわけです。おもしろかった。約1時間半、ときには黒田さんが描いたところを靴で踏んだりしながら思いっきり歌わせてもらいました。
黒田さんの知り合いのカツさんが一緒にギターでいろいろとおもしろい音を鳴らしてくれました。
絵を描いている黒田さんの背中を見ながら歌っていると、自分がその上にのっかっているような、そこからジャンプして飛んでいけそうな、そんな気がするのでした。
見ている人は黒田さんのほんの数人の知り合いだけ。
ぼくはすっかり自分がどこにいるのかを忘れてしまっていました。だから黒田さんに誘われてみんなでご飯を食べに外へ出たとき、そこがニューヨークだということにとても新鮮な驚きを感じたのでした。
友部正人
11月11日(月) いわきのいわし
昨夜のいわき市のソニックでのライブで、ぼくはまたまた歌詞が途中でわからなくなってしまいました。「6月の雨の夜チルチルミチルは」のときです。(歌詞カードは持っていたのですが、めんどくさいので準備しなかった。)
そしたら客席にいた人たちが、ぼくが度忘れした歌詞を代わりに大声で歌ってくれました。なんてすばらしい!
ぼくは客席で歌う人たちの声を聞きながら、そのまま最後まで一緒に歌ったのでした。心地よかった。
これからも一曲ぐらいは歌詞を忘れてもいいかな、と思うのです。
こんな風に客席と一体になれるのなら。でも度忘れというのは突然起こるものなので、どの歌を忘れるかはそのときにならないとわからない。そういえば横浜のサムズアップでのエリック・カズのライブのときに、歌詞を持参してきているお客さんがいました。たぶんエリックが忘れてしまっている歌をリクエストするために。
「チルチルミチル」をぼくのために大声で歌ってくれたのは、その日ぼくの前に演奏した人たちでした。その中のあぶらすましというバンドの人たちが、翌日ぼくとユミを海洋科学館に連れて行ってくれました。
彼らはそこで働いているのです。不可能だといわれていたさんまの飼育に成功したという、世界でもめずらしい水族館です。
そこの巨大な水槽で見たいわしの大群、すごかった。きれいだった。
水族館から出ても、道路を走る自動車が、ひれのないいわしに見えて仕方ありませんでした。
友部正人
11月13日(水)
来年1月15日にMIDIレコードから発売になる「LIVE no media 2002」のマスターリングをしました。
これには合計13人の歌手と詩人が参加して1編ずつ自作の詩を朗読しています。今回はライブなので、朗読の前におしゃべりなんかも入っていて、それがとても楽しいです。ジャケット・デザインはいつもの宇佐美とよみさん、写真は小野由美子。発売まであと2ヶ月ですが、
お楽しみに。
その後横浜のサムズアップに、パスカルズのライブを聞きに行きました。
今日はいつもより二人ほど少ないパスカルズでしたが、バンドマスターのマツがいつになくハイテンションで、とても盛り上がりました。
アンコールでは予定にないのにぼくも飛び入りで「なんにもないうた」の2番を歌ったり、打楽器で演奏に参加したりしました。チェロの弦が切れて、弦を替える間に「こわれてしまった一日」をパスカルズと歌いました。
いきなりやったのに、みんなぼくの歌をよく覚えていて驚きました。
パスカルズのメンバーには昔からの友人が多く、ライブが終わってもつい だらだらと1時半ごろまでサムズアップにいて、それから知久くんや
PAの小俣くんたちが東京に帰る車で、サムズアップからすぐ近くのぼくたちの
家まで送ってもらいました。
友部正人
11月20日(水) 架空の虫
東中野で打ち合わせをした後、新宿の東急ハンズに行きました。
新宿の南口を歩くのは久しぶりで、クリスマスのためなのか、プロムナードの電飾がとてもきれいに感じました。
横浜にいてたまに新宿のような場所に出てくると、ずいぶん田舎ものになったような気がします。「わあ、
こんな街でもう一度暮らしてみたいな」なんて一瞬だけ思うのですが、知らない人でどれだけにぎわっていても、住めばかえってさびしいだけだと思うのでした。
今日はユミの誕生日だったので、東中野でちょっとした買い物をしました。那須高原に住んでいる小沼寛さんという陶芸家の作った、虫の焼き物です。天道虫のような形ですが、ピンク色で長いしっぽがあり、宇宙の虫かもしれません。作った本人も何なのかわからないそうです。
打ち合わせというのは、1月にMIDIからでる「LIVE ! no media」のジャケットのことでした。デザインの宇佐美さんとご飯を食べながら2時間ぐらい相談しました。宇佐美さんには今まで、ぼくの「ブルースを発車させよう」と、「no media 1」「no media 2」のジャケットをデザインしてもらったことがあります。全部すごく新鮮でした。特に「no media 2」での古新聞の束にno mediaという文字をくり貫くアイデアは抜群でした。今回もいいジャケットになりそうです。
鎌倉芸術館でのぼくの30周年記念ライブのときには買えますから、それまでお楽しみに。
東京にはすばらしいものがあふれていて、お金さえあれば自分のものにできます。でもそうやって自分のものにすることはすばらしいことではなく、とても平凡なことで、すばらしいものが一杯ある東京には平凡な人も一杯いるということです。
人を平凡にする危険性の高い東京に、宇佐美さんのような人がいることがぼくには驚きです。
いろんなものでごちゃごちゃしていて、いつも工事中の都心の道路は、まるで誰かが考えた架空の虫のようでした。
友部正人
11月26日(火) 煙の町
今日は高知市でライブです。朝起きてホテルのコインランドリーで洗濯をしているところ。
11月22日から四国に来ていて、高松、徳島、川之江でライブをしました。川之江は初めて行った町です。製紙工場の煙突がにょきにょきと立っていて、白い煙がもくもくと空に噴き出している町。
自動車の中にいて窓を閉め切っていても、製紙工場の煙特有の匂いがしてきます。ところが、町なかの商店街に入ると、その匂いが気にならなくなるから不思議です。急に音のしない場所に出たような感じ。その商店街にジャラン・バリというインドネシア料理が主体のアジア料理店があって、そこでライブをしました。インドネシア料理というのは、ベトナムやタイの料理と似ています。辛さもベトナムとタイの中間ぐらい。
ライブの前にほとんどシャッターのおりた日曜日のアーケード街を散歩しました。そしたらキリン屋という靴屋さんのショウウインドウに、パティ・スミスの詩集やナン・ゴールデンの写真集がディスプレーして
あるではないですか。思わずその前にしゃがみこんで、ウインドウの中を覗き込みました。どうやらそのお店では、ショウウインドウをアートスペースとして開放しているらしいのです。小さなギャラリーです。
アンディ・ウォーホールやパンクの詩集など、ニューヨークが小さなスペースの中に詰まっていました。川之江の製紙工場の白い煙が見せてくれた幻のようでした。
友部正人
11月27日(水)綿ぼこり
名古屋クアトロでのライブが終わったところです。
生ギター一本だけの一人ライブでした。
今夜は「公園のベンチで」を久しぶりにやりました。
毎回、今まであまりやらなかった曲をやるようにしています。
ライブの後、主催の人たちと打ち上げをします。今夜は韓国料理を食べて、ぼくは日本酒を飲みました。
ライブの後ぼくは、ビールではなく日本酒を飲むようにしています。特に理由はないのですが。日本酒がないときは、紹興酒やワインを飲みます。ビールしかないときは、コーラを飲みます。なんとなく今はビールをさけているのです。
今夜はぼくが10代のころに居候していた劇団の人が聞きに来てくれました。ぼくはその劇団でその他大勢の役で芝居に出演したことがあります。10代のころにお世話になったせいか、血縁ではない兄弟に会ったような気がしました。とっくに足を洗ったのに、声だけは現役の役者のように大きかった。その声を聞いていると、綿ぼこりのたまった劇団の事務所が、ありありと浮かんでくるのでした。
ぼくが居候していたアパートで、ぼくは歌を書き、それをガリ版で印刷して綴じて本にして道端でそれを売ってお金を作り旅をしたのです。
あれから30年以上の時が流れ、劇団の万年床の上で書かれた歌も、布団のまわりにつもっていた綿ぼこりのように消えたのです。
友部正人
11月29日(金)楽しい集まり
 今夜は高砂市でシークレット・ライブがありました。
場所はイヌイットという名のレストランです。レストランといっても、スカイラークやデニーズのようなところとは違います。
廃材で建築された手作りのお店です。
店内にはまきストーブがあって、厨房の食器棚は廃校になった小学校のランドセル入れだったそうです。
主催はぼくの古い友達の玉田さん夫妻とイヌイットのご夫婦。
彼らの加古川周辺の文化的な飲み仲間たちが40人近く集まりました。
リハーサルのとき急に声が出なくなったぼくでしたが、本番はなんとか出るようになって、おしまいころはけっこうでかい声で歌っていました。なんでしょうね、こんな突然の声の変化は。
この夜のライブは各人料理持ち寄りで、ライブが終わった後の料理の豪華なこと。こんなぜいたくができる仲間たちのいる玉田くんたちがとてもうらやましかった。この集まりの人たちはみんな日本酒党で、いろんな感触の日本酒を楽しむことができました。ぼくの前に出演してくれたハーモニカとギターの二人とセッションもしました。そこにいる人の数だけおもしろいことが発生しそうな集まりでした。
そしてそのすべての人とおもしろいことを発生させるほどの時間はありませんでした。ほんの一部分だけぼくはそこでおもしろくすることができたとのですが、それだけでも十分なのでした。
高砂市のイヌイット、古い廃材が根を生やしそうなお店でした。
友部正人
11月30日(土)モウーッと弓削牧場
ツアーに出て1週間以上過ぎました。出番の前に、疲れていることがわかります。ニューヨークにいるときののんびりとした毎日が思い出されます。ツアーはある意味では戦いです。
自分という旅の友(かぜ?)との戦い。
今夜は神戸のバックビートで言葉の表現ということを軸にしたようなイベントがありました。出演者はぼくと双葉双一くんと詩人の福永祥子さんです。ぼくとユミは昨夜の主催者の玉田夫妻に車で加古川から神戸まで送ってもらいました。
三宮の手前で、ぼくがVOCEとライブをした弓削牧場が近いことがわかりました。それで主催の人に少し遅れると電話をして寄り道をすることにしました。
弓削牧場にはレストランがあって、そこでは牧場の牛や牧場で栽培しているハーブなどを使った料理やケーキなどが食べられます。
石鹸も作っています。みんなとても忙しそうに働いているけど、ビジネスという感じは全然しません。
六甲山に遠足に来ているような感じです。その楽しそうな様子が食べるものにも周りの山々にもあふれています。山全体が食べ物のように。だから訪れた人も楽しくなるのでしょう。そのほんの一部分に
しかさわれないとしても。
寄り道をしてリハーサルに遅れたぼくですが、そのおかげで妙に元気になってきて、演奏を楽しむことができました。
始まる前はどんなイベントになるのか想像がつかなかったけど、終わってみるとはじめからわかっていたみたいにいいコンサートになりました。
ホテルで翌朝目覚めてみると、テーブルの上には弓削牧場でおみやげにいただいたシフォンケーキと牛乳と生チーズがありました。弓削牧場の牛が運んでくれたような朝でした。
友部正人
12月1日(日) おいしい記憶
月の庭にいます。お店のすぐ隣の畳の間。こんな畳の部屋がぼくの生活にも欲しいです。
月の庭の岡田屋本店は元々は乾物屋さんでその後酒屋さん。
とてもおいしい日本酒がそろっています。ぼくは今夜は埼玉の「しんかめ」という日本酒を飲みました。たぶんとても酔っているのでしょう。
今夜は月の庭での3年ぶりのライブでした。多くの人が聞きに来てくれました。とても感激です。
11月22日から毎日のようにライブをしています。ライブが続くと、毎日のライブが楽しくなってきます。今日は何を歌おうかな、と。
時間はさかのぼりますが、名古屋のクアトロで、ピックを100枚以上プレゼントしてくれたお客さんがいました。おこづかいをもらった子供のような気がしました。とてもうれしかった。日本のお金がギターのピックだったらいいのにね。磨り減ったらそれで何かいいものを買うのです。
11月30日の神戸バックビートでは、共演の双葉双一くんの新しい歌がとてもよかった。言葉があふれてきてメロディと遊んでいた。
「双葉双一に気をつけて!」ですね。
月の庭のシェフ、岡田かおりさんは未来食と呼ばれるオーガニック料理の研究家です。厨房で料理を作るだけではなく、外に講演などにも出かけてるそうです。
今夜ぼくは一つ賢くなりました。ブロッコリーのゆで方と食べ方についてです。ブロッコリーはゆでると水切りがたいへんです。ペーパータオルでしぼると形がくずれてしまう。蒸せばいいのだそうです。なるほどね。
その蒸したブロッコリーに、マヨネーズと醤油をまぜたソースをかけて食べました。当たり目みたいです。とてもおいしかった。これならぼくにもできるし、やってみようと思いました。
8月に出雲のライブで主催の米山さんに教えてもらったタイ風玉子焼き、あれから頻繁に作って食べています。ナンプラーと少量のオイスターソースを味付けにした玉子焼き、ニューヨークでも食べていました。
今夜は月の庭でのライブでしたが、食べ物のことばかりになってしまいました。
友部正人
12月10日(火) 十日町コンサート
『TIMBUKTU』という本の英語版をやっと読み終えました。
ポール・オースターが書いたTIMBUKTUというのはこの世とあの世の境目のことらしいです。飼い主が先にそこに行ってしまい、それから何ヶ月かして犬のミスター・ボーンズもその後を追う、というような話です。野良犬の存在を許さないアメリカでは、犬が一人で生きていくのは不可能です。
ミスター・ボーンズは四角四面のいかにもアメリカ的な飼い主に受けさせられた睾丸除去手術が元で、病気になってしまいます。
回復の見込みのないことに気づいたミスター・ボーンズは、高速道路の向こうに見えるあの世との境目を目指して、元の飼い主に再会するために自動車の洪水に飛び込んで行きます。
ツアー中、何冊かの本を読み終えました。ぼくにしてはなかなかの読書量です。このあいだは、文庫本『アンネの日記・完全版』を持って十日町に向かったのですが、越後湯沢に着いたら、周りのスキー場に心奪われ、ついに50ページほどしか読めませんでした。
今ぼくの心には真っ白な雪のゲレンデが広がっています。
12月8日の十日町のコンサート、いつもの顔ぶれに新しい人たちも加わって、とても新鮮な雰囲気でした。会場は情報館と呼ばれる町の図書館でした。建物は天井まで吹き抜けになっていて、段々畑のように本の背が並んでいるのが見上げられます。
その奥の小さなホールは、雪国のカマクラのようでした。
そのせいか、お客さんたちも少ししーんとしていたかな。
友部正人
12月13日(金)
盛岡に着いた11日は、盛岡でもとても寒い日だったようです。
ぼくはニューヨークで買った皮の手袋をはじめて盛岡ではめました。
ずっと上着のポケットに入っていたのです。ぼくのポケットにはあまり使わないものがいろいろと入っています。
ライブをした場所はクラムボン。自家焙煎の珈琲屋です。
今どき珈琲だけで商売をしている店はめずらしくなりました。
歌だけで商売しているぼくのような店です。
当然のようにぼくにはとてもやりやすく、いくら25人しか入れないとしてもここでのライブはぜったいやりたい。(とてもせまい。)
翌日もぼくは盛岡にいて、雲遊天下の原稿のまとめをしていました。
ホテルで仕事なんてまるで作家みたい。夜はこうしょうさんという高校の国語の先生とジョニーというジャズ喫茶に。陸前高田にも本店のある東北では知られた店です。マスターの照井さんから誘われて、翌日FM岩手の彼の番組に出演しました。来年 1月12日の鎌倉のコンサートの宣伝をしました。番組は12月22日夜8時から放送されるようです。
昨夜は八戸のA7というライブハウスでライブ。はじめてのとてもきれいなお店でした。音もとてもよかったようです。主催は昔一緒にタイ・ツアーにも行ったことのある川守田くん。今は名川町の町会議員。
彼は有名なギター・コレクターで、手に入れたばかりのレリビーを持ってきて弾かせてくれました。音はもちろんよかったけど、貝殻を埋め込んだ装飾がすごかった。はずかしくてちょっとステージには持って上がれない。
打ち上げは「箱舟」という店。詩人でもあるそこの奥さんは、今ミシシッピー・ジョン・ハートに夢中で、楽譜をそろえてギターの練習をはじめたそうです。
聞かせてもらったけど、とてもよかった。60才を過ぎてギターをはじめるなんて本当にすてきですね。
今年の八戸は前回に比べてお客さんは少なかったのですが、ラジオ局の人が次回は強力に応援してくれるというので、また楽しみになりました。
というわけで今夜は仙台に来ています。これからライブです。
新幹線の中でディランの新しく出たライブ盤を聞きました。「ハリケーン」がとてもよかった。あんなにハキハキと歌っていたのですね。
昔だったらきっと完全に影響されてしまっていたでしょう。
友部正人
12月16日(月) 風邪の修理
風邪の子供と一緒にずっとツアーをしました。どうやらその子供は今はユミの後をついて歩いています。
今年、風邪とはすっかり仲良しになりました。熱が出るのもやったし咳がひどいのもやりました。両方とも歌うにはつらい風邪です。
ツアーの間中ずっと一緒だったのに、ツアーが終わったとたんに離れて行こうとしています。まだユミのそばにはいるみたいですが、ぼくからは離れつつあります。風邪はツアーにつきものなのでしょうか。
前回は仙台の火星の庭というブックカフェでこの日記を書きました。
その夜のライブは自分でもよかったな、って思っています。
場所はサテンドールという店でした。本棚に今では貴重なフォークリポートがあるような店です。働いている人たちも一生懸命でいい感じでした。
昨日は郡山のラストワルツ。去年はちょっと暗い感じがしたぼくのコンサートでしたが、今年は盛り返したかな。風邪がなければもっと打ち上げでがんばったのにな。残念ながら、12時ごろにはホテルに帰って寝ました。
横浜に戻り、家の近所のドリームボート・ギターズというギター屋さんに行き、修理をしてもらっていたギブソンを受け取りました。とても弾きやすくなっていた。楽器屋の主人は毎日そのギブソンを弾いていてくれたそうです。
「不思議な楽器ですね。30分ぐらい弾いていると、急に音がよくなってくるんです。」って言っていました。修理が必要な楽器ならたくさんあるので、またお願いしようと思います。
友部正人
12月17日(火) 忘れ物
仙台のブックカフェ、火星の庭に行くといつも買い物がしたくなります。それはきっといい店ということですね。
たくさんの本に囲まれていると、コーヒーを飲んだりパンを食べたりしていても落ち着かなくて、店内をうろうろし始めるのです。
その点ユミは、女同士のおしゃべりの方が楽しいようです。
オーナーの前野久美子さん、フリースペース・ゆんたの美樹子さんと3人で、他のお客さんなんて全く眼中にないかのように大声でしゃべりまくります。現在妊娠中の久美子さんなんて、セーターを捲り上げて少ししかふくらんでいないお腹まで見せて。
今回は、ずっと前に田中研二さんがオーストラリアに移住するときに餞別であげたしまった小熊秀雄全詩集があったので買いました。
1965年当時の定価の倍以上したけど、今新刊で出たとしたらきっともっと高いでしょう。
ぼくが一番楽しみなのは、CDやレコードのある小さな一角。
店のほんの一部分なんだけど、一番ぼくの目を引きます。
今回はCDばかり3枚、それも普段はあまり聞かないものばかり買いました。
ツアーの最後の方で、荷物が多くなっていたので、買おうかと思ったほかの何枚かはまた元の場所に戻しました。
ライブの後、ワインで盛り上がった仙台の打ち上げでしたが、ユミは打ち上げの店に帽子とマフラーを置き忘れ、今日火星の庭から、久美子さんがつくったサーターアンダギと一緒に郵便で届けられました。
今それを食べているところです。
友部正人
12月19日(木) ミラーボール
今日ではなおさんがこのホームページの管理人になってまる2年になる。明日は2年目の記念すべき日。
2年間このホームページが中断しなかったのは、離れていてもやりとりを欠かさなかったユミとはなおさんのおかげ。
ぼくはただ日記を書くだけでしたが、それでも、12月20日はぼくたちのクリスマス、ぼくたちのお正月。
また1年がはじまるよ。ホームページがあけましておめでとう。
BBSにはいろんな人が、いろんなことを書いてくれました。
主催者の人がライブの告知を書き込んで、それを読んで来てくれる人もだんだん増えてきました。それからBBSだけではなく、コンサートの会場でもぼくの日記の感想を言ってくれる人がいた。
これでもっといろんなことができるのかもしれないけれど、でも今でも十分生き生きしているのはいつもコンピューターのスクリーンの向こうに待機していてくれるはなおさんのおかげです。
どうもおりがとう。
そんな記念すべき日の前日に、ぼくとユミは品川のグロリア・チャペルであったリクオのクリスマス・コンサートに行きました。チャペルといってもちょっとしたクラシックの小ホールのようなところ。むちゃくちゃ雰囲気があります。しばらく見ないうちに余裕のエンタテイナーに変身していたリクオはおしゃべりもうまく、一観客としてぼくは演奏に聞き入っているのでした。
家に帰ってから、入場者にプレゼントされた2曲入りのCDを聞きました。
その2曲目がアンコールでやったクリスマスの歌だったので、コンサートの最後に回っていたミラーボールが横浜のぼくたちの家でも回りはじめたのです。目を閉じても止まらないミラーボール。
2年目のお祝いにはなおさんにも分けてあげましょう。
友部正人
12月21日(土)雪になりそな雨の夜
昨日は子安のガンボ・スタジオで1月12日のためのリハーサルをやった後、白楽のココペリ亭へ。以前バディやサムズアップにいたしんちゃんが11月に開いたばかりの店です。しんちゃんはココペリ亭の前は反町で駅前コロロン劇場という昭和初期風のカフェをやっていました。
ぼくは去年の夏しんちゃんにCoccoのビデオを借りたまま、まだ返していません。この間亀山の月の庭で彼女の自作の絵本を見ました。すごくきれいな絵。
ココペリ亭でぼくは韓国風味のブリカマとごはんと日本酒でした。
ロケット・マツは石焼きドライカレー。ドラムの龍太郎くんはまぐろの頭の肉のカツとビール、ユミはギリシャ・サラダと納豆入りナシゴレンとチーズときのこのなんとか。
マツは車で来てるのにはじめのうちホッピーなんか飲んでました。
こうやって具体的に食べた物を書くと、読んだ人たちもきっと行ってみたくなるでしょう?ぜひどうぞ。
今日は一日、今にも雪に変わりそうな雨でした。ぼくたちはその雨の中、横浜駅の東口にあるそごうデパートまで、ぼくが15年使っている旅行カバンの修理を頼みに行きました。
本当によく使ったカバンなのです。店に置いてくるときちょっとさびしかった。きれいな店員さんの手に抱かれて、ぼくのカバンはホームレスのようでした。
市立図書館のそばにジャズ専門の小さなCD屋があるのを見つけました。
今日は時間がなかったけど、今度またゆっくり行ってみます。
夜は、先日のリクオのライブのゲストに出ていた鈴木祥子さんのCDを聞きました。2年ぐらい前に出た、全部の楽器を自分で演奏しているアルバムです。かっこいいよ。だからもうすぐ吉祥寺のスターパインズであるソロ・コンサートにも行ってみるつもりです。
友部正人 
12月23日(月) ジャンプ
もうだいぶ前のことになるけど、横浜の市立図書館で小学生や中学生が働いていて、とても美しかった。
何かのイベントだったのかもしれないけど、日常化してもいいと思いました。子供がもっと町で働けばいいな。
明日はクリスマス・イブ、といっても何をするわけでもない。
送ってくれたバンジー・ジャンプ・フェスティバルの新しいCDを聞きました。バンジーの町田くんは、今年の2月のLive no mediaに飛び入りで出演してくれました。そのとき読んだ「スカートめくり」がぼくはこのCDの中で一番良かった。ぼくならシングル盤にするな。
全部いい曲ばかりだけど、特にそれが。
「星団の彼方へ」の中の「孤独が友達」というような歌詞は、50を過ぎたぼくにはもう歌えないな、と思うのです。そういう歌詞がまだ似合う町田くんの若さがうらやましい。
飛び入りの町田くんは入っていませんが、「Live no media 2002」が出来上がりました。今回はライブ盤なので、今までのものと雰囲気がちがいます。ジャケットもちょっと派手になりました。発売は来年の1月15日ですが、1月12日の鎌倉芸術館のときに先行発売します。
友部正人
12月25日(水) 歌声について
クリスマスの朝、アーロン・ネビルのクリスマス・ソングを聞きながら、声ということを考えはじめました。
もう何年も前、雨の大阪城野音ではじめてアーロン・ネビルの生の声を聞いて身震いしたこと。そういえばボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」に感動したのも、あの預言者のような声のせいだったのかもしれない。ポーグズというイギリスのバンドのシェーンという人の声にも気持ちをむちゃくちゃにかきたてられました。そういえば、昨日クラッシュのジョー・ストラマーがなくなりましたね。
日本人では奄美大島の朝崎郁恵さんという方の声がすごい。
男でも女でもない、風のような波のような大昔の記憶をかきたてられるような声です。奄美大島のラブソングには、男女だけではないようなところがあるから不思議です。
でもぼくは自分のうたを聞いてもそんな風には感動しません。
ぼくの声には人の心をかきみだすような力はないのかもしれません。
昨日吉祥寺のスターパインズカフェでライブをした鈴木祥子さんもすばらしい声を持っている人です。おまけに昨日は、E-CUPSという女性3人のコーラスグループがバックについていました。ほとんど声だけのコンサートだったのです。そんなコンサートを聞いたのでこうして声について考えてしまったのかもしれません。
ぼくがよく聞いている祥子さんのアルバムは「Love, Painful Love」です。
ピアノで弾き語りの祥子さんのライブは、そのアルバムとは少し雰囲気がちがいました。祥子さんがどんな音楽が好きか、ということがよくわかるコンサートでした。たくさんやったカバーの中でも、小学生のときに教会で歌っていたという2曲の賛美歌とバーバラ・リンの「It will suffer」(?)がよかった。祥子さんはそういった黒人演歌的(?)なものが合うのではないだろうか。アンコールのカウンティング・クロウズの曲は知らなかったけど、ニューヨークでコンサートに行ったことがあって、どんなバンドかは知っていた。若い女の子たちにとても人気があるみたいだった。祥子さんとは近々共演することになりそうです。
友部正人
12月26日(木) はなおさんがやってきた。
この冬は久しぶりに横浜で正月を迎えそうです。さて何をしてすごせばいいのやら。温泉はどこもお正月は満員のようです。
沖縄の黒糖ピーナッツとパウンドケーキを持って、はなおさんが我が家に遊びに来ました。今日は3人で忘年会です。
サーモンの燻製と白カビのチーズとモエ・ド・シャンドン。シャンペンなんて買ったのは本当に久しぶり。ユミはブロッコリーとかぼちゃのサラダと、納豆とひき肉とねぎを炒めたのをのせた玄米ご飯を作りました。
レンコンのきんぴらも作っていました。
はなおさんはみるからに風邪なのに、自分ではそれを認めようとはしません。認めたら風邪をひいたことになるからです。
はなおさんが友部正人ホームページ管理人になって2年がたちます。
ユミはニューヨークで買った虹の写真を集めたカレンダーをプレゼント。
一日遅れのクリスマスです。ぼくとユミの仕事にはなおさんが参加してくれるようになって、とても楽しい2年間でした。はなおさんは元々どんとのファンだった女の子。ある日ぼくのコンサートにやって来て、「花男です。」と自己紹介しました。もちろんそれは自分につけたあだ名だったのです。
ぼくらはまだ松本大洋の漫画「花男」を知りませんでしたが、ボ・ガンボスの「フラワーマン」はよく知っていました。「はなお」というあだ名は、その両方からきているそうです。
はなおさんはこれからもぼくたちの仕事を助けてくれることになっています。
どうぞよろしくね。飛び魚みたいに大きな目の女の子です。
今夜は楽しい音楽を固めて聴きました。久しぶりにデビュー当時の矢野顕子も聞きました。それからなんといっても盛り上がったのは、長野で歌い続けているジ・エンドこと桜井くんの話。桜井くんも参加している長野のライブハウス、ネオンホールのオムニバス盤を聞いていたら、お正月に長野に行きたくなってきました。新宿から高速バスに乗って。
うん、それもいいかもしれないな。
友部正人
12月27日(金) いつまでも。
原宿のギャラリー360°にオノヨーコの「From My Window」という個展を見に、ユミとでかけました。
My Windowとは彼女が暮らすニューヨークのダコタハウスの窓のことです。
そこから見えるセントラルパークとアッパー・イーストサイドの景色。
ぼくは一生そこから同じ景色を眺めることはないでしょう。
ニューヨークのぼくとユミのアパートは、そのダコタハウスのあるセントラルパーク・ウエストと72丁目の角からそんなに離れてはいません。
ニューヨークにいるときぼくは毎朝のように、セントラルパークからダコタハウスの窓を見上げています。(ぼくはどこがオノヨーコさんの部屋なのか知りません。)セントラルパークのすぐわきに建つ建物からは、自分がいつも見られているような気がします。
セントラルパークの真ん中には白鳥のいる湖があって、ダコタハウスはそのちょうど西側にあります。湖のほとりには桜の木があって、春になるとそれが満開になります。今日の個展の窓から見えた白い花を咲かせた木は桜ではないでしょうか。だとすると季節は春ですね。
今回の作品は、オノヨーコさんにとって、ダコタハウスの窓がどれだけ意味を持つかということがしみじみと伝わってきます。彼女の人生のすべてが、この窓に今は映っているのです。
ギャラリーの近くの古くからある喫茶店で藤原弥生さんというぼくらの古い友達とコーヒーを飲んだ後、渋谷のクアトロにバンジー・ジャンプ・フェスティバルのライブを聞きに行きました。ジョン・レノンのビートルズ、ジョー・ストラマーのクラッシュ、ロックは日本にイギリスから伝わったような気がします。イギリスのロックは、アメリカの土着的なロックから繊維だけを取り出して新しく別のロックという衣装をつむぎだしたようです。
それを今の日本はまとっているような気がします。バンジー・ジャンプもその上着をとても大切しています。彼らがそれをまとったまま、いつまでもジャンプし続けてくれることを願っています。
友部正人